蟻の列
地面の下は、夜の湿りを深く含んでいた。
巣の奥で、一匹の老いた働き蟻が、じんわりと湿った土に包まれながら、ゆっくりと身を起こす。節の摩擦は強まり、脚はかすかに震えている。けれど彼は、何の迷いもなく立ち上がる。今日もまた、外に出て、食料を運ぶのだ。それ以外のことは、彼には必要なかった。
彼に名はない。名を持たぬ代わりに、掟を持っている。
生まれ、働き、死ぬ——ただ、それだけの存在だ。
巣の出口は、濡れた葉の下、ひっそりと口を開けていた。夜の余韻を含んだ冷たい空気が、土の匂いをまとって彼の触角を撫でる。地上では、働き蟻の列が、やわらかな朝日を浴びながら、地面に一本の黒い糸のように伸びていた。
若い蟻たちは軽やかに種や木の実を運び、列の傍では、兵隊蟻がじっと動かずに警戒の目を光らせている。誰もが顔を上げず、目を合わせず、ただ淡々と役割を全うしていた。
彼もその列に加わる。脚取りは重く、関節はぎこちなかったが、それでも前へ進んだ。
乾いた鳥の肉片が地面に落ちている。すでに誰かが齧った跡があったが、まだ使える。彼はそれを静かに背に乗せた。
彼は考えない。
肉片の重さが肩の節に食い込んでいても、彼は苦と思わない。朝露が触角に冷たく滴っても、彼は煩わしさを感じない。ただ、運ぶべきものを、運ぶべき場所へ、正確に、黙々と。
若い仲間が、次々に彼を追い越していく。何倍もの荷を軽々と運び、すべるように列を進んでいった。
一方、彼の脚は、土に沈み、乾いた節が軋んでいた。
……一歩。
……一歩。
ただ、自分のペースで確実に歩を進めていく。
羨望という言葉を、彼は知らなかった。
巣の入り口が見えてきた。
そのとき、地面が揺れる。遠くから乾いた打撃音が響き、列の一部が乱れた。兵隊蟻が前へ出る。
だが彼は止まらない。どのような状況でも、彼のすべきことは、いつもと変わらない。
次の瞬間、空から何かが落ちてくる。
乾いた衝撃とともに、地面が跳ね、粒子が舞い、朝の光が砕け散る。
彼の体は潰された。
声もなく、血も流れず、痛みもすら残らない。
そこには、ただ、終わりだけがあった。
——蟻は、生の意味を問わない。
——蟻は、死を畏れない。
列は、そのあとも続いていく。
潰された箇所は避けられ、道は修正され、若い蟻がまた何かを運んでいく。列は変わらず、黙って進みつづけていた。
彼は役割を果たし、静かに姿を消した。
その死を、気に留める者はいなかった。
◆
働き蟻の行列が、舗道の縁に沿って細く黒い線を描いてる。朝の光はまだやわらかく、日陰のアスファルトには薄く湿りが残っていた。濡れた舗道を、音もなく働き蟻たちが行き交っている。
――それを、ひとりの男が見下ろしていた。
蟻の列の動きは静かで、無言で、無駄がなかった。誰も迷わず、誰も振り返らず、ひたすら前へと進んでいく。その動きは、彼に朝の駅で無言で並ぶ通勤客たちを思い出させた。
ふと気づくと、自分もその静かな列の一部になっている気がした。
朝起きて、満員電車に押し込まれ、デスクでメールを整理し、書類をまとめ、会議に顔を出す。昨日と同じことをこなし、明日もきっと同じような一日が繰り返される。
だが、決定的に異なる点がある。
蟻は、考えない。
他者と比べず、評価を気にせず、意味を問うこともない。未来を恐れず、ただ目の前の仕事に没頭している。生まれ、働き、死ぬ——ただ、それだけの存在だ。
近くから、子供の声が聞こえた。
振り返ると、小さな子供が棒を持ち、無邪気に蟻の列をつついていた。乾いた音がして、いくつかの命が押し潰され、消える。ただ、遊びの延長のように、それを繰り返していた。
男は、しばらくその光景を見つめていた。
子供は、それが命であることを知らないのだろう。その無知と無関心は、どこか恐ろしくもあった。だが同時に、それが羨ましくも思えた。
子供は蟻に近い。何も知らず、疑わず、難しいことを考えずに生きている。生きる意味に悩まず、死を恐れず、自分の存在に問いを持たない。
彼もかつて、そうだった。
他人と比べて落ち込むこともなく、将来に怯えることもなく、朝が来れば起き、夜が来れば眠っていた。世界のしくみなど知らず、目の前の遊びに夢中になっていた。
今の彼は違う。
社会の中で働き、役割を果たし、報酬を得て生きている。——けれど心の内は、常に比較と劣等感で満ちていた。自分には無い、他人の生まれ持った才能を、実を結んだ努力を、偶然の幸福を、羨んでばかりいる。考えれば考えるほど、自分が小さく、醜く、遅れているように感じてしまう。
だからこそ、蟻のような存在が羨ましくなる。
比べては苦しみ、苦しんではまた比べる——いつからか、その思考の檻からは、もう抜け出せなくなっていた。
やがて子供は飽きたのか、棒を放り投げ、どこかへ去っていった。
潰された蟻の列は、少しだけ進路を変え、迷いも躊躇もなく、何事もなかったように再び繋がっていく。そこにあるのは、個ではなく、群れとしての生命だった。
男はその場に立ち尽くし、しばらく黙って列を眺めていた。
彼は、もうずっと前から列の中にいた。いつの間にか、ずっと列の一部として歩き続けていたのだ。
ただ彼と蟻では大きく違うことがある。ーー彼は考えてしまうのだ。
生きる意味を、他人との違いを、自分自身の不安定さを。
それでも、彼は歩き出した。
疲れていたが、潰れてはいなかった。考えることはやめられないが、考えながらでも歩くことはできる。今日もまた、無言の列に身を重ねながら、生きていく。それでもいい、と彼は思った。賢くあることをやめられないなら、せめて覚悟を持って歩こう。
………一歩。
………一歩。
ただ、黙々と。