三 前編
男の兄たちの死から数日が過ぎ、既に年を越してしまった。一月一日の夜であった。米英が独逸にてバイゾニアという占領区域を設けた日でもあった。しかし日本はそんなことに興味を向ける余裕などない時勢であった。ちょうど兄たちが一家全滅を遂げた日の朝は男が入院している東北にはあまり関わりのないことではあるが、和歌山の辺りで南海道地震が起きていた。ただ、この病棟はそれらとは全くのかかわりがないかのように、断絶された静寂を保っていた。
そして、日記を書き終え、じっくりと読み返している男は病室に一人の人物が入ってきたのが分かった。男は懐かしげにその人物に対して微笑みかけた。
「お久しぶりですね」
病的にやせており、ひょろひょろとした高身長な男がそれに対して親しげに返した。
「随分と穏やかになったね」
「することもなければ、精神は自然に研ぎ澄まされてゆくものです。古代に名を残した哲学者が多いのは、きっとそういうわけでしょう」
「あまり専門にしないことを語るものじゃない。僕が哲学を専攻していたことは知っているじゃないか。中世や近世の哲学者にだって、名を残しているものは古代に並ぶほどいる。もちろん、その功績だってね」
「ゲドウは相変わらず哲学が好きですね」
その高身長な男はゲドウと大学の学友の間で呼ばれていた。彼は耶蘇教を研究していた男とは違い、イブン・アラビーの思想についての造詣を深めることを目的としていた。整った顔立ちと優しい性格から彼は男女問わず好かれ、男の大学時代の友人の一人でもあった。
「ここに来たのは、クラマから聞いたからなんだ。どうやら君が過去を回想しているらしいから、僕もそれに肖って一緒に懐かしもうというわけさ」
「それは丁度よかった。この日記も完成したところです。時間が許す限り、お話ししましょう。はじめからに致しますか?」
「いや、クラマが聞いた所までは、彼自身から拝聴したよ。その続きからで構わない」
男は頷き、日記を大切に開き、以前クラマに対して読みきかせたところまでを目で追って確認し、ここから話し始めるのだというチェックを指でつけた。
「以前よりも、少々陰鬱な話になることを、先に詫びておきましょう。では、私の愛慾について、再び語り始めるとしましょう」




