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第1話 転校生と空を見上げる少年

林田凛が目を覚ましたのは、いつもより少し早い朝だった。

 カーテンの隙間から射し込む光は、まだ熱を持ちきらず、天井の白さを優しく撫でている。段ボールがいくつも積まれた新しい部屋には、昨日までの生活の匂いがわずかに残っていた。半分ほど開いた衣装箱、寝かせたままの制服、机の隅に並んだ文房具。そのどれもが、まだここが「仮の居場所」であることを告げている。


 台所から、鍋のふちが小さく鳴る音が聞こえた。味噌汁の湯気と一緒に昆布の香りが流れてくる。

 「緊張しないでね」

 背中越しに母の声が届く。凛は、返事の代わりに「うん」とうなずいた。

 この言葉を、何度聞いただろう。転校を繰り返すたびに、朝の食卓は少しずつ軽くなっていく。もう期待も慰めもない、ただの合図。だからこそ、凛はいつもよりゆっくり味噌汁を口にした。昆布のだしが、舌の上で少し甘い。


 制服の襟を整え、外へ出る。

 坂道の下から見上げた空は、薄い青と白のあいだをゆらいでいた。朝の風が頬をなで、髪をわずかに持ち上げる。鞄の中で筆箱が鳴り、歩くたびにかすかに音が響いた。

 ――今日から、また新しい空。

 その言葉を、心の中でひとりごとのように繰り返す。


 学校は坂の上にある。

 登りきる頃には、額にうっすらと汗が滲んだ。校門の上には、朝日を映す校章。白い壁と透明な窓が、まだ始まったばかりの一日を反射している。

 昇降口のガラス戸を開けた瞬間、凛の肩にかかる空気の重さが変わった。新しい土地、新しい教室、新しい人たち。何度経験しても、最初の一歩だけは慣れない。

 ――今日は、どんな顔をすればいいんだろう。


 ホームルームは静かに始まった。

 担任の水庭先生が、淡いチョークの粉を指先ではらいながら言った。

 「今日から新しい仲間が増えます」

 黒板に書かれた名前を見て、凛は一度だけ呼吸を整える。

 「林田凛です。よろしくお願いします」

 声は震えなかった。拍手がいくつか散り、周囲の空気が一瞬だけ柔らかくなる。

 けれど、それは波紋のようにすぐ静まっていった。


 そのとき、窓際の最後列で、ひとりの少年が空を見ていた。

 授業でもないのに、黒板ではなく外を見上げている。怠けているようにも、退屈しているようにも見えなかった。ただそこに空があるから、自然に見上げている――そんなふうだった。

 髪が少し光を透かして揺れる。頬には穏やかな影。

 彼がふと視線をこちらに向ける。目が合った。

 その瞳は、夏の空の一段奥の色をしていた。

 凛は一瞬、息を忘れてしまう。彼は軽く会釈をした。凛も、反射のように頭を下げた。

 それだけの仕草で、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 昼休み。購買部は、まるで戦場のようだった。

 パンが次々に売れていき、凛が手を伸ばしたときには、人気の焼きそばパンはもう空だった。仕方なく教室へ戻ると、机の上に三角に折られた紙が置かれていた。

 《焼きそばパン、半分どうぞ》

 細く丁寧な文字。だが名前はない。

 不思議に思いながら周囲を見回すと、窓際の最後列――あの少年がパンの袋を軽く傾けていた。半分だけ減った中身が見える。


 凛は紙を手にして近づいた。

 「これ、君?」

 少年は顔を上げ、穏やかに笑った。

 「うん。お裾分け」

 「どうして?」

 「半分で足りる日があるから」

 「……そういう日、今日?」

 「うん。今日はそんな日」


 短いやり取りのあと、二人の間に静かな空気が流れた。

 凛は沈黙が苦手だった。知らない人との間にできる沈黙は、いつも冷たく、居心地が悪い。だがこの沈黙だけは違った。

 どこか、風の抜け道みたいに軽くて、涼しかった。


 昴――と、彼は名乗った。

 名前を聞いた瞬間、凛は思った。

 ――空みたいな名前。

 その印象が、そのまま彼の雰囲気と重なった。


 放課後。

 坂を下る道、凛の足音にもう一つの足音が重なる。振り返ると、昴がいた。

 「同じ方向?」

 「うん。たぶん」

 彼の歩幅は穏やかで、無理に合わせるでもなく、自然と隣を歩く。

 「この町、風がよく通るね」

 「坂だから。風は、登るより下るほうが好きなんだ」

 「人も?」

 「人は、楽な方を選んだあとに、理由を探す」

 「……難しいね」

 「難しくないよ。願いも同じだから」


 その言葉に、凛は少し首をかしげた。

 「願い?」

 「まだ誰のものでもない時の匂いが、風にはある。願いが生まれるときの匂いだよ」

 「変わったこと言うね」

 「よく言われる」


 横断歩道の信号が点滅する。二人の影が重なって、また離れた。

 ふと、凛は尋ねた。

 「どうして、そんなに空を見てるの?」

 昴は一瞬だけ目を細め、空を仰ぐ。

 「確認。僕がまだ、ここにいるかどうか」

 「え?」

 「僕、もうすぐ消えるんだ」


 冗談みたいに、当たり前のように言った。

 凛は思わず笑う。

 「転校生を驚かせる定番のやつ?」

 昴は軽く笑い返した。

 「冗談にしておこう。今日は」

 「今日は、ね」

 言葉が風に混ざって流れていく。

 坂道の先、夕焼けがオレンジ色の影を地面に落としていた。


 分かれ道で、昴が手を振る。

 「また明日」

 「うん。また明日」

 凛はその背中を見送りながら、小さく息をついた。

 ――不思議な人。

 でも、嫌な感じはしない。


 家に戻ると、段ボールの数が朝より減っていた。母が少し片づけてくれたらしい。

 机の引き出しを開けると、中に三角に折られた紙がもう一枚。

 《焼きそばパン、おいしかった?》

 思わず笑みがこぼれる。

 ペンの線はやっぱり細く、丁寧で癖がない。

 凛は椅子に座り、窓の外を見た。夕空には、まだ星は少ない。

 でも――今日は、少しだけ近くに感じた。


 夜、ベッドに横たわる。

 天井の暗がりを見つめながら、凛は今日一日の出来事を思い出した。

 自己紹介。焼きそばパン。空を見上げる横顔。透けて見えた気がした手。

 ――透けた? 本当に?

 まぶたの裏で、光の残像がゆらめく。

 「光の加減、だよね」

 自分に言い聞かせて、笑ってみる。

 窓の外から、風鈴が一度だけ鳴った。

 夏の音が、部屋の中に溶けていく。


◇◇◇


 翌朝。

 学校へ向かう坂道の風は昨日より強く、笹の葉をざわめかせていた。校門脇には七夕飾りの準備が進められている。

 教室に入ると、窓際の最後列に昴がいた。やはり、空を見ている。

 凛――いや、友人たちが呼ぶように「リンリン」は、少しだけ勇気を出して手を振った。

 昴が、かすかに笑って頷く。

 その笑みを見て、凛は胸の奥で何かが静かに溶けるのを感じた。


 一時間目の終わり。

 休み時間のざわめきが少し落ち着いたころ、昴が席を立ち、凛のほうへ歩いてきた。

 「林田さん」

 「ん?」

 「放課後、階段で少し話せる?」

 「……うん」


 その約束が、凛の心の中で、星のように瞬いた。

 何を話すんだろう。

 昨日の冗談のこと? 空のこと? それとも――。


 窓の外、薄雲の向こうで光がにじむ。

 まだ七月の始まり。けれどこの空の下で、たしかに季節が動き出していた。

 凛は知らない。

 この七日間が、彼の最後の時間になることを。

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