三 中編 中
鶴子と同棲を初めて二ヵ月ほどが過ぎました。私達の関係は良好で、互いに互いを尊重し合う生活を作り上げることに成功していました。新しい生活が始まっていることには間違いないのですが、私は未だあの酒場に入り浸るのをやめられないでいました。私の評判が悪くなれば、あの女性も共に落ちぶれるということは分かっていましたが、それでもやめられないのです。これは衝動というよりかは、呼吸のようなものでした。鶴子と共に過ごしているときはまだよいのですが、普段から人と接しているときは、まるで地上に打ち上げられた魚のように、どうやって呼吸をすればいいのか分からなくなるのです。そんな私にとっての水中があの酒場だったのです。人間としての肥溜め。成れの果ての果てとも形容すべきそこだけが、私が無条件に安心することのできる逃避先だったのです。本当の私が、そのまま受け入れられるのはそこぐらいでした。鶴子に曝け出すのは怖かった。きっと幻滅されるだろう。大切に積み上げてきた関係が全て崩壊する。それが私には怖かった。だけど、このままでは我を見失ってしまう。そんな最低な我など見失っても構わないかもしれないが、それでも二十余年の付き合いです。別れを惜しむのは当然のことで、必死に守り抜こうとするのも当然の本能でした。だからここは安心できる場所であるとも同時に、生命線でもあったのです。
「もう一杯」
店主にそう頼んだところで、例の下衆男が私の隣に座りました。知り合いであることを知られるだけで立場が危うくなるような男ですが、悪友の一人であることには間違いありませんでした。心底嫌いでした。行動や言動が気持ち悪いと思っていました。それでも親近感を覚えるのは、私もどん底の一人であるからでしょう。
「フーテン。細君が出来たようだな。街で連れ立っているのを見かけたぞ」
フーテンというのは私の綽名でした。
「細君じゃねえさ。ただの同居人だよ」
「へん。女と一緒に住んで、一緒に歩いて、それで婚姻してねえなら何だってんだ。交際すらしてねえのかい?」
「ああ。本当にただの同居人だ」
男は理解できないというように肩をすくめた。性慾しか頭にないこの男には、愛慾と性慾のどちらも介在していない私と鶴子の関係がとても珍妙なものに見えた事でしょう。だが事実として、私達の間には何の関係もないのでした。
「訳が分からないな。学生さまは奇妙な思想でもお持ちになってるのか、俺たちみたいな下品な奴らには到底理解できん」
「構わないさ。オレとあいつにしか分からないだろうな、この感覚は。まあ、オレの話をするのはもうやめよう。明日には祭があるんだろう?」
「ああ。規模は小さくなるが、全員で騒ぐぞ。あまり大きな声では言えねえけど、誰かが花火を持ち出したから終わりにはそれを打ち上げるらしいぜ」
花火か。嫌いではないけれど、騒がしいものだと思って好き好んで見るようなことはありませんでした。毎年、祭が盛り上がってきたところで夜空に向かって打ちあがり、人々の心に火傷を刻む。それが花火でした。
「持ち出したって、盗んだの間違いだろう?」
「大した違いじゃないぜ。俺は楽しめるなら何でもいい」
「まあ、祭はそういうもんだからな」
「フーテン、お前はどうなんだ?」
男のその問いの意味が私には分からなかったので、答えられないでいました。そんな私を見て、男は質問を噛み砕いて口にした。
「例の女と一緒に来るのかって意味だ」
私は分かりませんでした。時折、鶴子と共に外出することはありましたが、祭を共に楽しむかどうかは分かりませんでした。彼女は祭の様な騒がしい物事を好むような性格でしょうか。二ヵ月の付き合いではそれを理解することはできませんでした。帰ってみたら聞いてみることにしようと考え、私は男に答えました。
「未定だ」
「そうかい」
私は運ばれてきた新しい酒を一気に喉の奥に流し込みました。肴も食べずに、ただ酒のみを一度に飲み干しました。食道が一気に熱くなったような感覚に陥りながら、私は立ち上がりました。
「オレはもう行くよ」
「そうか」
私は代金を支払い、店を後にしようとしました。酒屋の喧騒を惜しみながら、私は扉に手を掛けました。そんな私に後ろから下衆男が声をかけました。
「なあ」
「なんだい」
振り返ってみると、やはりというか男は下卑た視線をぶつけてきており、口元にはいやらしい笑みが浮かんでいた。
「あの女に手を出したら、あんたは怒るのかい?」
…………分かりませんでした。だが、初めて出会った時に鶴子が恋愛などくだらないと言っていたのは覚えています。恋愛の延長線上にあるであろう行為についても忌避していてもおかしくはないとは思いましたが、全ては私の妄想にすぎません。ですが、面倒なことになるのは間違いありませんでした。私はそれを歓迎していません。鶴子が築いてくれた平穏な生活を私は守りたいと思っていましたから。
私は答えました。
「ああ、怒るよ」
鼻で笑われた。私も失笑した。所在を失った私はそのまま酒場から出ていった。酒気を帯びたまま私は外気に触れる。冷たい。もうそんな時期か、と自然に対して思いを馳せながら私はいつも暇つぶしのために向かう海へと向かった。鶴子に初めて出会ったあの日も、あの海を散策していた。数分ほど歩けばそこには辿り着いた。私は砂浜を海岸線に沿って歩いた。波の音が残響し、私の足元に塩っぽい液体がかかる。一歩歩くごとに世界から立ち去ってしまう時の様な足音が鳴り、そんな私の汚れを飛ばしてくれるかのような風が頬を撫でた。それが鼻をくすぐり、掻痒感を覚え、そのままくしゃみをした。垂れた鼻水をハンケチで拭う。私はその時立ち止まっていたので先ほど私が鳴らしていたのと同じような足音がするのが分かり、私以外にも海を歩いている人がいるのだと気づいて顔を上げた。鶴子がいた。私はハンケチを衣嚢にしまいながら彼女に話しかけた。
「コンニチハ、鶴子サン。オ散歩デスカ?」
「エェ、マア。アナタハ…………イツモノ酒浸リデスカ?」
鶴子は困ったように笑った。彼女はいつしか、困ったように笑うという悪癖がついてしまったので、その酒浸りですか?という質問が私のその行為に対する諫言なのか、それとも単なるからかいなのかが判断できないでいた。なので私も言葉尻を濁したように「ソウナリマスネ」と小声で言うしかなかった。私が顔を上げると、鶴子さんは海の方へと視線を向けていた。私もそれにつられて海を見ると、ああ、こっちの方はこんなにきれいだったなと昔初めてそれを見た時を思い出すように、その光景を眺めることができた。
反対側の方で地平線に飲み込まれていく太陽とは裏腹に、こちらの空には紫と黒を調和させた星空が覗いていた。そして彼らの総大将のお出ましだというかのように、真ん丸な月がその灰白をのぞかせていた。夕日の頃の海は橙と白を孕んで煌めいているのだが、夜には逼迫感と悠然さを湛えた巨大な一柱の怪物であるかのように、私達を歓迎していた。それに気づくまでは自然の音にしか聞こえなかった波の満ち引く音も、今となってはその怪獣の唸り声にしか聞こえなかった。だがその暗い海の表面には私たちを見守ってくれる天が張り付いていて、怪獣が目覚めるのを抑えつけてくれているかのようだった。この肌寒さも、この非現実的な海と夜空の美しさに稠密に溶け合い、まるで私たち二人だけが異世界の景色を二人占めしているかのような錯覚に陥った。ああ、砂浜の方にいてよかった。波の方に足を踏み入れていれば、きっと私はこの怪物に負けて、海底に食べられてしまうから。
「綺麗デスネ、コノ世界ハ」
私は彼女の方を見て、思わずそう呟いていた。鶴子は海の方から目を外し、私の方を見た。目と目が、あった。彼女は悪戯っぽく私に言った。
「世界ハ綺麗デスケド、ソレヲ眺メル人間ノナント醜イコトダトハ思イマセンカ?」
「私ハアナタモ、私ガ引キ立テル世界ノ一部ダト思ッテイマシタケレドネ」
少し気障っぽくそう返すと、鶴子は眉を顰めた。
「イツカラソンナ変ナコトヲ言ウヨウニナッタノデス」
「明日ハ祭ダカラ雰囲気ニ当テラレタノカモシレマセン」
「祭デスカ」
「エエ、今年ハ規模ガ縮小サレルヨウデスガ、楽シイデスヨ。参加サレテハドウデス?」
私がそう提案すると、鶴子は考え込むようなそぶりを見せた。だがすぐに彼女は返事を見せた。
「参加シマス。デモ、コノ辺リノ事ハ知ラナイコトガ多イモノダカラ、引キ連レテイッテ下サル?」
鶴子が右手を差し出す。私はその手を取って答える。
「勿論、オ供サセテイタダキマショウ」
「嬉シイデス」
私たちは二人で笑い合った。それから私たちは並んで砂浜に座って海を見ていた。波が私たちの足元を濡らす。どこからか現れた蟹に指を挟まれ驚いた私を見て、鶴子が笑っていた。幸せな、穏やかな時間であったと感じていた。憎まなくてもいい、嫌悪感も覚えない、下卑た話をしなくてもいい、話が通じる。鶴子は今まで出会ったことのない人間であった。私は明日の祭やこの時間に少し気分を高揚させていた。そして酒を飲んでいたこともあり、変なことを口走ってしまった。海の水を掬い、両手に溜めた。
「月ガ空ニ掛カッテ、ソノ姿ガ海ヤ私ノ手元ニアル。イマナラ、月を食ベテシマエソウナグライダ」
そんな私を見て、鶴子は楽しそうに笑っていた。
「月ノ光ヲ食ベタアナタハ月ノヨウニ綺麗ダト思ッテシマウカモシレマセンネ。綺麗ナ月夜デスカラ、ソノ輝キモ一入デショウ」
私はその言葉に戸惑ってしまった。頬を僅かに赤く染めて恥ずかしそうにしていた。ふと、指が触れ合った。どちらからともなく、引っ込める。
「鶴子サンハ、文学ヲ嗜マレルノデシタカ?」
「イエ。ソレニ、先程ノハ冗談デスヨ。私モ空気ニ当テラレタミタイデスネ」
私のすぐそばにいる女性は、今まで見たことのない笑顔を見せていた。その表情の意味は分からなかったが、これも大切にしたいものの内にあるのだろうかと疑問を抱いた。彼女の感情を何と呼ぶのだろうか。彼女の感情から生み出されたこの表情に心を乱されている私の感情を、何と呼ぶのだろうか。それを知りたいと思った。だが、その日のうちには知ることはできなかった。その日はそれから、三十分ほど海を見て、そのまま家に帰った。湯浴みの後、布団にもぐったが、そこから見える月は、本当にあの砂浜で見たものと同じものだったのだろうか。随分と、それに比べて色褪せて見えた。その理由を考えている間に、眠気に襲われ、そのまま眠りについてしまった。




