表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢寐の独白  作者: H
男と愛
9/15

三 中編 下

 そして祭の当日がやってきた。祭は夜に行われるので、それまでの間、私と鶴子は別々に行動していた。待ち合わせる場所は決めていた。あの海である。夜の七時を回ったら、あの海で待ち合わせ、共に祭に出向く。そういう予定であった。時間が来るまで私は大学で時間を潰していた。研究も佳境に入ってきたところである。だがこんなもの、学んだところで人生の役になどたちはしない。無為な時間を過ごしながら、私は大学よりは楽しいであろう夜の七時を待望していた。そして、時は来た。時計が夜の六時四十五分を回ったあたりで私は大学から出てあの海へと向かった。今日は厚着をしてきたので、夜の風は心地よいぐらいだった。ただ、計算を見誤ったか、歩くのが遅かったかは不定だが、私が海に着いたのは七時を少し超えたぐらいだった。砂浜に降り立って海岸線に沿って歩いていると、私より先に来ていた様子の鶴子が波打ち際に立っていた。祭だからだろうか、美しい浴衣姿であった。月下で佇む彼女は、冬でも凛と咲くパンジイのようにその姿を映し出していた。私は声をかける。


「遅レテスミマセン」


「イイノデスヨ。アチラデハモウ祭ガ始マッテイルヨウデス。行キマショウ」


 そう言って鶴子は楽しそうに私の腕を引いた。白雪を肌に張り付けたかのように真っ白な彼女の柔らかで暖かな手に包まれて、私の掌も同じく熱を宿し始めるのを感じた。彼女に引っ張られるがままに、私は夜の街に身をやつす。街はいつもよりも賑わっていて、けばけばしい灯りがそこらに灯っていて、人々は狂乱するが如く練り歩いていた。毎年のことである。私は慣れたものであるが、鶴子さんには目新しいようで楽しげに辺りを見渡していた。私はそれを微笑ましく思い、彼女に提案した。


「ドウシマスカ?景色ヲ見マスカ?ソレトモ、食ベ歩キマスカ?」


「食ベ歩クコトニシマショウ。景色ナラ食ベナガラ見ラレマスカラネ」


 真っ当な意見であった。なので私は今年もやっているかは分からないが、美味しい甘味のある店を探していた。幸いなことにそれは、今年も同じ場所にあった。顔なじみになっている店主が私の顔を見て驚いたように眉をあげる。


「おやフーテン。女子と付き合い始めたのかい?」


「違うよ。ちょっと事情があって共に暮らしているだけさ。ほら、いつものりんご飴ふたつ」


「なんだ、つまらねえ。まあ、はいよ」


 私は代金を支払い、りんご飴を受け取る。その片方を鶴子に手渡した。


「アリガトウゴザイマス」


「ホラ、食ベナガラ歩コウカ」


「ハイ」


 鶴子は頷いて私の隣に立って歩幅を合わせた。私は飴を齧りながら、一向に食べ始めようとしない鶴子に疑問を抱いた。もしやりんごや甘味は苦手だったかと焦り、私は質問する。


「ドウサレタノデスカ?」


「コレハドウヤッテ食ベルノデスカ?」


「リンゴ飴ヲゴ存ジナイノデスカ?」


「エエ」


 そうか。地域によっては祭であっても食べない地域や、戦争が行われていることを加味して祭を行わない地域もある。りんご飴という存在に出会わず生きてきた人間だっているのである。私は自分の知識をもとにりんご飴について説明する。


「リンゴ飴トイウノハリンゴヲ砂糖ナドデコオティングシタ菓子デス。私ノヨウニソノママ齧リツケバヨイノデスヨ」


「ソウナノデスカ。私モマダマダ無知デスネ」


 そう言いながら鶴子は口を開いて、たどたどしくりんご飴に齧り付く。砕けて彼女の口の中に納まった飴は彼女の口腔で溶けて飲み込まれてゆく事であろう。彼女は喉を鳴らし、嬉しそうに笑った。


「美味シイデス」


「ソレハ良カッタ」


 歩いているうちに音が鳴るので気付いたが、今日の鶴子は下駄を履いてきているようだった。和を体現したような彼女の姿は、私の視界に収まるたび、少し心を揺らした。りんご飴を食べ終わった後も、一変した街の景色や、その他の食べ物を食べ歩きながら祭を楽しんでいた。鶴子は世間知らずのようで、体験する一つ一つが人生で初めての体験らしく、幼子のように目を輝かせて喜んでいた。

 少し疲れたので私たちは長椅子に並んで座った。街からは少し離れた、喧騒と街灯りが見える程度の場所だった。たくさんのものを食べたので腹が膨れてしまっている。いつもだったらこんなことはないはずなのに、鶴子とともに歩いていると財布が緩む。心なしか、いや確実に、今年の祭は縮小されているにもかかわらず、例年よりも遥かに楽しかった。共に楽しむものがいるというのはここまでの効果を生むものであろうか。それとも、相手が鶴子だからこんなにも楽しいのだろうか。鶴子はふと、私の顔を見て聞いた。


「ソウイエバ、街ノ人々ガ言ウ『フーテン』トハナンナノデスカ?」


「私ノ綽名デスヨ。大シタ意味ハアリマセン」


「仲ガ良イノデスネ、街ノ方々ト」


「悪名ガ知ラレテイルダケデス。彼ラハマダ友好的デスケレド、中ニハ私ノ顔ヲ見タダケデ、親ノ仇デモ見ルヨウナ視線ヲブツケテクルヨウナヤツモイマス」


 それも、私が朝早くから酒場に入り浸って悪人とつるみ、酔っぱらったまま街をふらつき歩くからなのだが、悪い気はしなかった。悪いものを正当に悪いと言うのは正しいことであり、街の人からの評価も気にするものではなかった。


「コンナニモ素敵ナ方ナノニ、ソレガ分カラナイ人モイルノデスネ」


 急に鶴子がそんなことをぽつりとつぶやき、私の胸は跳ねた。まるで告白の前置きのような文言ではないか。私は昨日のように浮かれているのではないかと、彼女の真意を確かめようとした。


「マタ、空気ニ当テラレタノデスカ」


 だが彼女はそれには答えずに、遠くを見るような目付きで空を眺めていた。私は黙っていた。彼女も黙っていた。ふと、指と指が触れ合った。引っ込めはしなかった。


「私ガ恋路ノ縺レデココニ来ルコトニナッタト話シタノヲ覚エテイマスカ?」


「ハイ」


 彼女は唐突に過去について話し始めた。以前はそれ以上教えてくれなかったようだが、彼女の中で整理がついたのか、話そうという気になったらしい。このような一対一でゆっくりと向き合う機会でもなければそんなことを話すこともないだろうから、いい機会だと私は感じた。


「友人ハアル男性ニ恋ヲシテイマシタ。確カニ身長ハ高ク、顔ツキモ悪イモノデハアリマセンデシタガ、大シタ関ワリノナイ方デシタ。ソンナ人ニ恋ヲスルナンテ私ニハ想像モツキマセンデシタ。ドウイウトコロガ好キナノカト問ウテミテモ、心ガ疼クトカ、彼ヲ無意識ニ目線ガ追ウトカ、他ノ事ヲ考エラレナイダトカ、本質的ナコトニハ何モ触レナイ答エダケガ帰ッテキマシタ」


「ヨクアル話デス。恋トハ得テシテソウイウ者ガスルモノデス」


「エエ。私モソウ考エテ、タダマア、私ニ害が向クコトハナカッタノデ、傍観シテイタノデス。シカシアル時、ソノ男性ガ私ニ対シテ交際ヲ申シ込ンダノデス。私ハヨク分カラナイト断ッタノデスガ、友人ハ私ニ対シテ嫉妬ノヨウナ感情ヲ覚エタヨウデ、口喧嘩ニナリマシタ。ソレデ結局、互イニ納得デキズ私ガ出テイク事ニナッタノデス」


 そんな事情があったのか。だが、よく聞くような理由もよく分からぬ下らない嫉妬心による事の顚末である。そんなことの被害者になってしまった鶴子を哀れに思った。


「何故ソンナコトヲイマ?」


 私はそう問いかけた。鶴子の方を見ると、彼女の頬は夕陽がそこに上ったと錯覚するほど紅潮していた。指と指が触れ合っていただけのはずが、いつの間にか私たちは手を重ね合わせていた。これではまるで本物の恋人だ。

 彼女は何かを言い淀んでいた。私と目を合わせたかと思ったら、また違う方を見て、あちらこちらへと目を動かしていた。忙しい動きをするなと思っていたが、覚悟を決めたように彼女の目に鋭さが宿る。彼女と私の目が合った。キチンとした、そんな女性だと再び思った。


「ねえ」


 そんな彼女が、今まで無意識下に出会った時から敷いていた、踏み入らないようにしていた心の静謐を打ち破るかのように、親しげに話しかけてきた。それに私は戸惑う。惑う。胸が、溜まっている血をすべて吐き出そうとしているかのようだった。何か、言いようもない焦燥感と、期待が胸に押し寄せていた。この感情はなんだろうか。

 鶴子が言う。


「私の心の海に、あなたが映り続けているの。焼き付いて離れない。綺麗なお月さま、あなたはどうなの?」


 それは、確実に告白であった。昨日の夜、誤魔化したあれとは違う。心の底から放たれた、人の胸の内を暴こうとする言葉であった。初めての体験に私は訳の分からない衝動を感じていた。愛なんてくだらない。私は理解できない。恋なんてしない。私はしようと思ってもできない。

 そう思っていた。だけれど、この胸の内に沸き起こる感情は、皮膚や内臓を食い破らんとばかりに波打つ心臓は、私の中にもそのような感情が確実に存在していることを証明している。今まではそれが泥んだ澱の下に燻っていただけだということの、証左であった。

 私は、私は。私が答えを出す前に、街の方から花火の音が聞こえる。鶴子が驚いたように言う。


「あら、なんで花火?今は禁止されているでしょう?」


 ああ、教えてあげたい。これは実に滑稽な話でね、花火が禁止されてからこの街ではちょっとした焼夷弾を改造して疑似的な花火を作り出してそれを楽しんでいるのさ、もちろんけがは出ないよう厳重に注意されている。そんな風に、この庇護欲が掻きたてられる愛おしい女性に教えてあげたかった。

 そう考えて、自分で気づいた。言葉にしてしまえばとても単純な事だったのだ。思わず零れた言葉こそが真意だ。ずっと誤魔化してきたのだろう、私は。今まで恋を感じたことがなかったから、愛を抱いたことがなかったから、この鶴子に対して覚える今まで私の中に存在したことがない奇妙な衝動に、名前を付けようともせずに目を逸らし続けていたのだ。だが、口にしてみれば簡単だ。私は愛おしく思っていたのだ。この、鶴子という女性を、いつの間にか…………。

 胸が高鳴る。そうか。そうだったのか。


「こっちを見て」


 花火に目を逸らしていた鶴子にそう優しく声をかけた。鶴子がさらりと私を見つめる。美しい瞳、整った顔立ち、そして小動物を思わせるような愛くるしい唇。私は彼女の肩を引き寄せる。彼女が私の身体に、自身を預ける。彼女は両手で私の服の裾を掴んでいた。すぐそこに、鶴子の頭頂部がある。彼女の心臓の鼓動が私の心臓を動かしているかのようだった。どちらがどちらを生かしているのか、それが分からないぐらいに私たちは密着していて、互いを求めあっていた。鶴子が私を見上げる。彼女の唇が、すぐそこにあった。私は鶴子に顔を近づける。彼女が、そっと目を閉じた。



 ふっと、混ざり合うように重なった。互いに、今まで食事と会話にしか使ってこなかった唇同士を重ね合わせた。柔らかいとか、温かいとか、心臓があり得ないぐらいに拍動しているとか、そんなことよりも私は自分が彼女の一部として取り込まれてしまったかのような満足感を覚えたのだ。離れたくない。そう思い、彼女の肩と触れあう左手に掛かる力が強くなる。彼女も同じことを考えているのか、私の服の裾を更に強く引っ張っていた。だが、時は来る。どちらからともなく口を放した。不意に、鶴子の顔を見るのが気恥ずかしくなり、目線を逸らす。どうやら鶴子も同じようで、街の方へ視線を預けていた。

 それからしばらく沈黙が続いた。しかしそれを鶴子が破った。


「それで、あなたはどうなの?」


 私は思わず言ってしまう。

 

「君はズルい。分かるだろう、私の気持ちは、今の行為で」


「行動で示すだけなら、動物にもできますよ?」


 私は白い溜息を吐く。その白い溜息がこの世界に溶け込んで消えてゆくのを眺めながら私は彼女の先ほどの質問に答えた。


「どうか、私の灰白の身体を優しい揺蕩で飲み込んではくれないか、大海原よ」


 彼女の顔を見ると、彼女は泣き笑いで頷いた。そして、再び私たちは唇を重ね合わせた。岩陰に身を潜めていた二匹の鯉は、確かにその岩陰で幸せを無意識に追い求め、それを掴み取ることができたようでした。

 私は恋を知りました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ