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夢寐の独白  作者: H
男と兄
5/15

 ある日も男は日記を書き綴っていた。クラマに対して書き出しを聞かせてから数日が経過したころであった。師走も暮れて、じきに新たな年がやってくる頃合いである。病棟の外も治安は良くない。昨日、首相官邸では在日朝鮮人らが時の吉田茂内閣に対して反対する暴動を起こしたという。米軍が沈静化させたらしいが、表面に出た一部の暴動が治まっただけである。根底には未だ多くの悪感情が燻っている。これだけでは終わらぬ長い問題になることが知れた暴動であった。しかしそんなこと露知らず、男は日記を書き綴り続けている。

 窓の外では雪が降り積もっている。そんな厳冬期である今日も男の部屋には客人があった。男の兄である。兄は日華事変に出兵しており、肉体は大きく負傷していた。右腕は欠損しており、腹部には破裂した爆弾の欠片に付けられた大きな傷が未だに残っている。彼は戦から帰ってきてからも、苦しい日々を過ごしていた。借金の返済が間に合わず、じりじりと、しかして確実に没落してゆく実家の対応に追われ、弟の見舞いに赴くことができていなかった。彼は行方の知れなかった弟の現状を、弟が書生として過ごしていた地域の人々に聞いて回り、精神病棟に入院していることを知った。そうして今、見舞いに現れたというわけなのだ。兄は陰鬱とした表情を浮かべており、男はそれに見向きもせず日記に向かい続けていた。重苦しい雰囲気が病室には充満していた。


「調子は、どうだ」


 兄は気まずそうに男にそう問いかけた。男は返事をしなかった。見向きもしなかった。出鼻を挫かれてしまった兄は顔を醜く歪め、どうしたものかと思案していた。彼はこの数年間何があったかを語らい合おうと考えていたが、弟からのあからさまな拒絶に、その気も失せてしまったのだ。兄は体中に掻痒感を覚えた。自分の思い通りにならない。空気が重苦しい。気分が悪い。それらが彼に苛立ちを与えていた。彼は衣嚢を弄り、その中に入れておいたある物に触れる。だが思い直すように首を振った。彼の動悸は速くなり、吸う息吐く息が荒々しくなっていた。兄は気を取り直すように自らの頬を叩き、大きな深呼吸をした。


 「戦争は終わった。日本国の戦争も、私自身の戦争も終わったのだ。支那事変、いや今は日華事変と呼ぶのだったか。もう思い出したくもない、辛い戦いだ。日に日に消えていく、おとついまで話をした仲間たち。憎たらしい上官も、肉片となれば情が湧き、涙を流しながら藻掻いた。お蔭で私の右腕もこの様だ。結果として、何も生まない戦いであった」


 兄はここ数年間の自分の人生を回顧していた。日華事変は八年近くにも亘る大戦争となり、日中両国に甚大な被害をもたらした。その被害は軍人のみならず民間人にも及び、欧亜大陸東岸に絶望を振りまいた。その間に先の大戦が好転することもなく、キノコ雲が日本国土に舞い上がることによって決着は齎された。兄は自分の人生の無常を嘆いていた。いとけない頃から絶対と教えられてきた日本が敗戦し、信奉し続けた天皇陛下も人間宣言を為された。今まで信じてきたものが全て裏切られたような終戦直後を過ごした彼はその時の心中を誰かに吐露したい気分だった。しかしそんなこと、誰に話せることでもなかった。地元の地主の子息として生まれ、故郷で坊ちゃんとして育てられてきた兄は、没落した今、民衆の鬱憤をぶつけられる対象であった。毎日のように皮肉を言われ、惨めな気持ちを過ごしていた。彼は清廉な人間である。が、身分は庶民とは異なっていた。生まれてからの不自由がほとんどない彼の優しさは、貧窮を生きる民衆には憐みのように思えてならなかった。華族の絶頂期であった頃から民衆に対等になろうと歩み寄っていた彼は、生活で言えば対等に近くなった現在ですら、真に対等な関係を築くことはできなかったのだ。


「知っているか。父さんは戦死した。母さんも勤労で肺を悪くして、いつ死んでもおかしくない。妹は名も知れない男の子供を身ごもった。家の物品を質に入れるとき襲われたらしい。それからは自室から顔を見せなくなってしまった。尖ったものを置いておけば、自傷行為に走るからそれを部屋から取り除き、下手なことをしないよう、従者に見張らせている。従者も、もう一人しか残っていないが。分かるか。私たちはもう、終わるのかもしれない。希望が見えない世の中になってしまった。街を歩けば事情を知らない無垢な子供らが米兵にギブ・ミー・チョコレートと食物をねだっている。いつから日本はこうなった。私が中華民国にいる間、何があったのだ。全て終わりだ」


 そんな現実に対しての怨嗟を叫び続ける兄だったが、男はそれに対して何ら関心を示すことはなかった。ただひたすら文字を書き留め続けていた。一頁が一杯になってしまったので、彼は日記帳を捲った。もともと薄い日記帳ではあったが、そろそろ書くことも出来なくなってしまう。だが、別にそれでもかまわなかった。男の懐古の物語も書き終わりそうなところだったのだ。書き終えてからは推敲の段階に入ることだろう。


「お前しかいない。細君もいなくなった。手紙が途切れてから疑念はよぎっていたが、どうやら栄養失調で死んだらしい。私には残されてはいない。日本国民としての誇りも、軍人としての栄誉も価値を失った。弟よ。お前だけが、私と向き合ってくれると、そう信じてここに赴いたのだ」


 兄は絞り出すような声を漏らした。


「――辛いのだ。生きるのが」


 彼は確かに恵まれた人間であった。家族愛も、金銭も、知力も兵士としての素質も全てを持ち合わせていた。彼は全てを失っていた。いくら自分の人生を吐露しても一向に興味を示すことのない弟に対して次第に彼は、自分からまた一つ、何かが消えゆこうとするのを感じていた。また一つ、なんて言い方をするのは間違っているかもしれない。彼はもう、最後の一つが弟だと考えていた。これを失えば、彼にはもう生きる理由というか、死なない理由がなくなってしまうのだ。

 そして、兄自身も既に落ちぶれていた。彼は髪を掻きむしり、顔を再び歪める。忙しく貧乏揺すりをして、爪をガジガジと噛んだ。その、爪を噛むときに口内が見えたが、歯が殆ど欠けていた。彼はもう、我慢の限界だというように彼は衣嚢に入っていた注射器を取り出した。それを左腕に対して注射した。兄は大きな、安堵感の籠った息を吐く。ニタニタと、気色の悪い笑みを顔に張りつけながら、弟の方を見る。押し塞がれていた視界が広がったようだった。彼は今までずっと下を向いて話していた。弟の方を見て、彼が何やら日記らしきものに文字を書いているのに気が付いたのだ。


「ああ、お前、文章を書いているのか。文章は良いものだ。そうだな。余生を文筆家として過ごすという選択もある。お前の選択を出来るだけ支えたいと思う。どんなものを書いているんだ?聞かせてくれないか」


 兄の目は、何か必死にしがみつこうとするような、死にかけの兵士が宿っていた。どうか、弟がそうですね、こんな話なんですと言って、今までの沈黙を振り払うように笑って聞かせてくれますようにと微かな希望を抱きかかえようとしていたのだ。彼は、そんな希望を見つけるために見舞いへきていた。彼が唯一取りこぼしていないと思っていたのは、弟の絆だったのだ。

 男はそこで初めて自身の兄に顔を向けた。兄の顔が目に映る。彼はまるで、骸骨のようだった。息は荒く、頬は皺だらけの痩せこけたものになっており、目は落ち窪んでいる。筋骨隆々な兵士はそこにはなかった。ただの、肉体と言論の弱々しい廃人がぎこちない笑みを浮かべて、男を見つめていた。男がこちらに振り向いたことで、言葉が届いたと、喜んでいるのだ。兄はぼろぼろの左手を上げ、男に向けて伸ばそうとした。


「お帰り下さい」


 そのため、無感動を顔に湛えた男の口から、そんな慈悲のないことを言われようとは思ってもいなかった。彼の笑みは波が引くように消え失せ、ヒッという息を吸うような音が漏れる。伸ばそうとしていた左手は垂れ下がり、彼は立ち上がっているにもかかわらず、その左手は膝小僧の下でかたく握りしめられていた。兄は苦々しげに唇を噛みしめ、その場に蹲った。


「そうだろうな。お前にはお前の人生があるだろうし、療養しなければならない。私なんぞに構っている暇はないだろうな。これは失礼した」


 フラフラと弥次郎兵衛(やじろべえ)のように立ち上がった兄はぶつぶつと呟きながら、病室の入り口へと向かっていった。男は既に兄から目を離し、日記に向かっていた。鉛筆が紙の上を滑る音だけが病室には響いていた。

 兄はそんな弟の様子を見つめ、ただ一言いい残した。


「死なない事ではなく、生きることを考えてほしい。お幸せに」


 彼は病室から姿を消した。それから数分後、男は日記を書き上げた。彼は一枚ずつ丁寧に頁を捲り、最初の頁に戻った。


「読み直しますか」


 彼はゆっくりと推敲を始めた。自らの大切な人生を慈しむように、大切に、大切に、一文字たりとも逃すことはなくゆっくりと読み進めていった。

 その日の夕刊ではある華族がこの世を去ったことが報じられた。長男が母を絞殺し、その後に自らの心臓に庖丁を突き立てようとしたところを、妹に殴り飛ばされ、そのまま絞殺されたという。妹はその直後に破水し、妊娠していた胎児を出産した。死産であったらしい。そのまま母体である妹も衰弱死して、その華族は消滅した。その日丁度、最後の従者はその一家を見限り里帰りしており、家には誰もいない状態だった。近隣の住民が長男の悲鳴を聞いて警察に通報した。警察が駆けつけた時には妹は既に破水しており、狂乱状態だった妹が以上の内容を供述したと述べられている。

 残された次男は、精神病棟にて療養中だそうだ。

これにて二章『男と兄』は終わりです。続きを楽しみにしておいてくださると幸いです

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