聖水
最近伊豆弓彦は機嫌がいい。今日も出勤前に愛犬レッシーの散歩に出かけてきた。ちなみに夜勤前にも散歩に出かけるので日中2回も散歩することになる。
コンビニの店長職を担う弓彦にとって基本的な勤務は夜勤である。夜勤午後5時からはじまり早朝午前8時に終了する。帰宅してレッシーの散歩をし、午後4時ごろに起床して愛犬の散歩をして勤務をする。つまりその前後にレッシーは30分の散歩という苦行を行うのだが、時間にして午前9時と午後4時。老犬にとってはかなりタイトなスケジュールである。
しかも季節は夏。汗ばむ陽気である。レッシーは15歳。人間でいえば76歳である。76歳の年寄りが炎天下の中散歩しているようなものである。そのうちレッシーは死んでしまうかもしれない。そんなスケジュールを毎日続けている。タフである。人間も犬も。
弓彦は今日も午後4時すぎに出勤した。
「おいって、おはようございますってもんよ」
弓彦は意気揚々と出勤した。店には客はいない。中国人留学生バイトの史銘陽がぼんやりと立っているだけだ。
「店長、もう夕方ですよ。ご了承ください」
史銘陽はレジを閉めしながら小声でつぶやいた。一転、弓彦のテンションは高い。
「おいって、仕事の始まりは『おはようございます』ってもんよ」
「そうですが、もう日本語的におかしい気がしませんか?ご了承ください」
「そんなことはないってもんよ。仕事の始まりは『おはようございます』ってもんよ」
「私にはわかりません。ご了承ください」
「朝は一日の始まりだから、仕事の始まりも朝みたいなもんだからおはようございますってもいんよ」
弓彦は嬉しそうに肩を揺らしながら店の事務所に入ると、店の売上を統括するパソコンを眺めた。大手のコンビニやスーパーなどの小売店舗では、その日の数分単位でどの品目が売れたか一目でわかるシステムがある。
朝には総菜のおにぎりと飲み物が売れ、お昼にはお弁当、夕方からは酒とスナック菓子などの品目が売れるのが一般的である。
ところが、弓彦の店では最近日中に飲料が飛ぶように売れているのだ。レッシーとの散歩と睡眠をしている時間帯に20万円を売り上げている。
「店長、今日もいっぱい来ましたよ。ご了承ください」
史銘陽が事務所にいる弓彦の横に立っている。レジはよいのかと思うが、客が来ないからよいのだろう。史銘陽はなぜか『祭』と書いてある法被を着ていた。これから盆踊りに出かける青年である。どう見てもコンビニのバイトには見えない。
「ペットボトルを1000個発注しておきました。お母さんの写真も。ご了承ください」
「分かったってもんよ。でも1000個は多いってもんよ」
弓彦は事務所を見渡した。狭い室内に所狭しと2リットルの水が入ったペットボトルが転がっている。外にも大量のペットボトルがあるという。
なぜこんなことになったのか。
話はさかのぼる。
2週間前、店の売り上げが不調であるとバイトの史銘陽に相談した。すると、「お母さんに相談してきます。ご了承ください」と史銘陽は返事をした。
その次の日、史銘陽は2リットルの空のペットボトルと何かのシールを持ってきた。「このシールをペットボトルに貼って水を入れて売ってください。水はなんでもいいです。ご了承ください」という。
シールには史銘陽の母・千手観音美子が満面の笑みを浮かべてペットボトルを持つ写真が印刷されていた。彼女は某宗教団体の教祖であり、50歳をとうに過ぎているにもかかわらず、20代にしか見えないという、たぐいまれなる美貌を持つ魔性の女である。
弓彦は半信半疑で2リットルのペットボトルに水道水を入れ、『千手観音美子の聖水』と書かれた写真を貼って10本ほど販売した。1本500円。かなりの高額であるが中身はただの水道水である。
初日は1本も売れなかった。
2日目も1本も売れなかった。
4日目、5日目も売れなかった。
ところが1週間後、店内に置いていた10本の『千眼美子の聖水』が突然売れ出した。昼前には完売。さらに20本を追加して販売したがこれもすぐに売り切れた。
どういうことだ?
弓彦はそのあと50本ほど販売したが、それも2時間ほどで完売し、結局空のペットボトルがなくなったため生産を終了した。合わせて80本。わずか1日で4万円の売り上げである。しかもペットボトルと水道代、写真代を合わせても1本あたり20円程度の原価しかかかっていない。
100円のおにぎりを販売してもそのうち7割が原材料、1割が本部に吸い取られ利益が2割、つまり100円の商品を売っても20円しか儲けのないコンビニチェーン店にとって、この商品は利益の塊である。このお金を持って小倉の繁華街駅へ飛び出したいくらいである。
次の日は200本を製造し、販売したが1日のうちに売り切れた。その次の日は300本を製造したが、やはり1日で売り切れた。客の来ない夜勤時間帯にひたすら弓彦が水を作り、日中に史銘陽が法被を着て販売するローテーションである。弓彦としては商機である。コンビニ1店舗の一部門としてはかなり大きい10万円を毎日利益として計上するようになったのだから。弓彦の笑いが止まらないのはこの理由のためである。
ただ、本部からの商品の供給量は同じである。つまり、仕入れは通常なのに売上が増えている。毎日10万円分の商品を仕入れているとする。その商品がみんな売れたとすれば20万円、多くても30万円の利益が相場である。ところが、それ以上の収益となると、何を売ったのかと本部が怪しまれる。本部の商品以外を販売したとなるとフランチャイズの契約を破ったと思われるのだ。この辺りはコンビニ経験の長い弓彦にとって本能的に分かるものだった。
そのため、駐車場で『祭』と書いてある法被を着た史銘陽が『千手観音美子の聖水』を販売し、そのほかのバイトがコンビニ業務に取り組むようにしたのだった。いうなれば副業である。
弓彦のコンビニ付近には胡散臭い水を買いに胡散臭い宗教の信者がたまり始めていた。一般人もいるのだが、いかにも怪しい白い服を着た集団が数多く目撃されるようになったのである。
数日が経ち、水の売上は絶好調なのだがコンビニ自体の売上は低迷し始めていた。レジ周りに『千手観音美子の聖水』を並んでいる。相変わらず売れるのは水だけである。
ほかの品物も売れるのを期待したのだが信者は水しか購入しない。信者はほかの商品に興味を持たないのだ。この辺りは誤算だった。『聖水』を買うのは宗教関係者である。あのコンビニには胡散臭い人間がたむろっていると噂が近所で広まったのだ。
弓彦は売上減の穴埋めに、水の売上を回すことにした。こうなると本部からの供給がないにも関わらず売上が増えてしまう。整合性がつかない。弓彦は頭を抱えた。
そんなある日、弓彦が帰宅しようとした午前9時ごろのことである。私服に着替えていた泰彦に、史銘陽がやってきた。
「店長、変な人から電話です。ご了承ください」
「電話です、だけでいいってもんよ」
「デリバリーするのか、って言ってます。ご了承ください」
「何のデリバリーってもんよ?」
「よくわかりません。ご了承ください」
「だからご了承ください、は、いらないってもんよ」
泰彦は店の電話を取った。
『おい、いつものデリバリー頼む』
「デリバリーって何だってもんよ。うちの店はそんなことやって…」
『だからデリバリー言っとるやろうが!わからんのか!高塔山学園のいつもの場所にもってこい!』
「え?いつもの場所って…」
『いつも、って、体育館の裏だろうが!わからんのか!』
一方的に電話の主に切られた。よくわからないが高塔山学園へ弁当を持っていけばよいのだろう。高塔山学園といえば市内では有名な高校である。偏差値はそれほど高くない。ついでに500円の水も持って行ってやってぼったくってやろう。学生相手に悪辣である。
後ろで弓彦の様子をみていた史銘陽が話しかけた。
「何の電話だったんですか?ご了承ください」
「だから『ご了承ください』はいらないってもんよ。これから高塔山学園へ行くってもんよ」
「それは学校ですか?ご了承ください」
「お弁当頼まれたってもんよ。弁当おいてそのまま上がるってもんよ」
弓彦はさっそく高塔山学園へと向かった。




