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第2話 放課後、風の通る階段

林田凛が教室に入ったとき、窓の外の空は昨日よりも白が多かった。

 薄い雲が光を散らし、壁や机の表面にやわらかな明るさを流している。

 その曇天の下で、教室の時間は少し遅く進んでいるように感じられた。


 ホームルームの前、前の席の女子が振り返る。

 「おはよ、林田さん――あ、もう“リンリン”って呼んでいい?」

 凛は少し驚いて、それから笑った。

 「うん。そう呼ばれる方が慣れてる」

 「やった。じゃ、リンリン。今日の購買、焼きそばパン作戦立てよう」

 「作戦が必要なパンなの?」

 「うん、いくさだよ」

 その隣で日浦がくすくす笑った。

 「放課後は? 何か予定ある?」

 「うん、ちょっと……階段で人と会う約束があるの」

 「え、階段で?」

 「そう、階段」

 「窓際の王子?」

 「王子じゃないと思うけど」

 軽口に、凛は小さく首を振った。

 「ただ、風の話をするだけ」


 担任の水庭が教室に入ってきて、朝のざわめきが静まる。

 チョークが黒板に音を刻み、日付が白く浮かんだ。

 凛は筆箱を開けながら、無意識に最後列を見やる。

 昴は、今日も窓際で空を見ていた。

 手の甲の下に広げられたノートが、風を受けて少し膨らむ。

 その様子を見ているだけで、不思議と呼吸が深くなる気がした。


 一時間目は現代文だった。

 教科書に載っていたのは「風の記憶」という随筆。

 季節ごとに変わる風の匂いを題材にした、短い文章。

 凛はその行間を目で追いながら、昨日の昴の言葉を思い出していた。

 ――新しい場所の匂いは、願いの匂いに似てる。

 願いの匂い。

 文字にすれば奇妙なのに、耳で聞いたときは、どこか懐かしく感じた。

 まるで自分の中にも、同じ種類の感覚があったかのように。


 ページの端に小さく線を引いて、顔を上げる。

 昴の手元が目に入った。

 その指先が紙を押さえた一瞬――透けたように見えた。

 罫線が皮膚の下に淡く映り、光がそこだけ薄くなった。

 凛は息をのむ。

 まばたきのあと、もう透けてはいなかった。

 ただの光の反射。

 そう思おうとするほどに、胸の奥の温度が上がった。


 二時間目の数学。

 黒板の上に並ぶ記号の列を、凛はほとんど反射的に書き写していく。

 正しい順番で記号を並べれば、答えが出る。

 世界が整う手順がそこにある――そう思うと、少し安心する。

 その横顔を、昴が一瞬だけ見た。

 視線が触れたことに気づいたのは、ほとんど本能のようなものだった。


 中休み。

 森永が机を寄せてきて、お茶のパックを出す。

 「ねぇリンリン、七夕って何お願いする?」

 「まだ決めてない」

 「成績か、恋か、推しの当落か?」

 「三択の最後が現実的すぎる」

 笑いながらも、凛はふと窓の外を見る。

 雲がゆっくり流れ、空の白さが校舎の壁に溶けていく。

 ――空が近い。

 昨日も、同じ言葉を思った。

 今日の空は、まるで手が届くように低かった。


 昼休み。

 購買戦線の結果、森永と日浦は焼きそばパンを二つ手に入れた。

 「リンリンも行けばよかったのに!」

 「……昨日、もらったから」

 凛が言うと、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。

 けれど追及はしなかった。

 教室の中には夏のざわめきが満ち、どこかで蝉が鳴いている。


 午後の時間。

 時計の針が進む音がいつもより大きく聞こえる。

 凛は黒板を写しながらも、意識の半分を放課後に置いていた。

 階段。

 風。

 そして――昴。


 放課後のチャイムが鳴ると同時に、森永が声をかけてきた。

 「リンリン、今日は早いね」

 「うん。ちょっと、約束があるの」

 「例の階段?」

 凛は笑って頷いた。

 「風の観測」

 「詩人だなぁ」

 「それ、誰かさんの受け売り」


 凛は鞄を肩にかけ、教室を出た。

 四階と五階のあいだ――あの踊り場は、校舎の中でいちばん風が通る。

 窓が向かい合っていて、空気が息をしているように出入りする。

 そこに昴はいた。

 背を窓辺にあずけ、外を見ている。

 光の粒が髪の間を流れ、淡い輪郭をつくっていた。


 「早いね」

 凛が声をかけると、昴は微笑んだ。

 「風の音を聞いてた」

 「どんな音?」

 「今日は、眠そうな音」

 風は廊下を渡り、階段を撫でて抜ける。

 外の空気よりも、ここは涼しかった。


 しばらく二人は黙って立っていた。

 凛は、昨日から気になっていたことを口にする。

 「ねぇ、昨日の“冗談”……あれって、どこまで冗談なの?」

 昴は少しだけ目を伏せて、窓の外に視線を投げた。

 「冗談でいられるのは、誰かの“願い”が形になる前まで」

 「誰かの願い?」

 「うん。この町には、まだ言葉にならない“願い”がいくつも漂ってる。

 それに触れると、僕は……少しずつ薄くなる」

 「それって、どういう……」

 「僕は“願い星”なんだ」

 言葉は静かだった。

 説明というより、事実を告げる音のように。

 凛は口を開きかけて、閉じた。

 曇り空の中にある光が、昴の輪郭を柔らかく透かしていた。


 「願い星って、流れ星に願う、あの?」

 「そう。けど、本当は逆なんだ。

 人の願いに触れるために、星が降りてくる」

 凛は息を飲む。

 昴の声は淡々としているのに、どこか懐かしい響きがあった。

 「願いに触れたら、薄くなる?」

 「整えるから」

 「整える?」

 「願いは、たいてい“ずれ”から生まれる。

 時間とか、記憶とか、心の置き場所とか。

 僕はそのずれを一時的に整える。

 そうすると、僕の密度が少しずつ減っていく」

 「透明になる、とか?」

 「そう見えるだけ。実際は、存在の重みが減る」

 「……怖くないの?」

 昴は一度笑って、首を振った。

 「歩き終える感じに近いよ。

 長い坂を下り切って、息を吐くみたいな」

 「でも、終点が見えないなら、怖くない?」

 「見えないから、風を見る。

 確認――僕がまだ、ここにいるかどうか」


 凛は黙って頷いた。

 昨日と同じ言葉。

 けれど今日のそれは、まったく違う重みを持っていた。


 昴がポケットから一枚の紙を取り出した。

 少し黄ばんだコピー紙。

 四つ折りの跡が、何度も開かれた痕のように柔らかい。

 「これ、渡したかった」

 「なに?」

 「旧観測所の地図。天文部のOBが残したやつ。

 七夕の夜、屋上は閉鎖されやすい。

 でも、あそこなら空が広い。

 もし来たくなったら」

 凛は紙を受け取り、折り目をそっと広げた。

 校舎裏の細道、塀沿いの桜並木、倉庫の影。

 手描きの星印が、いくつも散っている。

 線は少し曲がっていて、それがかえって温かかった。

 「ありがとう。……本当に行っていいの?」

 「もちろん。鍵はかかってない。屋根も、もうないけど」

 「でも、空は見える」

 「うん。空は屋根を嫌うから」

 凛は小さく笑った。

 「詩人みたい」

 「言葉が古いって、よく言われる」

 「私は好き。そういう言葉」


 ふたりの間を、風が通り抜ける。

 地図の端がかすかに揺れ、光を受けてきらりと瞬いた。

 その一瞬、紙の上の星印が淡く滲んだように見えたが、すぐに元に戻った。

 ――見間違い。

 けれど、心の中ではもう、言い訳が効かなくなっていた。


 「リンリンは、七夕に何を願う?」

 「まだ決めてない。

 私、願いを言葉にするのが下手みたい」

 「下手でいい。

 言葉になる前の方が、本物だから」

 「昴は?」

 「僕は、自分のためには願えない」

 「ずるい世界」

 「そういう設計なんだと思う」

 昴は少し笑い、視線を外に向けた。

 窓の外の風が髪を撫で、光を散らす。

 「……でもね」

 声は小さかった。

 「ときどき、何かが引き戻す」

 「引き戻す?」

 「願いの向きが、僕の方を向くときがある」

 凛は息をのむ。

 それが誰の願いなのか、聞かなくてもわかった。


 廊下の上から、サッカー部の駆け足が近づく音がした。

 ふたりは手すりの影に少し身を引く。

 風が通り、髪がわずかに揺れた。

 昴は階段を降りる前に、短く言った。

 「また明日」

 「うん、また明日」


 凛は踊り場に残り、手にした地図を畳む。

 風の通り道の中に立つと、身体の輪郭が溶けていく気がした。

 けれど、手すりは冷たく、地面は確かだった。

 “ここに在る”――その感覚を、もう一度確かめるように指先を閉じる。


 校門を出るころ、雲は少し切れて青が覗いていた。

 森永からメッセージが届く。

 《明日、短冊買いに行こ! 商店街の文具屋でかわいいの見つけた》

 凛は《行く》とだけ返して、空を見上げた。

 ――七夕まで、あと五日。


 夕方。商店街では笹の準備が始まり、花屋の前に束が並んでいた。

 凛は立ち止まり、笹の青い匂いを吸い込む。

 それは確かに、“願い”の匂いがした。

 昨日、昴が言ったとおりだ。

 胸の奥に静かに灯がともる。

 消えるものと、残るもの。

 その境界が、少しだけ形を持ちはじめていた。


◇◇◇


 夜。

 机の上に広げた地図の上を、風鈴の音がすべっていく。

 凛はペンを取り、余白に小さく書き込んだ。

 “七夕まで五日。風、南東。空、白多め”

 文字を書き終えると、静かに息を吐く。

 今日の出来事を思い出しながら、ノートに一行だけ書き足した。

 “風の通り道に、願いの入口がある。”


 窓の外では、雲がゆっくり流れている。

 明日も空はきっと近い。

 昴の言う「確認」という言葉が、凛の中で静かに反響していた。

 ――今日も、私はここにいる。

 ――そして、彼も。

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