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夢寐の独白  作者: H
男と愛
7/15

三 中編 上

 二人して息を潜めておりました。私はもう、大学に行くことは諦めました。いまから向かったところで、山西教授の怒りの鉄槌を喰らうのみでしょう。それならば、このように、生命を羽搏かせた後の蛹のように生きている方がずっと有意義ではなくとも、安心できる。そう感じたのです。とは言っても、このまま何もしないわけにはいきません。二人の遺体の処理もしなくてはならないでしょうし、この女性もこのまま放っておくわけにはゆきません。しかし私たち二人の間には、暗黙の了解のようなものが出来上がっていました。互いによって創り出されたこの静謐を、破らないようにしたい。もし破ってしまえば、この虚無から一気に現実に引き戻されてしまう。それは、避けたい事象でした。そのため、お互いにしなくてはならないことをしようと考えていながら、互いに踏み出せずにいるというちぐはぐな状況に陥っていたのです。池の周りを飛んでいたカラスがガアと鳴きました。バサバサとどす黒い翼をはためかせて、どこかへと飛び去ってゆきました。私も泣きたい気分でした。嗚呼と、投げ出してしまいたい気分でした。だが、私には翼がない。醜く叫ぶ喉は持ち合わせておきながら、彼奴らのように自由を掌中に収める羽がない。それを嘆きました。

 そんな堂々巡りの私をさておいて、隣の女は別の事を逡巡していたようでした。彼女は、私の肩を人差し指で一定の調子をもって三度突きました。私は彼女の方を見つめました。透いた瞳があった。野兎の如く小さな唇を震わせ、私に話しかけた。静寂は、彼女の方から破られた。


「家族ガ死ンダラ、何ヲスレバイイノデショウ」


 ひどく、褪めた声色でした。厭世の色を塗りたくったような、聞いているだけで共にその絶望感を五感で共有しているような、厭な耳障りがしました。


「火葬デショウ。死亡届等ノ手続キハ私ガ行イマショウ。コレデモ数年間ハ世話ニナッテイタノデスカラ、ソレグライハサセテクダサイ」


 何をほざいているのでしょうか。いまにだってこの場から逃げ出して、酒を飲んで全てを忘れてしまいたいというのに。口から衝いて出るのは、機嫌を取るような耳当たりの良い言葉ばかり。どうしてしまったのだろうか。人のことを気にして話すなんて、私はこの女性に対して何を期待しているというのでしょうか。気にするというのは、期待の表れです。最初から期待をしていなければ、いちいち機嫌などとる必要はないのです。このキチンとした娘は、私を酷く惑わせたのです。


「有難イデスガヨロシイノデスカ」


「構イマセン。肉親ガイタホウガ説明モ易イト思ワレルノデ付キ添ッテハ頂キタイデスガ」


「勿論、助力サセテ頂キマス」


 快い返事に私は安堵した。気遣いが意味なく無下にされることは往々にしてあるものです。この娘がそのようなことをする人間ではないと知り、少しは好感が持てました。


「タダ」


 しかし彼女は声色を暗くして続けました。


「私達ハコレカラドウスレバヨイノデショウ」


「コレカラトイウノハ?」


 愚図であるかのように尋ねましたが、私にもわかっていました。彼女の目的は想像だにできませんが、私自身の現状というものは身に染みてわかっています。下宿先を失った。それだけです。それだけならば良かったのですが、私は普段の人付き合いや行動がなっていないせいか、この街では嫌われ者です。宿を借りるとなれば、交渉は非常に難儀なものになるでしょう。私に家を貸してくれる人など、それこそここの夫婦しかいなかったのです。その時、この娘も私と同じなのではないかという、そんな考えが頭をよぎった。


「アナタハココノ夫婦ノ娘ナノデショウ。独リ立チシタトイウノナラ尚更ココニ訪レタ理由ガ分カリマセン。モシヤ、アナタモ家ガナイノデショウカ」


「実ハ、ソノ通リナノデス。同居人トノ関係ガ悪化シテシマイ、論争ノ末、私ガ出テユクコトトナッタノデス」


 そんな、不条理があるのでしょうか。恐らくこの女性は正当に代金を支払うか、家事の手伝いをするかをして住まわせてもらっていたのでしょう。それを、同居人によって退去させられるというのは、この女性にとって利益が何も生まれない、不平等ではありませんか。困ったように笑うその女性の横顔を私は見つめ、恐る恐る尋ねました。


「関係ガ悪化シタ理由ヲ尋ネルノハ失礼ニアタルデショウカ」


「イエ、構イマセン。タダノ恋路ノ縺レデス」


「ハァ」


「クダラナイ、愛ナド。ソウ正直ニ告ゲルホド、私ハ心ガ強クアリマセンデシタ」


 恋路。つまりは人に対する愛慾である。それが論争に発展するなど、やはり私には理解のできない縁遠い概念であることが再び確認されたかのような心情になりました。何も言うことができず、私はただ頷くのみでした。彼女はそんな私から表情を変えずに目を離しました。小さく息を吐き、女は過去を回想するかのような遠い目付きで池に視線を落としていました。心なしか夫婦が生きていた時より汚れが増したように思えるその池で、幾匹かの鯉は気にせず泳いでおりました。悠然と、何も変わっていないかのように、自らの身体を美しいと誇示しながら泳いでおりました。しかしある二匹の鯉は汚れを感じ取っているのでしょうか。弱々しく、身を縮ませるようにしてひそかに泳いでおりました。その鯉らは共に岩陰に身を潜めて、にぶいその他の鯉たちを蔑視しているように見えました。日当たりの悪いその岩陰は、しかして他の場所よりも澄んでいて、その近くには可憐な草花が生えて、その鯉らを見下ろしておりました。私はふと、考えざるを得ませんでした。

 愛。男女の関係には付きまとうものです。共に並び過ごす男女を見れば交際しているか、番いであるかと思案を巡らすことでしょう。私はそれを煩わしく思います。理解ができませんでした。女と生を共にしたい。誰かを心の底から求める。美しい肉体に触れたい。慾を満たしたい。愛したい。愛されたい。何もかも、知らない感情でした。教えられても想像はできませんでした。本に書かれる愛はどこか絵空事で、自分事にはできませんでした。

 なぜ、人は愛を求めるのでしょうか。自分にだけじゃない。他人にだって愛を強要する。愛は、そこまで尊いものでしょうか。そこまで、大切なものでしょうか。愛は、いらない。ただ種として生存するだけならば、愛情など存在しない方が合理的です。ならなぜ、この世界には愛情などという感情が存在して、人々はそれを何よりも大切に扱うのか。そんなもの、必要ないのではなかろうか。愛が存在しない生活を、求めてはいけないのでしょうか。もしそれが、実在するのならば、私はこれからの生活を、想像することが不可能ではないような気がしたのです。


「私タチガ共ニ過ゴストイウノハドウデショウカ」


 女がこちらにふと視線を向けた。


 「ソレハドウイウ意味デショウカ」


「私達ハドチラニセヨ、社会ノハグレモノデス。行キ場ナドアリハシナイ。デスガ、ハグレモノ同士ダカラコソ、私達ハオ互イヲ尊重デキルト思ウノデス」


「家ハドウスルノデス」


「ココニ住マエバイイデショウ。勿論、アナタガ嫌ダト言ウノナラバ無理強イハ致シマセンガ」


 女は考えている様子でした。見ず知らずの男から同棲することを提案されているのだから、躊躇うのは当然の反応でした。女は霧でも吐き出すかのような大きな溜息をついて、じっと自身の指先を見つめておりました。彼女は指で手すさびをしており、何も考えずに茫然としているのか、私の問いへの返事を考えているのか分かりかねました。彼女はそんな虚ろな動きをしたまま、唐突に私に言いました。


「構イマセンヨ」


「本当デスカ?私カラ言ウノモナンデスガ、心配デハナイノデスカ?」


「アナタガ慾ヲ持ッテイルヨウニハ見エマセンデシタ。間違ッテイマスカ?」


「イエ」


「デハ、構ワナイデショウ」

 

 そこで女性は初めて、私に向かって心底微笑んでくれたような、そんな気がした。私達の口から漂う饐えた臭いや涙の痕を除けば、この場面を切り取って絵画としても問題はない。そう思えるような笑顔でした。しかし、その汚らわしい臭いや痕跡をこそ、芸術家たちは喜んで掻い摘み、描くのかもしれませんが。

 そして私は、あることを尋ねるのを忘れていたのも思い出しました。恐る恐るそれを尋ねます。


「ソウイエバ、オ名前ハ何トイウノデショウカ」


「鶴子ト申シマス。アナタコソ、オ名前ハ?」


 そう鶴子に問われ、私は自分の名前を口にした。鶴子は微笑んだ。


「良イオ名前デスネ」


「私ニハソウハ思エマセン」


「イエ、良イ名前デスヨ」


 名前に良い悪いがあるものか。それならば世間の皆様は最高に良い名前だけを子につけておればよい。そうすれば、世界中みんな同じ名前になってしまうだろうが。そんな批判的な事を考えはしたものの口に出したりはしなかった。これから同居することになる相手と円滑に事を進めるためである。初めからいがみ合っていてはなにも上手くいきません。なので私はただ、呟くのみでした。


「ソレナラバ、ソウナノカモシレマセン」


 この日を皮切りにして、私達は同居を始めました。初めの頃は近隣の住民から酷い嫌がらせを受けたものです。汚らわしいだとか、恥知らずだとか、謂れのない誹りを受けました。夫婦も似たようなことを言われ続けていたのでしょう。しかしそれもじきになくなりました。ひとえに鶴子の善性によるものであったと思います。彼女は昔話に現れる天女であるかのように人々に慈愛をもって接し、その心を溶かしていきました。いつしか私たちの生活に口を出すものはいなくなっていました。私自身も大学での学業も順調で、鶴子と愉しい日々を送っていることに自然に慣れていきました。だんだんと、人の心に間近で接するようになっていったのです。

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