危機
四人が校門に向かっているとき、全校放送が鳴った。
『校内で爆弾が発見されたべ。今すぐ外に出るだ。みっだぐないことするな!ちょぞすのはてぇげえにせろ!』
明らかに放送部の生徒ではない永島先生が叫んでいる。緊急事態なのか。たまたま永島先生が放送したので方言が理解できない生徒も多く、とにかく外に出ろという指示だけが分かったようだった。
弓彦たちも校門に走った。生徒が運動場へ避難している最中に、機動隊と県警の爆弾処理班たちがサイレンを鳴らしながらやってくる。
校門には、疑惑の女子高生・鼓さんが顔面蒼白で立っていた。
「おいって、鼓さんって!」
弓彦が校門で鼓さんを目撃した。鼓さんは鉄人28号に出てくる少年が持っているような巨大なリモコンを持っていた。今村が叫ぶ。
「ともかく走ってください!ほら、機動隊が運動場にテントを張っているでしょう。あそこが避難所です」
避難所に向かうと、機動隊の隊長とどこかで見たことのあるアフロ姿の刑事が突っ立っていた。
「最近この地域でこんな事件多いですな」
「爆発する、爆発するって脅迫してそんな機動隊は暇じゃないんですよ」
「いや、現にもう2回もコンビニ吹っ飛んでますし」
「ああ、そういえば過去2回は脅迫事件かと思って半分ただの嘘やろと冗談交じりに現場に着いたら早速吹っ飛んだんでしたっけ」
「今回も事件があれば3度目の正直ですよ」
「いや、2度あることは3度ある、ですよ。使い方間違ってますよ」
機動隊の隊長が笑った。慣れてしまえばテロリストの決死の活動も軽くあしらわれてしまう。呑気なものである。
弓彦と今村が校長とキャサリンと共にテントに入った。校長に気づいたアフロ頭の刑事が近寄って名刺を渡した。
「校長先生ですか?私はこういう者です」
「ほな、若いのになかなか礼儀正しい人ですな。わてはここの校長でカゴイケと申します。山田はんというんやな」
爆弾魔が校門を占拠している危険な状況でも貫禄がある。隣にキャサリンが胸を強調して立っている。機動隊の隊長とアフロ頭の刑事が目のやり場に困っている。その隣には佐村河内先生と湯川先生が顔面蒼白で立っている。
「お久しぶりです今村さん」
「…この前会ったじゃないですか」
「はは。そうですか」
山田刑事は頭を揺らして笑った。
「そういえば例の銃砲店の店長、たしか…」
「ブロンソンでしょう?ちょび髭の」
「ブロンソン?ああ、田宮さんの芸名ですね。本名は田宮三郎、銃刀法違反で先日逮捕されましたよ」
「やっぱりですか」
今村はそんなことだろうという顔をした。山田刑事が説明する。
「ブロンソン次郎は銃だけじゃなく火薬も売ってたらしいんですよ。ちょっと派手な爆発をするような。それを買ってたのが彼女です」
山田刑事は鼓さんを指差した。鼓さんは校門で仁王立ちになり、相変わらず顔面蒼白でぶつぶつ何かを呟いていた。
「ところで校長先生、というか理事長と呼んだほうがよろしいんでしょうか?」
「校長や。校長で頼んます」
「理事長、いや、校長先生。現状はどうなっているんですか?」
山田刑事は校長に話を聞いているようだが、目はキャサリンの方向にある。しかもキャサリンは山田刑事にぐっと胸を寄せている。明らかに狙っている。
「わても今来たばかりでよくわからんのですわ。いったい誰が通報をしたんや?」
「私です」
キャサリンの後ろから内藤先生が現れた。佐村河内先生と湯川先生の中から出てくるとやっと一般人が現れたのかとほっとする。
「これは内藤先生」
「この方ですか、通報されたのは」
山田刑事は名刺を差し出した。
「すみません、私非常勤講師でいつも学校にはいないものですから。たまたま出勤した時に鼓さんが何かを持って立っているのを目撃したものですから」
「非常勤というのは常勤ではないんですね」
「アルバイトのようなものです」
そう内藤先生が言うと校長は不審な顔をした。山田刑事はメモ用紙をポケットから取り出した。
「今のあの子について詳しく教えていただけますか」
「はい…」
内藤先生は少しためらった。
ふと鼓さんをみると半分放心して顔面蒼白である。危険な状況である。内藤先生は続ける。
「ナマコの話ではないのであまり詳しくないのですが…、私が授業をしに学校へ向かうと校門で鼓さんが真っ青な顔をしてあの大きな箱を持っているんです。非常勤なので朝には出勤しないものですから。2時間目が始まる少し前の9時半ごろに向かいました。そしたらあの子がいて…、私がこれは何かと聞くと『このボタンですべてを破壊します』って言い始めて『このボタンを押せばこの学校が崩壊します』と真面目な顔で言うものですから、もう何が何だかわからなくて、警察に通報して、たまたま会った永島先生に話をしたらそのまま放送室に駆け込んで…」
「上の方、ここでは校長先生や教頭先生には報告されなかったんですか?」
「だって松井教頭は…」
「その話はせんでええ」
校長が言った。
「松井教頭…ですか」
「行方不明になっとるんですわ。無断で学校にも来んで」
「確か…」
山田刑事はアフロ頭をぽりぽりとかきながらメモを取り出した。
「カゴイケ理事長さん、いや失礼、校長先生が先ほど内藤先生が言われた松井教頭についても調べが付いてましてね。突然いなくなってSNSにあらぬことを投稿し続けるという話で、警察もちょっと様子を見ていましてね」
「そうなんでっか。わてにはよく分からんことですわ」
校長は遠くの空を眺めている。山田刑事は続ける。
「どうも調子が悪かったらしいんですわ」
「調子?」
「ええ。なんか学校教員のいろんなことや噂の学校の不思議話を疑い始めて疑心暗鬼になってたようでして。綺麗好き、掃除好きっていう几帳面な性格が裏目に出たんではないかと。しばらく精神科に入ってまして。でも教頭という職から学校は気になる。だから勝手に出入りしていたらしいんですよ」
山田はさらに続ける。
「そして、教頭がいなくなってからSNSで学校七不思議の話題が増えている。これはおかしな話じゃありませんか?」
そういって山田刑事は持っていた鞄からビニール袋に入ったガラクタを出してきた。校長の銅像のひげや人体標本の肝臓の部分、標本のピアノの鍵盤が転がっている。
「これは実は松井教頭が解体した爆薬です」
「え?」
一同が驚いた。
と、そこに車いすに乗った松井教頭が現れた。ほこりっぽい運動場は潔癖症と噂される彼女にとって苦痛だと思うのだが。
「ごめんなさい…」
「教頭、まだ調子が悪いというのに…」
山田刑事が言った。
「いいんですよ。私が気になって勝手に学校に入ってきたから話がややこしくなったのですから…」
「そう。松井教頭は気になって昼夜問わず学校内をうろうろしていたそうなんですよ。車いすでは階段を上がれないから両手を使って無理やり上がっていたそうなんです」
よくみると松井先生の腕はパンパンである。還暦近い女性なのにウェイトリフティングの選手並みである。弓彦は満面の笑みを浮かべた。
「おいって、俺っちとウデズモウを…」
「伊豆さん、彼女と対戦したらたぶん折られますよ」
「あれ、いいのよ。私は男の人との対戦好きですから」
今村が泰彦に忠告すると松井教頭は笑顔で答えた。
「松井教頭は気づいておられたんですか?この学校に仕掛けられた爆弾を」
「爆弾ってなんや!」
今村が尋ねるとカゴイケ理事長校長が絶叫した。ついに核心にたどり着いたのか。松井教頭が口を開いた。
「校長先生。申し訳ありません。私、倶楽部ダイナマイトの部活動に気づいてしまいましたの。それで学校中の起爆装置を一つ一つ外していったのです」
「な、なんやて?」
校長は汗を拭いた。全く意味が分からない。今村が説明する。
「皆さん落ち着いて。ここで事件を整理しましょう」
そういうと一同は静かになった。鼓さんは爆弾のスイッチを持ったまま放心している。運動場に集められた高校生たちはほとんどが勝手に帰っていた。
「私と伊豆さんが用務員というのは仮の姿。実際はただの結婚相談所の所長とコンビニの店長です」
「ええっ?!!」
と内藤先生が叫んだ。びっくりしたのは彼女だけだった。他の教員はみんな気づいていたようだった。
「そういうことだったんですね」
佐村河内先生はニヤリと笑った。今村が続けた。
「実はこの学校にまつわる『学校七不思議』の謎を解き明かしてほしいという依頼でこの学校に半分寝泊まりしていたのです。それはともかくとして、この七不思議はおさらいすると
①校長室の髭の伸びる肖像画の謎
②疾走する人体標本の謎
③奏者がいないのに流れる音楽室のピアノの謎
④午前4時44分に触ると異世界に連れていかれる鏡の謎
⑤体育館で首のない男子生徒がバスケットボールをしている謎
⑥てけてけの謎
⑦動く初代校長の像の謎
です。これらの不思議は日本全国の学校にあるもので、てけてけ以外は学校内の事象です。これらの謎は、倶楽部ダイナマイト、つまり、今そこの校門で放心している彼女が設置した爆弾の場所と一致します。そして、爆弾の設置場所と全国の学校七不思議と合わせて噂として拡散する。方法なんてSNSを使えば楽勝です」
「ああ、そういうことなんですね。爆弾を設置するけど何の反応もないのは面白くないのはつまんないから、犯人自ら拡散するっていうやり方ですね」
佐村河内先生が答えた。他はぽかんとしている。
「この学校は巨大なL字になっていますから北端とLの角と西端を破壊すれば要衝が壊れますので崩壊します。その場所に集中的に爆弾を設置したのです。①の校長室の肖像画や、③のピアノの鍵、④の鏡、⑤の体育館の用務室、⑦の校長の銅像のひげ これらは爆弾の設置された場所だったのです」
今村は一息ついた。
「残りは②の人体標本と⑥のてけてけですが、人体標本は古くなったため、私と飲塚さんで体育館の裏の倉庫に処分しに行きました。そうですよね。湯川先生」
「何がじゃ?」
急に話しかけられたので湯川先生はいじっていたスマートフォンを落としそうになった。
「な、そうがじゃ。ほなこって。この二人に捨てに行ってもらったき」
「そういうことです。人体標本にも起爆装置が取り付けられていたのですが、外された状態で処分されたのです」
「そうなると残りはてけてけ、ですな」
山田刑事がニヤニヤしている。鼓さんはずっと立っているので事態は動きそうにない。他の教員たちはスマートフォンをいじっている。
「てけてけの犯人は松井教頭です」
「え?」
ほかの教員たちが驚いた。松井教頭は笑った。今村が続ける。
「下半身不随ですが、腕はしっかりしているので階段ぐらい上がれるでしょう?」
「松井教頭?わざわざあんたのためにエレベーターをつけたんですが」
カゴイケ理事長校長が言った。松井教頭が答える。
「今後の学校運営上、バリアフリーは必須といって教育委員会からいっぱいお金を仕入れてきたんでしょう?私のことも出して」
「そうなんやが…」
「余剰金はどうされたんですか?」
「は?そんなものもあったかいな」
カゴイケ校長はとぼけた。
「ですからバリアフリーで1億円かかるって教育委員会から予算を請求したでしょう?たしかあれは5000万円で出来ましたよね。残りのお金はどうされたんですか?」
「そんなこと知らへん!」
松井教頭が聞くと、校長はむきになって叫んだ。周りの教員が校長をにらみつけていた。
「そんなことより非常勤の給料を上げてください」
「新しい人体標本はどうなったじゃき」
「ピアノを買ってセッションしたいのですが」
「耕うん機買いたいべ」
口々に不満を漏らす教員たち。それを聞いていた山田刑事が口を開いた。
「わかりました。詳しくは署でお聞きしましょう。この爆破事件とは関係がないかもしれませんが、これはこれで事件ですので」
山田刑事が立つと校長が「これは刑事訴追の可能性がありますので」とよくわからないことを呟きながら連れられて行った。
「残りは私が詳しく聞きましょう。私も昔は刑事でしたから」
終始無言で今村の話を聞いていた短髪の機動隊の隊長が今村の前に座った。アフロ頭と違って、目力があり、迫力のある顔立ちだ。隊長はおもむろに鞄の中から2リットルのペットボトル容器を取り出すと、一口飲んだ。ペットボトルには千眼美子が満面の笑みで笑っている。
「『てけてけ』を伊豆さんは目撃したのですね」
「そ、そうだって」
強面の隊長から急に話を振られて弓彦はちょっと慌てた。今村が答えた。
「目撃したのは私が2階にある消火器に起爆装置がつけられたと思っていじっているときでした。伊豆さんが『てけてけ』を見たのは」
「すみません。それ私です」
松井教頭が手を挙げた。
「たまたま2階に上がって今村さんが確認されたという消火器を見に行くときに、変な人影を見たものですから、とっさに両手で走ってしまいました」
「両手で、ですか」
機動隊の隊長が聞く。松井教頭はにこやかに答えた。
「はい。両手で走るとそこそこ早いはずです」
松井教頭は握りこぶしを作った。それを見て今村が答えた。
「7不思議の話を聞いた後で、両手で走っている人を見ると『てけてけ』と思ってしまう。伊豆さんの勘違い、これが『てけてけ』の正体です。この勘違いを利用して『てけてけ』だけを勝手に作ったのです。七不思議に付随する謎のてけてけ、これだけが犯人の思惑とは違う方向に一人歩きしてしまったのです」
「そうですか。そうなると起爆装置はどうなりますか」
隊長が聞いた。今村は説明し始めた。
「話を整理しましょう。この学校の二代目校長が設立した倶楽部ダイナマイトの部員である鼓さんは、学校を効率よく破壊できる場所に爆弾を設置していきました。それに合わせて学校七不思議の謎をSNSで拡散する。松井教頭もここ数日はずっとSNSで煽情的な内容を報告している。松井教頭は自分をおかしい人間として演じ、行方不明になることで姿をくらまして鼓さんが設置した起爆装置を一つ一つ解除していった。私は理科室近くにある消火器や体育館にある起爆装置を伊豆さんにばれないように解除したのですが、素人のやることですから本当に解除できたのか不安でした。でも、結果的に松井教頭が起爆装置を解除していますから、彼女・鼓さんがあのボタンを押しても起動しないことになりますね」
「そういうことになりますね」
松井教頭は笑顔で今村を見た。
隊長が拡声器で声を張り上げた。
「おかあさんも心配しているぞ!そろそろ出てきなさい!」
「お母さんは離婚したの!うちには父さんだけ!何言ってるの!」
「――おお、そうだった。うちは離婚しているんだ」
「この爆弾はもう爆破寸前だ。今すぐにでもこの町を火の海に変えるだろう」
「――これですべての計画が終了する」
「おいって、一人でしゃべってるってもんよ」
弓彦は笑った。
「笑ったな!」
鼓さんは弓彦を見て怒った。
「――笑いましたね。あははっ」
「ああ。笑ったさ。あははっ、これは夢の話なんだ!崇高なる目的なんて果たせなかったんだ。そんな夢の話なんだ!!あははっ!!」
鼓さんは一人で話し終わると、ボタンを押した。
「あ~~~っ!」
今村と機動隊の隊長が叫んだ。
校庭が静かになった。
運動場にいる全員が耳をふさいでしゃがんだが、学校は崩壊しなかった。
「えっ」
そんな声が聞こえた。鼓さんは放心している。こんなはずじゃなかったのだろう。
ところが、遠くで煙が上がった。隊長が双眼鏡で確認する。
「あれは……。最近いろいろ出店が出てるバッティングセンターの隣…」
隊長がつぶやいた。弓彦はすこぶる嫌な予感がした。
「お、おいって!」
「どうしました?」
弓彦が狼狽する。今村が尋ねた。
「あのあたり、俺っちのコンビニがあるって」
弓彦が答えると急に機動隊が動き始めた。通報があったのか。
スマートフォンが鳴った。史銘陽の着信だ。
『店長ですか?ご了承ください』
「どうしたって?」
『突然爆発音が鳴ったと思ったら、店が崩壊したんですよ。木っ端みじんです。ご了承ください』
「おいっって!みんな無事かって!」
『私たちは無事です。幸い、店内には誰もいませんでした。…みんな外で焼き鳥や水を売ってましたから。ご了承ください』
「おいって、店は…」
『すみません。跡形もありません。ご了承ください。副店長も即座に逃げ出しました。店はトイレ付近から爆発して今は何もありませんが。ご了承ください』
史銘陽は意外に冷静だった。店内に従業員すらいなかったというのは問題だが、人命第一だ。店は崩壊したが人員に問題なければなんとかなるだろう。ちょっと楽観的になった。ことあるたびに店が崩壊しているのに慣れ始めたのだろうか。
「おいって」
『ご了承ください』
「よかったってもんよ」
『どうしましたか。ご了承ください』
「おいって。ご了承くださいは復活したってもんよ?」
『どうかしましたか?ご了承ください』
「…今日はゆっくり休むってもんよ」
弓彦はスマートフォンを切った。また店が崩壊してしまった。本部への面倒くさい報告が待っている。何度目になるのだろうか。本部は納得してくれるのだろうか。
テントには教員が残されていた。生徒たちはみんな帰ってしまったらしい。運動場は閑散としている。校門では放心状態の鼓さんが、ぶつぶつと何かを呟きながら、数人の刑事に取り押さえられながら出て行った。
校長が連れていかれ、主犯格の生徒も連れていかれ、運動場に避難した生徒も勝手に帰宅すると残りは教員だけになった。湯川先生や佐村河内先生、内藤先生やキャサリンもみんなスマートフォンをいじっている。
そこへ、何者かがやってきた。
「人間行きつくところはそんなもんなんですかねぇ」
佐村河内先生が笑うと派手なティーシャツを着た男がふらりとやってきた。
「フーテンの渥美さん?」
「おおう」
男はTシャツの上に茶色っぽい細い格子の模様の付いた軽い上着とズボン、雪駄とパナマ帽、腹巻をつけている。どうみても生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天の産湯を浸かって生まれた男である。きっと毎度毎度女性に振られているのだろう。
「おいって、誰ってもんよ?」
弓彦が聞くと今村が答えた。
「私の前任の渥美さんです。いや、正規の用務員といった方が正しいですな」
「お、おいって!この人、俺っち消火器の前で見たって!この人!」
「え?」
今村が驚いた。弓彦は以前消火器で爆弾の処理をしている今村の後ろでこの人物を見たことがあった。そうか。疾走する人体標本は派手なシャツを着た渥美さんだったのか。暗いとはっきりわからなかったが。泰彦は何となく納得した。
「渥美さん、なぜここに?まだ体調不良とお聞きしましたが…」
「おうよ。そろそろ払ってもらおうかと思ってな」
渥美さんは持っていた黄土色の四角い鞄を開けると、楽譜を取り出した。たしかこの鞄は音楽室で佐村河内が持っていたものだ。
「これは楽譜?」
「あのとき走ってたのはこの楽譜を持ってあの先生に見せるためだ。散々ゴーストライターさせやがって」
渥美さんは用務員なのに作曲ができたというのか。そういえばギターが趣味だと今村が言っていたが。渥美さんはたまたまテントの中でスマートフォンをいじっていた佐村河内先生をにらみつけた。ここまで来ては逃げられないだろう。
「はい?」
「それをいっちゃあ、おしめえよ。とぼけんじゃないよ。結構毛だらけ猫灰だらけ。あそこの周りは糞だらけってもんだ」
「これは私の楽譜ですよ。何を言っているんですか」
「相変わらず馬鹿か。このかばんは俺のだよ。四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立ち小便」
意味が分からないが、ともかく不満を持っているようだ。佐村河内先生が作曲と称して職員会議を抜け出していたのは実は嘘だった。楽譜は全部渥美さんが作っていたとなれば佐村河内先生はヒンシュクものである。
「詳しくお話をお聞きしましょうか。先生はよく『モーツアルトが降りてきた』とか言ってきて職員会議を抜け出していましたが、これが事実だとちょっと職員の風紀に差しさわりがありますね」
車いすに乗った松井教頭が言った。校長が警察に連れていかれた今、学校の責任者は彼女しかいない。
松井教頭と渥美さん、佐村河内先生は校舎に戻っていった。
残された教員たちは「やっぱりな」とうなずきあうとそのまま去っていった。
運動場のテントには、弓彦と今村が残された。
「私たちの仕事はこれで終わりですね。明日からコンビニに戻ってよいですよ。これまでの給料分は振り込んでおきますから」
「おいって」
今村がそう言った。だが、副店長が駐車場をびっくり市みたいにしている店に帰ったところで弓彦の居場所はどこにあるというのだ。だからといってもう用務員の仕事はない。しかたない。帰るか。