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播磨の錬金術師~織田信長が最も恐れた男~

作者: 輝夜

序章:観測者たる赤子


意識は、まず音から始まった。

くぐもった、それでいて絶え間なく続く鼓動。ドクン、ドクン、と低いリズムが全身を揺らす。次に感じたのは、水の感触。生暖かく、粘り気のある液体が、私という存在の全てを優しく包み込んでいる。暗い。どこまでも深い闇。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、ここは宇宙空間の無重力ポッドの中にいる時よりも、遥かに安らかで満ち足りていた。


(思考実験サンプル『生命の起源』における、初期培養槽の環境データと酷似…いや、それ以上の完全な調和状態だ。ここは、どこだ?)


私の意識――そう、確かに「私」としてのアイデンティティは存在した。西暦三九八七年生まれ。統合知性体研究所所属、第零領域研究主任。専門は超次元物理学と、それを応用した物質変換理論。人々が古の言葉で「錬金術」と呼んだ奇跡を、科学の俎上に載せることを生涯のテーマとしていた、十八歳の女。それが、私。

つい先ほどまで、私は高エネルギー粒子の衝突実験を監督していたはずだった。暴走した対消滅反応炉の光に呑まれたのが、最後の記憶。だとすれば、ここは死後の世界か?あるいは、緊急脱出ポッドが機能し、コールドスリープ状態で治療を受けているのか?


仮説を立て、検証しようにも、情報が絶対的に不足していた。できることは何もない。ただ、この揺りかごのような微睡みに身を任せるだけ。時間の感覚は希薄で、数時間なのか、数日なのか、あるいは数ヶ月が経過したのかも定かでない。ただ、鼓動の音だけが、私がまだ「存在」していることの唯一の証明だった。


その平穏は、唐突に破られた。


ぐわり、と世界が歪む。これまで感じたことのない、強烈な圧迫感。外から、内から、未知の力が私を押し潰そうとする。温かい水が引き、代わりに空気が肺に流れ込んでくる。違う、これは空気じゃない。暴力だ。灼けるような痛みを伴う情報の奔流が、私の呼吸器を蹂躙する。


「うぎゃああああああああっ!」


声。それは私の意志とは無関係に、喉から迸った純粋な生命の叫びだった。光が、網膜を焼き尽くすほどの純白の暴力となって突き刺さる。音が、鼓膜を破らんばかりの怒号となって乱れ飛ぶ。誰かの大きな手のひらが、逆さになった私の背中を叩く。痛い。寒い。苦しい。理解できない。ありとあらゆる感覚器官が、許容量を遥かに超えたシグナルを脳へと送り付け、私の意識は灼熱の光の中で霧散した。


これが、私の二度目の誕生だった。

播磨国、置塩城。赤松家当主・赤松義祐の嫡男として生を受けた、その瞬間である。

時に、永禄二年、西暦一五五九年。

もちろん、その時の私に、そんなことを知る由もなかった。



意識が再び像を結んだ時、私は白い布にくるまれ、誰かの腕に抱かれていた。

ぼんやりとした視界に映るのは、巨大な人間の顔。眉は太く、目は優しげに細められているが、その奥に深い疲労と、隠しきれない喜びが滲んでいる。唇が動き、音が発せられる。


「…おお…我が子か…!ようやった、祥雲!見事な玉のような若君じゃ!」


(言語…?データベースに該当なし。古代日本語の一種か?発音から形態素解析を…いや、無理だ。脳が、思考の速度についてこない)


思考が、粘性の高い泥に捕らわれたかのように鈍重だった。前世ではナノ秒単位で並列処理を行っていた私の脳が、今は一つの事象を理解するだけで精一杯だった。そして何より、この身体。手足を動かそうとしても、微かに震えるだけ。首を持ち上げることすらできない。視界は常にぼやけ、焦点が合わない。声を出そうとすれば、意味のない母音か、けたたましい泣き声にしかならない。


完全な無力。完璧な牢獄。

私は、赤子という名の、不自由極まりない生命体に成り果てていた。


絶望するには、まだ早かった。私は科学者だ。未知の状況に陥った時、まず行うべきは観測と分析。パニックは思考停止を招くだけの非効率な感情だ。私は、この無力な身体で得られる限りの情報を収集し、現状を把握することに全力を注いだ。


まず、周囲の人物。

私を抱き上げ、頬を寄せ、優しい匂いをさせる存在。これが「母」だろう。彼女は「祥雲しょううん」と呼ばれていた。彼女の声は常に柔らかく、私に安らぎを与えた。

次に、力強い腕で私を抱き上げ、高い高いをする存在。これが「父」らしい。彼は「義祐よしすけ」という名で、この家の主のようだった。彼の声には威厳と、時折、苛立ちが混じった。

そして、定期的に私の顔を覗き込みに来る、厳つい顔の老人。父は彼を「父上」と呼んでいたから、これは「祖父」か。彼は「晴政はるまさ」と呼ばれ、その眼光は常に厳しく、父と顔を合わせるたびに空気が張り詰めた。


彼らの交わす言葉は、当初、意味不明な音の羅列でしかなかった。だが、私の脳は、その不自由さの中にあっても、パターン認識と解析能力だけは失っていなかった。単語と事象を結びつけ、文法構造を類推し、僅か数ヶ月で、私はこの世界の言語体系をほぼ完全にマスターしていた。


そして、自分の名前を知った。

播磨丸はりままる」。

父が、母が、乳母が、侍女たちが、愛おしげに、あるいは祈るようにその名を呼んだ。


(播磨…?確か、父と祖父の会話で頻繁に出てきた地名だ。この一帯を指す言葉か。それを丸ごと、私の名前に?なんという…重いネーミングセンスだ)


科学者としての私の本能が、その名前に込められた尋常ならざる意味を嗅ぎ取っていた。それは単なる愛称ではない。期待、願望、そしておそらくは、焦燥と危機感の現れ。この家は、この「播磨」という土地に対して、何らかの強い執着、あるいは失いかけている権威を持っているに違いない。


観測を続けるうち、その推論は確信へと変わっていった。

私の住まうこの「城」と呼ばれる建物は、木と紙と土でできた、壮麗ではあるが見るからに燃えやすそうな家屋だった。庭は広く、手入れが行き届いている。侍女や家臣と思しき人間が数多く出入りし、一見すれば、非常に裕福で権威のある暮らしに見えた。


だが、聞こえてくる会話の断片は、その見た目とは裏腹の現実を突きつけていた。


「また浦上様から御献金の催促が…」

「置塩の蔵も、もはや底が見えておりまする」

「お屋形様(父・義祐のこと)は、また御爺様(祖父・晴政のこと)と口論を…」


浦上うらがみ。この単語は、常に重苦しい響きを伴って語られた。家臣のはずの浦上という存在が、主人であるはずの我が家に金を要求している。そして、家にはその金がない。父と祖父は、その対応を巡って常に対立している。


ある日のこと。

縁側で乳母の膝に抱かれていた私は、父と祖父の怒声が飛び交う場面に遭遇した。


「浦上の言いなりになりおって!それでも赤松の当主か!この晴政が築いたものを、貴様が食い潰しておるわ!」

祖父・晴政の雷のような声が、障子を震わせる。

「父上が家を割るような真負をされるからでしょうが!家中が乱れていては、浦上にも付け入る隙を与えるだけ!私とて好きで頭を下げているわけではございません!」

父・義祐も、普段の気弱さをかなぐり捨てて応戦する。


(なるほど。観測データに矛盾があったわけだ。仮説を修正しよう。この家は『見栄っ張りな貧乏貴族』などではない。『実権を家臣に奪われ、内紛で自壊寸前の、詰んでる名門』だ)


冷静に分析する思考とは裏腹に、私の身体は本能的な恐怖で震え、泣き叫びたい衝動に駆られた。赤子の身体は、論理よりも感情に正直だ。私はぐっと涙をこらえた。泣いたところで、何も解決しない。科学者は、泣く前に分析し、次の行動を考える。


母・祥雲が泣きながら二人の間に割って入り、その場はなんとか収まった。だが、私の心には、冷たい危機感が刻み込まれた。このままでは、この家は潰れる。私も、この穏やかな日常も、全て失うことになる。



季節が巡り、私は生後半年を迎えた。

最初のブレークスルーは、「首がすわった」ことだった。これまで天井しか見えなかった世界に、奥行きが生まれた。次いで「寝返り」。これで、自分の意志で視界を変えられるようになった。私にとって、それは牢獄の壁に小さな窓が開いたような、革命的な出来事だった。


そして、ハイハイの開始。

それは、私に「研究室」を与えられたに等しかった。

父や母が目を離した隙に、私は高速で移動し、部屋の隅々まで探検した。畳のい草の匂いを嗅ぎ、その繊維構造を指先で確かめる。柱の木の感触、障子紙の脆さ、火鉢に残った灰の粒子。全てが、私にとって未知のサンプルであり、貴重なデータだった。


(この世界の物理法則は、私の知るものと同一か?少なくとも、巨視的にはニュートン力学が支配しているようだ。だが、微視的なレベルでは?物質の最小単位は?私の『錬金術』は、この世界でも通用するのか?)


前世の私の能力――物質変換。それは、超高エネルギーを投入することで原子核や電子の配列を強制的に組み替え、ある物質を別の物質に変える技術だった。鉛を金に変える、などという古典的な夢も、理論上は可能だ。ただし、それには恒星内部に匹敵するほどの莫大なエネルギーが必要となる。私の研究所では、小型の対消滅反応炉を用いてそのエネルギーを供給していた。


今の私には、何もない。あるのは、この脆弱で、燃費の悪い、赤子の身体だけ。

エネルギー供給なしに、物質変換は不可能だ。物理法則を無視した魔法ではないのだから。


(いや、待てよ…)


思考の片隅に、一つの可能性が閃いた。

もし、この世界の「物理定数」が、私の知る宇宙のものと僅かに異なっていたら?例えば、プランク定数や真空の誘電率に、観測不可能なレベルでの差異があったとしたら?その場合、物質を安定させているエネルギーの谷は、私の世界よりも浅いかもしれない。つまり、より少ないエネルギーで、原子の結合を組み替えることができる可能性がある。


実験してみるしかない。

最小単位での実験を。誰にも気づかれず、何の危険もない方法で。

私は、実験対象を選定した。庭に無数に転がっている、指の先ほどの小さな石ころ。ありふれたケイ素酸化物。誰も、それが一つなくなったところで気にも留めないだろう。


その日も、父と祖父は言い争っていた。テーマはやはり、浦上氏への対応だった。父は融和策を、祖父は強硬策を主張し、議論は平行線を辿る。その緊迫した空気の中で、私はただ静かに、二人の顔を交互に見つめていた。

このままでは、駄目だ。

この家が崩壊する前に、私自身が「力」を持たねばならない。生き延びるための、世界を解析し、あるいは作り変えるための力を。



永禄三年、西暦一五六〇年。

私は、一歳の誕生日を迎えた。

伝い歩きを始め、行動範囲は格段に広がった。意味のある単語を発することもできるようになった。「ま…ま…(母)」「ち…ち…(父)」。そのたびに周囲の大人たちは大喜びしたが、私の内面はもどかしさで煮え繰り返っていた。違う!「母体」と言いたいんだ!「父権者」!ああ、このもどかしい語彙力!


誕生日の祝いは、ささやかなものだった。家の財政状況を考えれば、当然だろう。それでも、父と祖父は、この日ばかりは私の前で笑っていた。二人が並んで私を見下ろす、その奇跡のような光景に、私の胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。この小さな平穏を、守りたい。初めて、そう思った。


その数日後。

城内に、一つの報せが衝撃となって駆け巡った。


「申し上げます!尾張の織田信長なる者が、駿河の今川義元を、桶狭間にて討ち取りたる由にございます!」


伝令の家臣が、息を切らせてそう叫んだ。

広間にいた家臣たちの反応は、鈍いものだった。

「ほう、あのうつけがか」

「今川も落ちたものよ。東国の蛮族同士の小競り合いなど、我らには関わりのないこと」


彼らは、それがどれほど重大な意味を持つのか、理解していなかった。

だが、私は違った。


(織田信長…?今川義元…?桶狭間…?)


前世で聞きかじった、数少ない歴史の知識。数千年前の、遠い過去の出来事。だが、その名前は、あまりにも有名だった。それは、日本の歴史が大きく動く、決定的な転換点。

自分が今いるこの時代が、まさにその「歴史」の渦中であることを、私は初めて明確に自覚した。

背筋を、氷のように冷たいものが走り抜けた。


(まずい。非常に、まずい)


私の乏しい知識でも、戦国時代の勝者の名前はいくつか知っている。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。その中に、「赤松」という名前はなかった。

つまり、この家は、いずれ歴史の波に呑まれて消える、敗者なのだ。


(いつ?どうやって?この親子喧嘩が原因か?それとも、あの浦上とかいう家臣に滅ぼされるのか?いや、今はそんなことどうでもいい。重要なのは、このままでは私も一緒に滅びるということだ!)


焦燥感が、全身を焼き尽くす。

悠長に観測している場合ではない。この非効率な身体でも、やれることをやるしかない。

未来の知識を持つアドバンテージは、私にはない。歴史の教科書など、とうの昔に忘れた。だが、私には、この世界の誰も持たない、もう一つの知識がある。


科学。そして、錬金術。


その夜、私は決行を決意した。

誰もが寝静まり、城が深い静寂に包まれるのを待つ。隣で寝息を立てる乳母の呼吸が安定したのを確認し、私は音も立てずに寝床を抜け出した。鍛え上げた(と言っても赤子レベルだが)脚力で、縁側までハイハイで進む。

月明かりが、庭を青白く照らしていた。

昼間に目をつけておいた、親指の爪ほどの大きさの石ころを、震える手で拾い上げる。冷たく、ざらりとした感触が、掌に伝わった。


深呼吸する。赤子の小さな肺では、満足に酸素を取り込むこともできない。

だが、やるしかない。


私は目を閉じ、全神経を右手に握った石ころに集中させた。

前世の記憶を呼び覚ます。物質の構成式、原子の配列、電子軌道、エネルギー準位。私の脳内で、超高速の演算が始まる。赤子の未熟な神経系が、過負荷に悲鳴を上げるのが分かった。脳が、内側から沸騰しそうだ。


(構成要素…ケイ素(Si)、酸素(O)…結合エネルギーを計算…これを弛緩させ、エネルギー準位を励起…再構成…目標、金(Au)…!)


思考した瞬間、全身のエネルギーが吸い取られるような感覚に襲われた。無理だ。金への変換など、この身体では自殺行為に等しい。エネルギーが絶対的に足りなすぎる。


(プランBへ移行!より単純な構造変化…光るもの…そうだ、リン(P)の同素体、黄リンへの部分変換なら…!発光現象だけを引き起こせればいい!)


目標を再設定し、残った全ての精神力を注ぎ込む。

汗が額から噴き出し、心臓が破裂しそうなほど激しく高鳴る。指先の石ころに、全ての意識を、祈りを、叩きつける。変われ。変われ。私の知る法則に従って、姿を変えろ!


――パッ。


突如、私の掌で、淡い光が灯った。

蛍の光のような、儚く、それでいて確かな緑色の光。

それは一瞬で消えたが、確かに見えた。指先には、微かな温もりと、ほんの少しだけ組成の変わった、きめ細かい砂が残っていた。


成功だ。

奇跡は、起きた。

私の科学は、この未知の世界でも通用する。


しかし、その代償は、想像以上に大きかった。

成功を認識した瞬間、全身から力が抜け、視界が急速に暗転していく。まるで、身体中の電池を使い切ったかのように、意識が遠のいていく。最後に聞こえたのは、自分の荒い呼吸音と、遠くで響く、鹿の鳴き声だけだった。


縁側で冷たくなっている私を発見したのは、夜明け前、厠に立った侍女だった。

「播磨丸様!」「若君が!」「お熱が、火のように!」

城中は、大騒ぎになった。


高熱にうなされ、朦朧とする意識の中、私は一つの確信を抱いていた。

できる。

この世界でも、私は「錬金術師」でいられる。

……ただし、この赤子の身体が、私の思考と能力に耐えられない。これは、途方もなく長く、困難な戦いになるだろう。


数日後、ようやく熱が下がり、私は母・祥雲の腕に抱かれていた。縁側から見える庭には、昨日と同じように、無数の石ころが転がっている。

私は、その一つをじっと見つめた。

その瞳には、もはやただの赤子のものではない、深淵なほどの知性と、困難な未来へたった一人で立ち向かうことを決意した、静かな光が宿っていた。


第一部:神童、家計を救う

第一話:キラキラの在り処


一歳の誕生日を境に、私の世界は変わった。

桶狭間での劇的な勝利により、「織田信長」という名は、遠い東国の出来事でありながら、置塩城の片隅にも無視できない重みをもって響き渡った。家臣たちの噂話にその名が混じるたび、私は歴史の敗者である「赤松」という家に生まれた己の運命を呪い、同時に、この非力な赤子の身体で何ができるかを必死で考え続けた。


あの日、庭の石ころを光る砂に変えることに成功した私は、自らの能力の「仕様」と「制約」を正確に理解した。


第一に、私の錬金術は、この世界でも物理法則のくびきから逃れられない。等価交換が原則であり、無から有を生み出す魔法ではない。

第二に、変換プロセスに必要なエネルギーは、全て私の生命力――この場合は赤子の貧弱な身体に宿る熱量や生体エネルギー――で賄われる。

第三に、そのエネルギー効率は絶望的に悪い。指先ほどの石ころの組成をわずかに変えるだけで、高熱を出して数日寝込む。鉛を金に変えるなどという派手な錬成を行えば、おそらく私はその場で灰になるだろう。


(詰んでる…)


それが、二度目の人生における、私の最初の絶望だった。

空を飛ぶことも、山を吹き飛ばすこともできない。それどころか、自分の足で満足に歩くことすらおぼつかない。私にできるのは、夜陰に紛れて誰にも見られぬよう、庭の石ころを相手に地道な基礎研究を繰り返すことだけだった。


「播磨丸様は、本当にお石がお好きでございますなあ」

乳母の志乃しのは、私が庭に下りるたびに石ころを拾い集め、飽きずに掌で転がしている姿を見て、目を細めた。違う。これは遊びじゃない。来るべき日に備えた、必死の能力向上訓練だ。

私は試行錯誤を繰り返した。石ころの分子構造を脳内でシミュレートし、最もエネルギー効率の良い変換経路を探る。最初はただ光らせるだけだったのが、やがて砂鉄のように磁性を帯びさせたり、脆く崩れやすい性質に変えたりと、少しずつ制御の精度を上げていった。それでも、代償として訪れる疲労感は凄まじく、一日の大半を眠って過ごす「よく寝る若君」という評価を不動のものにしていた。


そんな日々が二年ほど続いた、私が三歳になった春のこと。

事件は、父・義祐の書斎から聞こえてきた、母・祥雲の悲痛な声から始まった。


「殿、もうおやめくださいませ!これ以上は、お身体が持ちませぬ!」

「離せ、祥雲!やらねばならぬのだ!浦上の奴ら、またしても矢銭やせん三千貫を要求してきた!今度ばかりは、蔵に銭など一文たりとも残っておらんわ!」

「なればこそ!なればこそ、御爺様(晴政)とご相談なされませ!一人で抱え込んでは…」

「父上に相談だと?『それ見たことか!』と儂を罵り、浦上と一戦交えると言い出すに決まっておる!今、戦など起こせば、赤松は滅びるのだぞ!」


私は、障子の影からそっと中の様子を窺った。

父が、床に広げた白紙の巻物を前に、鬼の形相で筆を握りしめている。その隣では、母が涙ながらに父の腕に縋り付いていた。巻物の内容が何であるかは、私にはすぐに分かった。それは「借用書」だ。おそらく、京の商人か、あるいは寺社から金を借りようとしているのだろう。だが、没落寸前の赤松家に、もはや金を貸す物好きなどいるはずもなかった。父は、書くべき相手もいない借用書を前に、ただ己の無力さを噛み締めていた。


(三千貫…)


前世の通貨価値に換算すると、億単位の金額だ。私が毎夜こつこつと石ころを砂金に変えたところで、到底追いつく額ではない。仮にそれだけの砂金を錬成できたとして、その出所をどう説明する?播磨丸が触るもの全てが金に変わる、などという噂が広まれば、私は化物として織田信長あたりに捕獲され、生体錬金ユニットとして解剖されるのが関の山だ。


直接的な物質変換は、悪手だ。

もっと、間接的で、持続可能で、そして何より、この家の「権威」を高める形で富をもたらす方法…。


私の脳裏に、前世で学んだ地質学の知識が閃光のようにきらめいた。

そうだ。金(Au)そのものを錬成するのは、エネルギーコストが高すぎる。だが、金の在り処を「発見」するだけなら?

私は思考を切り替えた。この城にある、播磨国の地図はどこだ?


その夜から、私の探検範囲は様変わりした。これまでは庭の石ころや建材の分析に終始していたが、目標は城内の「書庫」あるいは「評定の間」に絞られた。父や家臣たちが寝静まった深夜、私は音もなく闇を駆け(ハイハイで)、目的の場所を探した。


そして三日目の夜、ついに私はそれを見つけ出した。

評定の間の壁に掛けられた、巨大な播磨国の絵図。それは粗末な和紙に墨で描かれた簡素なものだったが、山々の連なり、河川の流れ、主要な城や町の配置が記されており、私にとっては宝の地図そのものだった。


私は絵図の前に座り込み、その情報を脳内にスキャンする。

(播磨国…山が多く、川も複雑に入り組んでいる。地質的には花崗岩類が多いか…となれば、熱水鉱脈の存在が期待できる。特に、この山塊…但馬国との国境に近い、この一帯…)

私の小さな指が、地図の上のある一点を指し示した。

朝来郡あさごぐん。史実において、日本有数の大銀山となる「生野銀山」を擁する地域だ。

私の乏しい歴史知識には、そんなピンポイントな情報はなかった。だが、科学はそれを可能にする。地形、河川の蛇行パターン、そしておそらくは過去の火山活動の痕跡。それらのデータから、重金属を含む鉱脈が地表近くに露出しやすい場所を、確率論的に絞り込むことができる。


(ここだ。この谷の、この沢筋。ここに、まだ誰にも発見されていない、新たな鉱脈があるはずだ)


問題は、どうやってそれを父たちに伝えるか、だ。

三歳の幼児が、突然「この山に金があります」などと言っても、気味悪がられるだけだろう。もっと、自然に。もっと、この時代の人間が信じやすい形で。


私は、一つの「演出」を考えついた。


翌日の昼下がり。

私はいつものように、乳母の志乃に連れられて庭で遊んでいた。その日は、金策に悩み抜いた父・義祐も、気分転換のためか、縁側でぼんやりと庭を眺めていた。

チャンスだ。

私は、お気に入りの手毬をわざと縁側の奥へと転がした。

「おっと」

手毬は、評定の間から持ち出され、縁側に立てかけられていた播磨国の絵図の屏風に当たって止まった。


「播磨丸様、お待ちくだされ。今、取ってまいります」

志乃が立ち上がろうとするのを、私は手で制した。そして、おぼつかない足取りで自ら絵図の方へ歩いていく。父が、その様子を微笑ましげに見ているのが分かった。

私は手毬を拾い上げると、おもむろに絵図の前に座り込んだ。そして、おもむろに、その一点を指さした。


「ちちうえ」


父が、ん?と顔を上げる。


「あのね、きのう、ゆめみたの」

私は、練習した通り、舌足らずな口調でゆっくりと語り始めた。

「しろいおひげの、かみさまがでてきてね、あかまつのおうち、こまってるから、いいものあげるって」


父の表情から、微笑みが消えた。隣にいた家臣が、ごくりと喉を鳴らす。

私は構わず、指で指し示した場所を、とん、と軽く叩いた。


「このね、おやま。ここがね、すっごく、きらきらしてたの」

「……きらきら?」

「うん。ぴっかぴかで、まぶしくて、あったかくて。かみさまがね、『ここをほれば、あかまつはたすかる』って。おしえてくれたの」


しん、と辺りが静まり返った。

風が木々の葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。

父・義祐は、眉間に深い皺を寄せ、私が指さす地図の一点と、私の顔を、信じられないものを見るような目で見比べていた。

家臣の一人が、恐る恐る口を開く。

「殿…若君が指しておられるのは、朝来郡の、山名領との境にございまするが…」

「たわごとだ」

父は、吐き捨てるように言った。

「子供の夢物語ぞ。気にするな」

そう言って立ち上がろうとする父の袴の裾を、私はぐい、と掴んだ。そして、見上げた。

私の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。もちろん、これも計算済みの演出だ。赤子の涙は、時にどんな言葉よりも雄弁な武器となる。


「うそじゃないもん…!かみさま、ほんとにいたもん…!ちちうえ、こまってるから…たすけてあげてって…!」


私の悲痛な(フリをした)叫びに、父の身体が凍り付いた。彼は、わが子の真に迫った表情と、その瞳の奥に宿る、三歳児のものとは思えぬ強い光に射貫かれたように、立ち尽くした。

その時だった。

「…殿」

背後から、静かだが重い声がした。

振り返ると、そこには祖父・晴政が、いつの間に現れたのか、腕を組んで立っていた。

「…父上」

「試してみる価値は、あるやもしれぬな」

「本気でござるか!子供の夢物語を!」

「神仏の御告げというのは、時として童子の口を借りて下されるものよ」

晴政はそう言うと、私の前に進み出て、その大きな掌で、私の頭をくしゃり、と撫でた。その手は、驚くほど優しかった。

「それに…」

晴政は、目を細めて続けた。

「このまま座して浦上の軍門に降るよりは、童の夢に賭けてみる方が、よほど愉快であろうが」


その一言が、決定打となった。

父・義祐は、しばらく逡巡した後、深く、深くため息をつき、そして、覚悟を決めたように顔を上げた。

「…分かった。治部じぶ、兵を三十名ほど集めよ。山師も二人、供をさせよ。ただちに朝来へ向かい、播磨丸が指した場所を徹底的に調べよ!」


家臣たちが、にわかに活気づく。

私は、計画が第一段階をクリアしたことに、内心で安堵の息をついた。だが、まだ安心はできない。問題は、本当にそこに金があるかどうかだ。いくら地質学的な推論を重ねたとはいえ、所詮は確率論。もし何も出なければ、私はただの嘘つきな子供になり、父の権威はさらに失墜する。


調査隊が出発してから、五日が過ぎた。

城内には、期待と不安が入り混じった、重苦しい空気が漂っていた。父は日に日に憔悴し、母は祈るように毎日を過ごしていた。

そして、六日目の夕刻。

一騎の伝令が、置塩城に転がり込むように駆け込んできた。その顔は泥と汗にまみれていたが、狂気にも似た興奮で上気していた。


彼は、父と私の前にひれ伏すと、震える声で叫んだ。

「申し上げます!で、出ましたぞ!若君の御告げ通り、かの谷川の底から、これが!」


伝令が差し出した革袋から、ざらり、と中身が板の間にこぼれ落ちる。

それは、夕日を浴びて、燃えるような黄金色の輝きを放っていた。

砂金だった。それも、今までに誰も見たことがないほど、大粒で純度の高い、極上の砂金だった。


「おお…!」

「まことか…!まことに神の御告げであったか!」

その場にいた誰もが、息を呑んだ。

父・義祐は、わなわなと震える手でその一粒を拾い上げ、呆然と見つめている。その目から、大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。


私は、その光景を静かに見つめていた。

(良かった…これで、財政問題は解決する)

だが、本当の戦いは、ここから始まるのだ。

この金は、赤松家を救う希望の光であると同時に、必ずや新たな敵を呼び寄せる。浦上、山名、そしていずれは、織田信長という名の「魔王」を。

私は、父の腕に抱きつきながら、決意を新たにした。


この力で、この家を、このささやかな平穏を、絶対に守り抜いてみせる。

たとえ、そのために私が、神童から「怪物」と呼ばれることになったとしても。


こうして、播磨の片田舎に、後に「赤松金山」と呼ばれることになる富の源泉が誕生した。そして、三歳の神童・播磨丸の名は、伝説の始まりとして、播磨国中に静かに、しかし確実に広まっていくことになるのだった。



第二話:二人の軍師


播磨国に突如として現れた「赤松金山」。

その存在は、干上がった田に注がれた恵みの水のように、没落寸前だった赤松家を瞬く間に潤していった。矢銭三千貫の要求に頭を抱えていたのが嘘のように、蔵には眩いばかりの黄金が積み上がり、父・義祐の顔からは長年こびりついていた苦悩の色が消えた。兵たちは新しい武具を与えられ、城下には活気が戻り、誰もが「神の子・播磨丸様のおかげだ」と、三歳の私を生き神のように崇めた。


だが、私は知っていた。これは本当の解決ではない。傷口に高価な薬を塗っただけの、対症療法に過ぎないことを。

この家の病巣は、貧しさではなかった。その根源は、父・義祐と祖父・晴政という、二人の指導者の間に横たわる、決して交わることのない価値観の断絶にあったからだ。


「この金で、まずは浦上殿への滞納分を支払い、関係を修復せねば」

父・義祐は、現実主義者だった。彼は、赤松家がもはや往年の力を失っていることを痛いほど理解しており、強大な家臣である浦上氏との衝突を何よりも恐れていた。彼にとって金は、嵐をやり過ごすための「手切れ金」であり、平穏を買い戻すための供物だった。


「馬鹿者!天が我らに与えたもうたこの好機を、なぜ逆賊への貢物などに使うか!この金で兵を雇い、鉄砲を買い揃え、一気呵成に浦上を討ち滅ぼすのが赤松武門の誉れであろうが!」

対する祖父・晴政は、夢見る理想主義者だった。彼の頭の中では、赤松家は今なお播磨の支配者であり、浦上は主家を脅かす不忠の輩に過ぎなかった。彼にとって金は、失われた栄光を取り戻すための「軍資金」であり、正義の鉄槌だった。


融和か、決戦か。

金山の運営と、その富の使い道を巡り、二人の対立は以前にも増して激しくなった。評定の場は、互いの正しさを主張する怒声が飛び交うばかりで、具体的な戦略は何一つ決まらない。潤沢な資金を得たというのに、赤松家という船は、羅針盤を失ったまま港で空回りしているだけだった。


(駄目だ。このままでは金の力も無駄になる。私には、この二人を動かす「腕」と「頭脳」が必要だ…)


私は、父と祖父の喧嘩の声をBGMに、一人、思考の海に沈んでいた。私自身が表立って采配を振るうことはできない。三歳の子供の言葉は、「神の御告げ」というハッタリが効いてこそ意味を持つ。多用すれば、すぐに効力は失せるだろう。

私に必要なのは、私の意図を汲み取り、それをこの戦国の世の常識に翻訳し、実行に移せる代理人。私の科学的思考を、この時代の「戦術」へと昇華させられる、もう一人の天才だった。


そんな都合の良い人間がいるはずも…いや、あるいは。

私の脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。歴史上の有名人物。確か、この播ikówから、後に天下人の腹心となる、とてつもない軍師が輩出されたはずだ。名は…確か…。


その機会は、私が五歳になった年の夏、思いがけず訪れた。

その日、城の広間では、赤松家に仕える重臣たちの子弟を集めた顔見せの会が開かれていた。父が、私の遊び相手にふさわしい者を選ばせるという名目だったが、実態は、金山で潤った赤松家の威光を家臣筋に示すためのデモンストレーションに近かった。


十数人の子供たちが、私の前に並べられる。年の頃は五歳から十歳前後。皆、上等な着物を着せられ、緊張した面持ちで私を見つめていた。

「播磨丸様、ささ、ご自由に。気になる子はおりましたかな?」

父が、機嫌良さそうに私に話しかける。

私は、子供たちの顔を一人一人、ゆっくりと見渡した。皆、親の期待を一身に背負い、利発そうではある。だが、私の心を動かす者はいない。彼らの瞳は、ただ「神の子」という偶像を見ているだけで、その奥にある「私」という存在の異常性には、誰一人として気づいていない。


(…やはり、ここにはいないか)


諦めかけた、その時だった。

広間の隅。柱の影に、一人だけ輪から外れて佇む少年がいるのに気が付いた。

年の頃は、十歳くらいだろうか。他の子供たちのように、前に出ようともせず、かといって卑屈になっているわけでもない。彼はただ、静かに、腕を組んで、この茶番のような会合を――いや、そこにいる全ての人間を、まるで盤上の駒でも眺めるかのように、冷徹な目で観察していた。

その瞳。

他の誰とも違う、底光りするような知性と、年齢不相応な深い洞察力。そして、その奥に隠された、燃えるような野心の色。


(…見つけた)


私の心臓が、とくん、と高鳴った。

私は、父の袖をくい、と引いた。

「ちちうえ。あの子」

「ん?どの子だ?」

「あそこにいる、くろいおべべの子。あの子がいい」

私の指さす先に、家臣たちの視線が集まる。少年は、注目を浴びても全く動じなかった。ただ、私の方をちらりと見て、その目にわずかな好奇の色を浮かべただけだった。


父が、困惑したように眉をひそめた。

「播磨丸…あの子は、小寺の…」

隣にいた家臣が、小声で父に耳打ちする。

「殿、あちらは御着ごちゃく小寺政職こでらまさもと様がご嫡男、官兵衛かんべえ様にございます。今は、人質としてこの置塩城にお預かりしておりますが…」


小寺官兵衛。

そうだ、その名だ。後に黒田官兵衛と名乗り、豊臣秀吉の天下取りを支えた、日本史上屈指の「黒い軍師」。

まさか、こんな形で出会うとは。


「あの子がいい」

私は、もう一度繰り返した。有無を言わせぬ、強い口調で。

父は、私の「神の子」としての威光に逆らえず、渋々ながら頷いた。

「…分かった。官兵衛、こちらへ」

呼ばれた少年――小寺官兵衛は、静かに歩み出ると、私の前に座り、深々と頭を下げた。その一連の所作には、一切の無駄がなかった。


「これより、そなたを播磨丸様の側仕えとする。よいな」

「はっ。ありがたき幸せにございます」

官兵衛は、顔を上げた。そして、初めて、真正面から私と視線を合わせた。

その瞬間、私は確信した。

この男は、分かっている。私が、ただの子供ではないことを。この瞳の奥に、得体の知れない何かが宿っていることを。彼の唇の端が、ほんのわずかに、面白いおもちゃを見つけた子供のように、吊り上がったのを、私は見逃さなかった。


その日から、私の側には常に官兵衛が付き従うようになった。

私たちは、言葉を交わすことさえ稀だった。ただ、二人で播磨国の絵図が広げられた部屋に籠り、何時間も黙って盤面を睨み続ける。

私が、おもむろに地図の一点を指さす。

(もし、浦上がここから攻めてきたら?)

すると、官兵衛は少し考えた後、別の地点に小さな石を置く。

(ならば、我らはこちらの隘路あいろに伏兵を置きます)

私が、川筋を指でなぞる。

(兵站は?水の手を断たれたら?)

官兵衛は、さらに別の場所に石を置く。

(その前に、この支流にせきを築き、敵の進軍路そのものを水底に沈めます)


それは、異常な光景だった。

五歳の幼児と、十歳の少年が、言葉もなく、ただ石ころを動かすだけで、高度な軍事シミュレーションを行っている。私たちの間には、もはや言葉は不要だった。私の超時空的な発想――ゲリラ戦、焦土作戦、経済封鎖、心理的な揺さぶり――を、官兵衛は即座に理解し、それを戦国の常識に合わせた、実行可能な作戦へと完璧に翻訳していく。彼の頭脳は、私の知るどんな量子コンピュータよりも柔軟で、そして冷酷だった。


私たちは、最高の共犯者になった。


そして、運命の日は訪れる。

金山の発見から二年。業を煮やした浦上宗景が、遂に最後通牒を突きつけてきたのだ。

「赤松金山の利益の半分を、ただちに我が方へ差し出されたし。しからずんば、兵を以て、実力で頂きに参る」

事実上の、宣戦布告だった。


評定の間は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「もはや戦は避けられぬ!」と息巻く祖父・晴政。

「いや、要求を呑んででも和睦の道を探るべきだ!」と狼狽える父・義祐。

家臣たちも、主戦派と和平派に分かれ、議論は紛糾するばかり。赤松家は、またしても内側から崩壊しようとしていた。


その時だった。

私が、ゆっくりと立ち上がった。評定の間の全ての視線が、私に注がれる。

私の隣には、いつものように、無表情な官兵衛が控えている。


「…ちちうえ。おじいさま」

私は、静かに語りかけた。

「けんかは、おわり。ぼくにかんがえがある」


そして、私は語り始めた。官兵衛と共に、来る日も来る日も盤上で練り上げてきた、完璧な「浦上撃退プラン」を。


それは、戦わずに勝つための策だった。

兵を出すのではない。金を動かすのだ。

浦上領へ米を運ぶ商人を金で買収し、流通を滞らせる。浦上の家臣団に密使を送り、「寝返れば金山からの分け前を約束する」と甘言を囁き、内部分裂を誘う。国境の村々に「浦上は間もなく攻めてくる。今のうちに赤松に付けば命も財産も保証する」という噂を流し、民衆を動揺させる。

武力ではなく、情報と経済で敵の足元を崩し、自滅させる。それは、この時代の誰もが考えつかない、あまりにも斬新で、そして悪魔的な策略だった。


私が語り終えた時、評定の間は水を打ったように静まり返っていた。

父も、祖父も、百戦錬磨の家臣たちも、皆、言葉を失っていた。彼らは、目の前の五歳の子供と十歳の少年が、自分たちの知る「戦」の概念を根底から覆してしまったことに、ただただ驚愕していた。


最初に口を開いたのは、祖父・晴政だった。

「…面白い。実に、面白い策だ」

その目には、もはや私を「神の子」として見る色合いはなかった。それは、一人の恐るべき「軍師」に対する、畏敬の念だった。

父・義祐もまた、震える声で言った。

「…播磨丸、官兵衛。その策、まことに成算があるのか」

官兵衛が、初めて声を発した。

「はっ。机上の計算では、九割九分。残りの一分は、殿のご決断次第にございます」


その日を境に、赤松家の実権は、事実上、二人の子供の手に移った。

父と祖父は、私たちの提案にただ頷くだけの存在となり、私たちは「白の軍師(神託を告げる播磨丸)」と「黒の軍師(それを実行する官兵衛)」として、赤松家という巨大な駒を、思いのままに動かし始めた。

歴史の歯車が、また一つ、大きく、そして静かに、狂い始めた瞬間だった。


第三話:白と黒の天秤


私たちの策は、想像以上の効果を上げた。

金に物を言わせた情報戦と経済戦は、浦上宗景の足元を根底から揺さぶった。領内では米価が高騰し、家臣団は赤松からの甘言に疑心暗鬼に陥り、国境の民は次々と赤松領へ逃げ込んだ。武力を用いることなく、わずか数ヶ月で、浦上氏の勢力は目に見えて衰退していった。宗景は我らへの介入を諦め、内側の綻びを繕うのに手一杯となり、赤松家は束の間の、しかし確かな平穏を手に入れた。


この一件で、私と官兵衛の立場は決定的なものとなった。

もはや、私たちの言葉を疑う者は家中にはいない。「若君様と官兵衛殿に任せておけば間違いない」という空気が、赤松家全体を支配していた。

しかし、本当の戦場は、敵陣ではなく、この置塩城の中にあった。私たちが操るべき最も扱いにくい駒は、浦上宗景ではなく、私の父と祖父だったからだ。


二人の対立は、浦上の脅威が遠のいたことで、むしろ形を変えて先鋭化していた。

「見よ、戦わずして敵を退ける。これぞ王者の戦よ」と、父・義祐は我らの策を自らの融和路線の勝利と解釈し、満足げに頷いた。

「ふん、小賢しい真似を。敵の喉元に刃を突き立てる好機を逃したわ」と、祖父・晴政は我らの策を臆病者の奇策とみなし、不満げに腕を組んだ。


二人は、水と油。決して交わらない。

このままでは、いずれどちらかが爆発する。史実がそうであったように、この歪な均衡は、やがて内紛という最悪の形で崩壊するだろう。それを防ぐため、私は官兵衛と共に、二つの顔を使い分けることにした。

「白の軍師」と「黒の軍師」。光と影の天秤を操り、父と祖父という二つの重りを、絶妙なバランスで釣り合わせるのだ。


「白の軍師」の役目は、私の担当だった。

私は、祖父・晴政の前では、徹底して「神の子」を演じた。

「おじいさま。ゆうべ、また夢を見ました」

庭で木刀を振るう晴政の元へ、私は駆け寄る。彼は、武芸を何よりも重んじる、古き武士の典型だった。

「ほう、今度は何の御告げじゃ」

八幡大菩薩はちまんだいぼさつ様が、おじいさまの木刀は天をも穿つ、と仰せでした。ですが、『晴政よ、その武勇は赤松の至宝。されど、宝とは、鞘に収まりてこそ輝きを増すもの。天の時、いまだ来たらず』と」

私の言葉に、晴政は目を細める。彼は、神仏への信仰が篤い。そして、何より自らの武勇を誇りに思っている。神が、その武勇を認め、かつ「今はその時ではない」と告げている。そのストーリーは、彼の自尊心をくすぐり、やるせない思いを鎮めるのに、何よりの妙薬となった。

「ふん…八幡大菩薩様も、なかなかに儂のことを見ておられるわ」

そう言って豪快に笑う祖父の顔に、苛立ちはなかった。私は、彼のプライドという名の猛獣を、「神託」という甘い餌で巧みに手懐けていった。


一方、「黒の軍師」の役目は、官兵衛が担った。

彼は、父・義祐の前では、冷徹な現実だけを語った。

「殿。金山の産金量、先月よりやや落ちております。このままでは、二年後には底を突きましょう」

書斎で帳簿とにらめっこする父の背に、官兵衛は淡々と事実を突きつける。彼は、数字に弱く、決断力に欠ける父の性質を完全に見抜いていた。

「なに、もうか…。どうすればよい、官兵衛」

「策は三つ。一つ、新たな鉱脈を探す。一つ、領内に楽市楽座を開き、税収を増やす。そしてもう一つは…」

官兵衛は、そこで言葉を切り、父の目をじっと見つめた。

「浦上を滅ぼし、その豊かな領地を全て奪うことでございます」

彼の言葉には、神託のような曖昧さはない。あるのは、冷たい数字と、血の匂いのする合理性だけだった。父は、その容赦ない現実に顔を青くしながらも、目の前の少年が示す具体的な未来図に、頼らざるを得なかった。

「わ、分かった。そなたに任せる。良きように計らえ…」

官兵衛は、父の優柔不断さを利用し、金山の運営、新兵器の開発、国衆への調略といった家の実権を、一つ、また一つと、静かに掌握していった。


白と黒。神託と現実。

私たちは、二つの貌を巧みに使い分け、父と祖父を意のままに操った。二人は、それぞれが自分の信じたいものだけを私たちの中に見出し、自分が家の実権を握っていると錯覚していた。その結果、赤松家は奇妙な安定を得て、着実に国力を増していく。

史実では、私が八歳になる永禄十年(一五六七年)、父・義祐は祖父・晴政を置塩城から追放し、赤松家は修復不可能な内紛に突入するはずだった。

その運命の年。

私は、一つの大きな賭けに出た。


その日、私は父と祖父を、評定の間ではなく、金山の麓に新設した鉄砲の調練場へと連れ出した。

「播磨丸よ、我らをこのような場所へ呼び出し、何用じゃ」

祖父が、いぶかしげに眉をひそめる。

「おじいさま、まあ、これをご覧ください」

私の合図で、官兵衛が号令をかける。

「撃てぇっ!」

轟音と共に、横一列に並んだ五十名の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。百メートル先の的が、木っ端微塵に砕け散る。

「なっ…!」

父と祖父が、息を呑んだ。

当時の鉄砲は、一度撃てば次弾の装填に時間がかかるのが常識だった。だが、目の前の兵たちは、流れるような動きで火薬と弾を込め、間髪入れずに第二射、第三射を放っていく。これは、官兵衛が考案した、作業を分担して装填時間を短縮する「三段撃ち」の原型だった。


「見事なものだろう、父上」

得意げに胸を張る父・義祐。彼にとって、この鉄砲隊は、自らが許可して編成した「融和路線を守るための抑止力」だった。

「ふん、数だけ揃えても、魂がなければただの鉄の棒よ」

鼻を鳴らす祖父・晴政。だが、その目が、兵たちの寸分違わぬ動きに釘付けになっているのを、私は見逃さなかった。

「おじいさま」

私は、祖父の手を取り、一丁の火縄銃を握らせた。それは、私が工房で密かに改良した試作品。銃身にライフリング(腔線)を刻み、弾丸の命中精度を飛躍的に高めた、この時代のオーパーツだ。

「これを。夢で、八幡大菩薩様が『この鉄の筒に、晴政の武の魂を込めよ』と」

祖父は、半信半疑で銃を構えた。そして、的を狙い、引き金を引く。

一際大きな発射音と共に放たれた弾丸は、二百メートル先の的に、吸い込まれるように命中した。

「…おお…!」

祖父の目が、武人としての喜びに、爛々と輝いた。彼にとって、この銃は、自らの武勇を新たな次元へと高める「最強の矛」に他ならなかった。


私は、二人の顔を交互に見ながら、静かに語りかけた。

「ちちうえ。この鉄砲隊があれば、浦上も容易には手出しできませぬ。戦わずして、家は守れます」

「おじいさま。この鉄の矛があれば、いつか来るべき決戦の時、赤松は必ずや勝利を掴みましょう」


同じものを見せながら、違う未来を語る。

父には「守りの盾」を。祖父には「攻めの矛」を。

その時、二人は初めて、互いの顔を見合わせた。そして、気づいたのだ。自分たちが、同じものを見て、違う夢を抱きながらも、結局は「赤松家を守り、強くする」という、ただ一つの同じ目的のために立っていることに。


父・義祐が、先に口を開いた。

「…父上。儂は、戦が嫌いです。じゃが、この家を守るためなら、鬼にもなりましょう」

祖父・晴政が、深く頷いた。

「…義祐。儂は、臆病者が嫌いじゃ。じゃが、そなたのやり方が、この赤松を富ませたのは事実。儂の知らぬ戦のやり方もあると、認めねばなるまい」


二人の間に漂っていた長年の氷が、音を立てて溶けていくのが分かった。

史実の悲劇は、完全に回避された。

赤松家は、融和という名の盾と、武勇という名の矛を、共に手に入れたのだ。


その夜、官兵衛が私の部屋を訪れた。

「見事な手腕にございます、則房様」

いつの間にか、彼は私のことを幼名ではなく、元服後の名である「則房」と呼ぶようになっていた。

「いや、君の演出のおかげだよ。あの調練も、二人の性格を計算し尽くした、完璧な舞台だった」

「これで、我らの手で、赤松家は一つになりました。次はいよいよ…」

「ああ」

私たちは、窓の外に広がる闇を見つめた。その先には、私たちがこれから戦うべき、本当の敵がいる。


「打倒、浦上。そして、播磨統一だ」


私の言葉に、官兵衛は、初めて会ったあの日のように、唇の端を吊り上げて、不敵に笑った。

白と黒の天秤は、今、完全に私たちの手の中にある。この天秤を使い、私たちは、赤松家を、そしていずれは天下をも、計りにかけるのだ。



第四話:播磨の錬金術師


永禄十年(一五六七年)の内紛回避から数年、赤松家はかつてないほどの結束と国力を手に入れた。父・義祐は穏健な統治者として民に慕われ、祖父・晴政は武家の棟梁として兵たちの士気を高める。二人は、互いの役割を認め合い、もはや争うことはなかった。なぜなら、家の実権は、白と黒の軍師――私と官兵衛が完全に掌握し、二人を巧みにコントロールしていたからだ。


私は、十歳を過ぎた頃から、夜な夜な城を抜け出すようになっていた。

もちろん、遊びではない。研究のためだ。

金山の奥深く、誰一人近づかない古い坑道の最奥に、私は秘密の「工房」を築いていた。そこは、私の科学者としての魂を解放できる、唯一の聖域だった。


「やはり、この身体では分子レベルでの再構成が限界か…」

工房の中、私は一人、壁に描いた複雑な数式を睨みながら呟く。

錬金術の研究は続けていたが、劇的な進歩はなかった。この世界の物理法則は強固で、私の貧弱な生体エネルギーでは、大規模な物質変換は不可能に近かった。ならば、と私は発想を転換した。外部の物質を変えるのではなく、私自身の身体を「錬成」する。それが「身体強化」の始まりだった。


筋肉繊維の組成を、一時的に高密度のポリマー構造に近づける。神経伝達物質の分泌を最適化し、反応速度を極限まで高める。骨格に微量の炭素ナノチューブ構造を編み込み、強度を増す。

それは、自らの肉体を実験台にする、危険極まりない試みだった。一度でも制御を誤れば、細胞が暴走し、内側から崩壊しかねない。だが、私はやり遂げた。その結果、私は十代前半の少年とは思えぬほどの、超人的な身体能力を手に入れた。壁を垂直に駆け上がり、数メートル先の屋根へ音もなく跳び移る。闇夜に紛れ、気配を完全に消して敵地へ潜入する「隠形」も、赤子の頃から続けてきた基礎研究の応用で可能となっていた。


これらの能力は、私の切り札だった。誰にも、たとえ官兵衛にさえも、その全ては明かしていない。


天正元年(一五七三年)。私が十四歳になった年、ついに好機が訪れた。

宿敵・浦上宗景が、東の備前国で、梟雄・宇喜多直家との泥沼の戦いを始めたのだ。浦上軍の主力が、播磨から離れた。

「…時、来たる」

評定の間で、私は静かに告げた。その一言で、城内の空気は一変する。

「則房様!ついに!」

血気にはやる家臣たち。その中心には、老いてなお盛んな祖父・晴政がいる。

「しかし、戦となれば、民に犠牲が…」

顔を曇らせる父・義祐。

私は、二人の顔を交互に見て、静かに微笑んだ。

「ご安心を、父上。此度の戦、血はほとんど流れませぬ。そして、おじいさま。存分に、赤松の武威を示していただきましょう」

その言葉の裏で、私は官兵衛と視線を交わした。我らが数年間、水面下で進めてきた調略が、今、実を結ぶ。


赤松軍の挙兵は、電撃的だった。

総大将は父・義祐。先陣は祖父・晴政。そして、軍師として全軍の指揮を執るのは、若き赤松則房と、その傍らに控える小寺官兵衛。

浦上方の城へ進軍するが、戦らしい戦は起きなかった。城門は、我らが到着する前に内側から開かれる。浦上方の城主たちは、事前に官兵衛が送った密使と、私がばら撒いた金によって、とっくに寝返っていたのだ。


だが、全ての城が、そう簡単に落ちるわけではなかった。

浦上宗景の弟・景行が守る龍野城。ここは、浦上家に忠誠を誓う精鋭たちが守る、播磨西部の要害だった。

「城攻めは、犠牲が大きゅうなりますな」

官兵衛が、眉をひそめる。

「力攻めは不要だ。今宵、私がケリをつける」

私は、誰にも聞こえない声で呟いた。


その夜、龍野城は漆黒の闇に包まれていた。

私は、音もなく城壁を駆け上がり、夜の闇に溶け込むように、城内へと潜入した。「隠形」の術は、月明かりさえも味方につける。

目標は、城主・浦上景行の寝所。

私は、屋根裏を疾風のように駆け抜け、番兵たちの配置、呼吸のリズム、意識の死角を完璧に読み切る。まるで、精密な機械の中をすり抜けるように、私は警備網を突破し、目的の部屋の真上へと到達した。


部屋の中では、景行が数人の側近と、明日の戦に備えて軍議を行っていた。

私は、天井板を一枚、音もなくずらす。そして、懐から取り出した小さな革袋の中身――私が工房で精製した、強力な非致死性の催眠ガスを、そっと流し込んだ。

「…なんだか、眠く…」

側近の一人がそう言ったのを最後に、部屋にいた全員が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

私は、静かに部屋へ降り立つと、眠る景行の枕元に、一通の文と、赤松家の家紋が入った短刀を置いた。文には、こう記しておいた。

『汝の命、今は預かる。明日、日の出と共に城門を開けよ。赤松則房』


翌朝、龍野城の城門は、約束通り、静かに開かれた。

城主・浦上景行は、枕元に置かれた短刀に震え上がり、昨夜、自らの首が目に見えぬ暗殺者の手の中にあったことを悟った。彼は、戦わずして降伏した。

赤松軍が、一滴の血も流さずに入城した時、家臣たちは口々に叫んだ。

「神の御業だ!則房様が祈りを捧げたところ、龍野城の戦意が砕かれたのだ!」

私は、その賞賛の声を、ただ静かに聞いていた。官兵衛だけが、意味ありげな視線を私に向け、かすかに口元を歪めたのを、私は見逃さなかった。彼は、何かに気づいている。だが、問いただすことはしなかった。それが、彼なりの信頼の形だった。


龍野城の無血開城は、決定打となった。

浦上方の残りの城は、戦意を喪失し、雪崩を打って降伏した。

挙兵から、わずか一ヶ月。

赤松家は、播磨国から浦上氏の勢力を完全に一掃し、ついに念願の播磨統一を成し遂げたのだ。


置塩城で開かれた祝宴は、かつてないほどの熱気に包まれていた。

家臣たちの誰もが、勝利の美酒に酔いしれていた。その宴席の最も高い場所で、父・義祐が立ち上がった。その顔は、晴れやかだった。

「皆、聞いてくれ!この度の勝利は、ひとえに我が子、則房の才覚あってこそ!もはや、この老いたる義祐の役目は終わった!」

父は、私の肩に手を置くと、満座の家臣の前で高らかに宣言した。

「これより、赤松家の家督を、則房に譲る!皆、新しき当主の下、赤松家のさらなる繁栄のために尽くしてくれ!」

「おおおおっ!」と、地鳴りのような歓声が広間を揺るがす。

私は、十四歳にして、播磨三十六万石の国主となった。史実の没落を乗り越え、自らの手で運命を覆した、その達成感が胸に満ちる。


(…これで、ようやく研究に没頭できる)


そんなことを考えていた私の耳に、喧騒を突き抜けて、冷ややかな声が届いた。

隣に座る官兵衛が、酒盃を傾けながら、囁いたのだ。

「則房様、お喜びも結構ですが、東をご覧ください」

「東…?」

「織田信長が、将軍・足利義昭を京から追放。室町幕府は、事実上、滅びました。今や、日の本で、あの魔王に逆らう者はおりませぬ」

官兵衛の言葉に、私の背筋が凍った。

天正元年。それは、浦上氏が滅びた年であると同時に、織田信長が天下布武の最終段階へと駒を進めた年でもあったのだ。

「そして、その魔王の目が、次に向くのは、この西国。すなわち、我らが播磨にございます」

官兵衛は、すっと目を細めた。その瞳の奥には、新たな、そして遥かに強大な敵との戦いを見据える、昏い光が宿っていた。


「我らの本当の戦いは、これからですぞ、則房様」


祝宴の熱気とは裏腹に、私の心は急速に冷えていった。

播磨統一は、ゴールではなかった。それは、より巨大で、より過酷な、新たなゲームの始まりを告げるゴングに過ぎなかったのだ。

私は、手に持った酒盃を強く握りしめた。

私の工房で、まだ誰も知らない、新たな「錬成」の準備を始めなければなるまい。

相手が歴史の魔王ならば、こちらは科学の怪物として、受けて立つまでだ。


第五話:天魔の足音


播磨国主となって、二年が過ぎた。

天正三年(一五七五年)、私は十六歳になっていた。

この二年間、私は「名君」を演じ続けた。官兵衛の補佐を受けながら、金山を元手にした楽市楽座を開き、検地を行って税制を安定させ、領内の街道を整備した。播磨は急速に豊かになり、民は私を「若き英主」と讃えた。父と祖父は、そんな私の姿に満足し、穏やかな隠居生活を送っている。赤松家は、まさに黄金時代を迎えていた。


だが、それは嵐の前の静けさに過ぎないことを、私だけが知っていた。

私の本当の仕事は、夜に始まる。

「…安定翼の角度、あと0.3度修正。反重力ユニットの出力、75%に固定。よし」

工房の天井近くで、私は宙に浮かんでいた。

身体に装着しているのは、掌ほどの大きさの金属円盤が数個連結された、奇妙なベルト。これが、私の最新の発明品であり、最大の秘密――重力制御装置、通称「飛廉ひれん」だ。

錬金術の応用で、ごく限られた空間の重力定数を書き換える。その技術を使い、私は音速に近い速度で空を飛ぶことが可能となっていた。この力は、身体強化や隠形以上に、この世界の物理法則から逸脱した、まさに「魔法」だった。リスクも大きいが、それに見合うだけの価値がある。


この「飛廉」を使い、私は毎夜のように播磨の上空を飛び、西国の情勢を探っていた。西には大大名・毛利が、東には、天を喰らう勢いで版図を広げる魔王・織田信長がいる。播磨は、その二大勢力のちょうど中間点。いつ戦場になってもおかしくない、危険地帯だった。


そして、その日は来た。

長篠の戦い。

織田信長が、三千丁の鉄砲隊を使い、戦国最強と謳われた武田の騎馬軍団を、文字通り殲滅した。

その報せは、高速飛行で現地の様子を遠方から偵察してきた私自身の口から、誰よりも早く、官兵衛にもたらされた。


「…三段撃ちは、我らが先に考案した策。それを、遥かに大規模で、そして効率的に…」

私の報告を聞いた官兵衛は、初めて顔色を変えた。彼の怜悧な瞳に、焦りの色が浮かんでいる。

「則房様。これは、戦の歴史が変わった日でございます。もはや、個人の武勇や、小手先の策略が通用する時代は終わりました」

「ああ。これからは、圧倒的な物量と、経済力と、そして情報。その全てを持つ者が、天下を制する」

「そして、その全てを、織田信長は持っている…」

私たちは、互いの顔を見合わせた。もはや、選択の時は、猶予なく迫っていた。


織田につくか、毛利につくか。あるいは、どちらとも結ばず、独自の道を歩むか。

評定では、家臣たちの意見が真っ二つに割れた。

「毛利は、古くからの名門。信長のような成り上がり者とは違う!」

「いや、もはや織田の勢いは誰にも止められぬ!逆らえば、武田の二の舞になるぞ!」

父や祖父も、それぞれの立場から意見を述べ、議論は堂々巡りを繰り返す。


私は、その喧噪から一人離れ、思考に耽っていた。

織田につけば、いずれその巨大な組織の中に組み込まれ、赤松家は独立性を失うだろう。信長は、家臣の能力は評価するが、家の伝統や権威には何の価値も見出さない男だ。

毛利につけば、織田との全面戦争の最前線に立たされることになる。勝てば良いが、負ければ家は滅びる。

どちらも、私が望む未来ではない。私が守りたいのは、この播磨の地で、誰にも邪魔されず、自由に研究を続けられる環境だ。そのためには、赤松家が、誰にも侮られない、独立した強大な力を持つ必要がある。


「…官兵衛」

私は、評定の席を抜け出し、月明かりの庭で一人佇んでいた腹心の元へ向かった。

「どうやら、腹は決まられたご様子ですな」

官兵衛は、振り返りもせずに言った。

「ああ。織田にも、毛利にもつかん」

「…なんと。では、一体…」

「第三の道を行く」

私は、夜空を見上げた。星々が、まるで数式のように美しく配置されている。

「我ら自身が、天下を狙う勢力の一つとなるのだ。織田、毛利、そして赤松。この三国が睨み合う形を作り出し、その均衡の上で、我らの独立を保つ」


私の言葉に、官兵衛は息を呑んだ。それは、あまりにも壮大で、そして無謀な計画だった。播磨一国を領するだけの我らが、天下の織田、西国の雄・毛利と肩を並べるなど、常識で考えれば狂気の沙汰だ。

「…正気でございますか」

「いつだって正気さ。私には、それを可能にする『力』がある」

私は、官兵衛の肩に手を置いた。

「君には、私の『黒』の部分を見てもらわねばならない。ついてきてくれ」


私は官兵衛を連れ、夜の闇に紛れて工房へと向かった。

初めて見る秘密の研究室、壁一面の数式、そして錬金術で生み出された数々の試作品に、さすがの官兵衛も絶句していた。

そして、私は彼に「飛廉」を見せた。

「則房様…これは、一体…」

「見ていたまえ。これから、魔王の寝首を掻きに行ってくる」


返事も聞かず、私は「飛廉」を装着し、工房の天井に開けた隠し扉から、夜空へと飛び出した。

風を切り、雲を抜け、音速で東へ。目標は、信長が本拠地とする、岐阜城。

播磨から岐阜まで、常人ならば半月はかかる距離を、私はわずか一時間で踏破した。


岐阜城の天守閣は、煌々と明かりが灯っていた。おそらく、信長はまだ起きている。

私は、気配を完全に消し、天守閣の屋根に降り立った。そして、瓦を一枚、音もなくずらし、中の様子を窺う。

そこに、彼はいた。

燃えるような瞳。剃り上げた月代。鋭い鷲鼻。南蛮渡来のマントを羽織り、地球儀を眺めている。

織田信長。

その圧倒的な存在感は、隙間から覗くだけで肌が粟立つほどだった。


私は、懐から小さな金属片を取り出した。私が開発した、指向性超音波発生装置。これを起動すれば、城内にいる人間の耳には聞こえず、信長の脳にだけ直接、不快な音波を送り込むことができる。物理的な攻撃ではない。だが、眠りを妨げ、判断力を鈍らせるには十分な「嫌がらせ」だ。


(まずは、挨拶代わりだ。魔王殿)


装置を起動しようとした、その瞬間だった。

「――そこにいるのは、誰だ」

信長が、何の前触れもなく、天井を睨み上げた。その眼光は、まるで私の存在を完全に見透かしているかのように、鋭く突き刺さった。

(…馬鹿な!気づかれた?私の隠形を、この距離で?)

全身の血が、凍り付く。この男、ただ者ではない。野生の勘か、あるいはそれに近い、超常的な感覚を持っている。

「出てこい、鼠。でなければ、この天守ごと、焼き払うまでだ」

信長の声は、静かだった。だが、その静けさこそが、彼の底知れぬ狂気と実行力を物語っていた。


まずい。完全に、読み誤った。

私は、咄嗟に身を翻し、岐阜の夜空へと再び舞い上がった。

眼下で、城内がにわかに騒がしくなるのが見えた。

「曲者だ!」「上だ、屋根の上だ!」「弓を構えよ!」


私は、全速力で西へ飛んだ。

心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いていた。

恐怖ではない。武者震いだ。

織田信長。彼は、私が想像していた以上に、巨大で、危険で、そして何よりも――面白い相手だった。


工房へ戻った私を、官兵衛が心配そうな顔で出迎えた。

「ご無事で…」

「ああ。少し、肝を冷やしたがな」

私は、笑って見せた。

「官兵衛。計画を変更する」

「と、申されますと?」

「やはり、織田と同盟を結ぶ」

「な…!先ほどと、お話が…!」

混乱する官兵衛に、私は告げた。

「あの男は、生半可な駆け引きが通用する相手ではない。敵に回すには、あまりに危険すぎる。だが、味方として内側から操ることはできるかもしれん」

私は、信長の燃えるような瞳を思い出していた。

「奴の器の内側に入り込み、その力を利用し、我らの独立を勝ち取る。そして、いずれは…」

いずれは、その器ごと、乗っ取ってやる。


「官兵衛、すぐに使者を立てろ。表向きは、織田への恭順を示す。だが、水面下では毛利との繋がりも保つ。我らは、二頭の龍を手玉に取る、狡猾な蛇になるのだ」


私の言葉に、官兵衛はしばらく黙っていた。だが、やがて、彼の顔にいつもの不敵な笑みが戻った。

「…承知いたしました。それこそ、我ら二人のやり方ですな」

「ああ。魔王と怪物の、化かし合いの始まりだ」


こうして、播磨赤松家は、天下の覇権を巡る巨大なゲーム盤へと、自ら駒を進めた。

私の錬金術と、官兵衛の策略。そして、新たに手に入れた超常の力。

全てを賭けて、この乱世を、歴史を、根底から作り変える。

その壮大な実験が、今、幕を開けた。


-***-***-***-***-***-***-***-***-***-***-***-***-***-***-***-


則房(主人公):「ふぅ…これでよし、と。いやー、みんな、ここまで読んでくれて本当にありがとう!作者に代わって、僕、赤松則房がお礼を申し上げます!」


官兵衛(腹心):「…則房様。あなたは一体、誰と話しておられるのですか?まさか、また神の御告げでも…」


則房:「違う違う!"読者"っていう、僕らの物語を見守ってくれている高次元の存在だよ!まあ、君には難しいか」


官兵衛:「はあ…またお得意の妄言が始まった。それより則房様、作者なる人物から言伝ことづてを預かっております。なんでも、『面白そうだから書き始めたはいいものの、他にも連載を抱えており、この先も定期的に更新できる自信がなくて、とりあえず短編として投稿した』とのこと。実に、計画性のない行き当たりばったりな人物ですな」


則房:「こらこら、官兵衛!作者の心を的確に抉るのはやめてあげて!まあ、そういうわけなんだ。僕も、これから信長っていう面倒くさそうな上司(仮)と渡り合わなきゃいけないし、工房での研究も忙しいからね。この先、物語が続くかどうかは、みんなの声援にかかってる、ってわけさ!」


官兵衛:「声援、でございますか。つまり、この物語の続きが読みたい、則房様や私の活躍をもっと見たい、という声が多ければ、作者も重い腰を上げ、連載化を考える、と」


則房:「そういうこと!だから、もし『面白かった!』とか『続きが読みたい!』って思ってくれたなら、評価とか、ブックマークとか、感想とかで応援してくれると、僕も作者も、ついでに隣の仏頂面も、すっごく喜ぶからさ!」


官兵衛:「私は別に喜びませぬが…。まあ、この程度の物語で満足されても困ります。私の本当の智謀、そして則房様の隠された『力』の真髄は、まだ一片も見せておりませぬからな」


則房:「お、言うねえ!そうそう、作者は他にも物語を書いているみたいだから、もし僕らの続きを待つ間、退屈だったら、そっちも覗いてみてくれると嬉しいな!僕ほどじゃないけど、きっと面白いキャラクターがいるはずさ!」


官兵衛:「ずいぶんと自信がおありで。…まあ、よろしい。では、まとめますぞ。この物語をお気に召した方は、何らかの形で応援の意を示していただきたい。さすれば、我らの物語は、まだ続くやもしれぬ。ということでございますな?」


則房:「その通り!さすが官兵衛、まとめが上手い!というわけで、みんな、応援よろしくね!それじゃ、また会える日まで!バイバーイ!」


官兵衛:「…ばいばーい、とは一体。まあ良い。では、皆様、またお会いできることを。…ふふ」

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