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夢寐の独白  作者: H
終章
14/15

 気がつけばオレはあの夫婦の家にいた。まさか、全て夢だったのか。鶴子を襲ったことも、全て夢で、また戻ってこれたのか。そう期待したが、姿を見せたのはあの夫婦だった。オレは落胆と喜びが同時に襲ってきたのを感じた。もしや、この夫婦が死んだところからが妄想だった?そうだとしたら、次善ではあるけれど、良いのだが。オレはそう思いながら立ち上がる。


「お前さん、今日もこんな遅くから起きて、大学は大丈夫なのかい」


 久しぶりの親父さんの声になんだか胸が沁みるような感動を覚える。オレは親父さんの肩を組み、楽天的に返事をする。


「大丈夫ですよ、今日は講義も午後からですから」


 しかしオレはそう言い終わったところで、さっと肩を離してしまった。冷たい。人間とは思えないような、死体のような冷凍感。次の瞬間、夫婦は以前に見た死体の姿に成れ果てた。オレは思わず飛び跳ねて叫んでしまう。そうしたところで、縁側に跳び出て頭を打ってしまった。朦朧として景色が歪んでいく。そうしてまた意識が遠ざかっていく。まるで夢の世界のように。ああだがしかし、やはりあの夫婦は死ぬべき人間ではなかったと思う。

 その夫婦すらもオレの妄想の産物だとすれば、意味のない感傷になるが。そんなことを考えていると、再び視界が開けてくる。今度は何を見せられるのだ。それすらも、妄想ではないのか。そう考えると、思い出した。夫婦は確かに妄想であった。華族として威張っていた両親を見て、もっと人間社会に自然に存在している心優しい両親はいないものかと、そんな空想をしたのだったと思う。

 完全に視界が開けた。そこはオレの実家であった。オレは寝具の上で目を覚ました。欧米の王族や貴族の屋敷のように過度に輝いているわけではないが、逸品ばかりで揃えられた部屋に鼻を摘みたくなるような嫌悪を覚える。オレの服装も上等なもので、それが余計にオレを苛立たせた。そして部屋の扉には母親が立っていた。


「目を覚ましたのね、恥晒し。うちから精神病が出るなんて恥ずかしいわ」


 そうだった。オレが精神病患者だと判明した時、母親はこんな言葉を浴びせてきたような気がする。父親はどんなことを言っていただろうか。似たようなことを言っていたような気がした。かつてのオレはそれに反論できず、自らの妄想の世界に溺れていった。だけど今なら少しは反論できる気がした。


「すみませんね。兄のように優秀な頭の出来ではなかったもので」


 そんな皮肉を口にした。少しは効いただろうかと母親の顔を覗こうとするが、彼女の顔に現れていたのは驚愕ではなく困惑だった。それにオレ自身も困惑してしまう。彼女はそして告げた。


「お兄さんなんていないわよ、あなたに」


 世界がまた一変する。華族の屋敷にいたはずが平民以下の貧民のボロボロな家に景色が変わる。ああ、そうだ。華族だったことも、兄がいたことも妄想だ。いい暮らしをして優雅に生きる自分を空想した。戦争に出て活躍する栄光ある自分を空想した。こんな家の生まれでは大学など行けるはずもない。きっとあの街での出来事も全てが空想だったのだ。それならオレに残されているのは一体なんだろうか。こんな家では精神病院に入れることもできないだろう。オレは狂ったまま野垂れ死ぬのか。そんなのは、嫌だ。オレは母親に抱きついた。やはりあの夫婦のように冷たく、これが妄想であることを暗に告げていた。苦しい、自分が悍ましい。

 そう考えながら、空腹に耐えきれずオレは倒れ込む。そのまま視界は歪み、また虚ろになっていく。もしや、この貧困すらも妄想だというのか。そうだとすれば、オレの真実とは一体なんなんだ!

 こんなことなら、夢から醒めなければよかった。そう叫ぶと、オレはまたあの精神病棟の一室に戻っていた。オレは狂乱した。


「どうせこれも妄想だろう!ならばそれでいい!己がどうしようもない瘋癲であることは重々理解した!だからせめて、返してくれ!オレをあの心地よい世界に戻してくれ」


 オレはあの時確かに掴んだはずの愛を取り戻したかった。でもそれも妄想か。ああ、オレはなんで空虚な人間なのだろう。そうなるとどうでも良くなって、そのままベッドの上に倒れ込んでしまう。オレの頬を一筋の涙が伝うのを感じた。

 その涙を、誰かが撫でた。オレは、ふと顔を上げる。そこには鶴子がいた。しかし私には、すでに分かっていた。


「どうせ、君も妄想なんだろう。消えろ」


「妄想などではありませんよ。あなたを愛した鶴子です」


 オレは思わず、その心地よい逃避先に溺れてしまいたくなった。先ほどもそれを望んでいたはずだった。だが、いざそれが間近になるとそれが恐ろしくなってしまった。また、壊れてしまうのが恐ろしかった。


「そんな訳はない。それが事実だったとして、お前は私を許しはしないだろう」


「それなら、私に触れなさい」


 鶴子は毅然とした口調でそう言った。その言葉の意味は分からなかった。しかし、オレは言われるがまま、恐る恐る彼女に触れる。彼女の、初雪のような掌に。そしてそれは、柔らかく、暖かかった。今までの妄想の世界には存在していなかった暖かさが鶴子の掌にはあった。オレは、いや私はそれに驚愕する。有り得ない。だが、しかし、本当に?疑念や疑問が胸に渦巻くが、その生命の鼓動は確かにそこにあった。私は涙を零して、鶴子に抱き着く。


「鶴子!」


 本物だった。私の空想ではなかったのだ!私はずっと鶴子に伝えたかったことを伝える。


「本当に済まなかった。あの夜は、酒と薬で、頭がおかしくなっていたのだ。君を傷つけてしまって、申し訳ない!」


「もう、いいのですよ。そんなことは。既に許しました。またやり直しましょう。互いを尊重し合えば、きっと大丈夫です。私達は愛し合っているのですから」


「ああ、ああ。その通りだ」


 暖かい。心臓の鼓動を感じる。鶴子と過ごしたたくさんの思い出が蘇ってきた。身体の奥の方からじんと快適な気持ちが全体に広がっていくのを感じる。これが、愛だ。ずっと触れていたい。ずっと一緒に暮らしたい。そうだ、この純粋なる、汚濁の一切ない、他の関与する余地のない莫大な感情こそが愛なのだ。他に邪魔することなどできない、妄想で騙ることなどできない、実際に体験することによってのみ生まれる尊い感情。これこそが、愛だったのだ。

 私はこの、唯一残された真実を胸に、生きていこうと思った。私には何もない。家族も、友人も、名誉もなかったのかもしれない。だが鶴子がいる。愛し合う女性がいる。彼女が支えてくれるならば、この味方のいない、孤独な世界を藻掻く病とも、闘っていけるやもしれぬ。私はそれがなんとも、嬉しかった。そうなると、今までの私の、夢寐での独白も、無駄ではなかったのかもしれない。鶴子を忘れず、今もまだ、大切に想い続けることができているのだから。

 私は、彼女の慈愛溢れる胸に、頬ずりをした。鶴子が優しく私の髪を撫でてくれた。私は、満たされていた。

最終話は明日投稿します

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