学校七不思議その④ 午前4時44分に触ると異世界に連れていかれる鏡の謎
女子高生の叫び声が聞こえたのは2階だった。この高校は巨大なL字型をしており、Lの角が事件の発生地点である。つまり校長室の近くなのだが、弓彦が亡霊を目撃した消火栓もある。この場所は何かと事件が起きている。ちなみにこの1階が生徒玄関にあたる。
近くには理科室があり、その前を通るとイケメンの湯川先生がギターを弾いていた。賢いうえににギターとなるとモテる男の要素をすべて兼ね備えている。このまま横浜アリーナで歌ってしまいそうな勢いである。
そこには学校の怪談にありがちな姿見の鏡がある。生徒の全身を映し、自分の姿の投身を見ることで自らの怠惰さを感じ、戒めるという趣旨で作られたそうなのだが、今や女子高生のファッションの確認程度でしか使われていない。
「鏡が、急に割れたの!」
と叫ぶ女の子はどこかで見たことがあった。
「おいって、鼓さんって」
おなかのふっくらとしたぽっちゃりとした女の子と数人の男女が倒れこんでいる。弓彦がふらふら歩いていた学生へ叫んだ。
「おいって、大丈夫かって!おいって、そこの野郎ども!か弱い女の子を助けるって!」
「は!はい!」
権力がなくとも迫力があれば人間誰にでも無理が通じるというのは世界共通の掟である。鼓さんは屈強な男子高校生に連れられて保健室に連れられて行った。
「なかなかやりますね。流石コンビニの店長さんだ」
今村が冷やかしたが弓彦は無言だった。そこへパタパタと気持ち悪い音がする。全身整形養護教諭・キャサリンが胸を振り回しながらやってきた。
「どうしたの~?ユミヒコく~ん」
あの変な声は養護教諭の声だ。今村がどこか遠くを眺めた。どうもこの養護教諭は今村の趣味には合わないらしい。キャサリンは弓彦を見ると胸を強調させた。
「おいって、倒れてる女の子がいたから保健室に連れて行かせたって」
「あら、男気あるのね」
そう笑ってキャサリンは胸を強調させた。いちいちリアクションしなければならないので疲れる。今村を見ると相変わらずスマートフォンをいじっている。
弓彦は思う。
胸の大きい女は世界人類、バカな男の憧れの一つであるが、こうもたびたび出てくると飽きるものだと。きっと今村もその境地に達成したのかもしれない。キャサリンがいちいち胸を強調させながら言う。
「あそこに先生も倒れてるわよ」
よく見るとひょろりとしたリクルートスーツの女が倒れている。生徒はみんな保健室送りにしたので残っているのはこの女だけである。
「この人は大丈夫でしょう。後はよろしくね。やっぱり高校生最高だわ!」
キャサリンは謎の言葉を残して保健室に去っていく。残りは泰彦と今村、リクルートスーツの先生が残された。
リクルートスーツの女教師は起き上がって頭を抑えた。
「ああ」
「先生は何を見たんですか?」
「ええと、たまたまこの鏡の前だったんです。生徒の質問を受けていたのが。そしたら鏡が急に割れて、中から煙が…」
「煙ですか?何かあったのかな?」
今村は鏡の割れた付近をまじまじと眺めている。
「おいって、あんた誰って」
弓彦が尋ねた。
「はじめまして。私の名前は内藤千鶴と言います。非常勤講師です」
「おいって、非常勤ってよくわかんないってもんよ」
「簡単に言えばアルバイトの先生ですよ。先生が足りないので手伝ってもらっているんです。副業でやってもらっているんで学校としては人件費が安く上がって助かるんですよ」
今村が壊れた鏡の中をまじまじと眺めながら解説した。アルバイト店員みたいなものか。内藤先生は恥ずかしそうな顔をした。
「若松にある某大学でナマコの研究をしています。でも教授や助教のような大学に雇われている身ではないので論文を書いてもそれほどお金をもらえません。さすがにナマコだけでは食べていけないので、ここの高校の非常勤講師で国語を教えているんです」
「でもナマコと国語は関係ないってもんよ」
「もともとは某国立大学で国文学を学び、そのついでに教員免許を取ったのですが、学生アルバイト中に登原の鮮魚市場でナマコの買い付けをやったんですが、それからナマコにのめりこみました」
弓彦は驚いた。
「おいって、あそこは怖い人が多くて、死んだ爺ちゃんは漁港の人と揉めて血だらけになって帰ってきてたってもんよ」
「女の子にはみんなやさしかったですよ」
内藤先生は笑った。漁師と一緒にはり合うなどかなり度胸の据わった大学の研究員である。危険な場所でも自ら入って調査する。現場の声を聴かないとフィールドワークはできない。インディジョーンズしかり、学者とは多くがハングリー精神の塊である。
「ナマコは国文学にも出てきますよ。古事記では『海鼠≪ナマコ≫の口を拆≪サ≫く』とあります。これは、紐小刀でナマコの口を拆き、アワビなどの魚介と合わせて宮廷に献上する際の文章と思われます。応仁天皇の御降誕に因む『三元祭』に際して『元旦には鏡餅に代えてナマコを香椎の行宮に供御した』ともありますし。松尾芭蕉も『いきながら 一つに冰る 海鼠哉』と詠んでいますよ」
香椎宮にはナマコが添えられていたのか。昔、香椎宮で挙式した友人に教えるネタができたな。と弓彦はニヤニヤした。内藤先生は続ける。
「明治の俳人・正岡子規もナマコの句を残していますよ。
世の中をかしこくくらす海鼠哉
風もなし海鼠日和の薄曇り
引汐に引き残されし海鼠哉
海鼠喰ひ海鼠のやうな人ならし
これをみると子規はナマコに愛着があったのかもしれませんね」
内藤先生は一息ついた。
「また、子規の死後、文豪・夏目漱石は『吾輩は猫である』で、『此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の様な文章であるから、たとい此一巻で消えてなくなった所で一向差さし支つかえはない。又実際消えてなくなるかも知れん。』と語っていますし、小説の中では『始めて海鼠を食ひ出せる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢≪おとこ≫は其勇気に於いて重んずべし。海鼠を食へるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。』とあります。これは初めてナマコを食べた人がすごい、というよりもナマコを食べる『勇気』というかその挑戦力、そんな日本語があるのかどうかわかりませんけど、その勇気こそがまさに男ならぬ『漢』ということになるのではないでしょうか」
内藤先生は続ける。
「飲み屋で珍しい食べ物の話題になると、決まって『ナマコを初めて食べた人は偉い』と言うオヤジが1人は出てきますよね」
「おいって」
弓彦は何と言っていいか、内藤先生のナマコ愛に追いつけなくなっていた。
「そんな話もあって、初めてナマコを食べた人の話をすると『ああ、この人はオリジナリティの無い御仁なんだな、どっかで聞いたことある話して』と判断してしまいます。きっと明治にもそんな話がたくさん合って、漱石はその話題に飽きたんだと思っています。そんななかで。この取り上げ方は流石ですよね。今でいう団塊親父に対する皮肉なんでしょうか。そういう見方ができる一方で、子規の死後3年後に吾輩は猫であるを執筆した漱石の、『子規が残した文壇のナマコ愛はこの俺が引き継ぐ』というこのナマコ愛のリレー、感動しませんか」
「おいって」
いよいよ泰彦はため息をついた。延々とナマコの話だけである。肝心の話は聞けていない。
「お取込み中失礼します」
さっきまで壊れた鏡の中をのぞいていた今村がようやくこちらを振り向いた。
「内藤先生、ここを通った瞬間にこの鏡は爆発したんですか?」
「いえ、学生さんとお話ししているとき、ちょうど目の前で」
「目の間で?」
「鼓さんという女の子が」
「おいって、鼓さん」
彼女の名前はよく出てくる。引っかかる名前だ。
「その子に連れられて、教室に向かうときでした。突然鏡が割れて」
「何か見ましたか?」
今村は刑事っぽく尋ねる。
「何か見たかもしれません…」
「え?」
「鏡から、出てきたんです。人影が…髪の長い…」
「それは誰ですか?」
「あれは、女の人でした…」
「教頭よ!松井教頭!」
突然近くにいた女子高生が叫んだ。話を聞いていたのか。あの子は鼓さんじゃないのか?
「私見たわ!鏡が割れて教頭先生が出てきたの!」
「あの子が鼓さんです」
行方不明の教頭が出てきたというのか?教頭は鏡の裏にいたというのか?事件関係者は全員保健室で休んでいると思ったのだが、彼女はまだここにいたというのだろうか。弓彦は動揺したが、今村を見ると意外に冷静な顔をしている。彼は鼓さんに尋ねた。
「教頭先生はどこへ行きましたか」
「あ、あっちに」
鼓さんは校長室の方を指差した。
「そうなんですね。たしか教頭先生は行方不明だったと」
「あの鏡、みんなから噂されてて、午前4時44分にそこに立つとどこかに連れていかれるっていう」
「そうなんですか」
「学校七不思議の1つなのよ。きっとあの鏡が割れた衝撃で出てこれたんだわ」
「そうなんですか」
今村が鼓さんをじっと見つめる。一瞬、鼓さんがたじろいだ。
「鏡が異世界の入り口で、合わせ鏡を使うとよく異世界に連れていかれるってよく聞きますよね」
今村は急に話題を変えた。今はそれどころではないと思うのだが。
「そうですね。わたしもライトノベルで読んだことがあります」
内藤先生がうなずいた。
「一枚の鏡だけで異世界へ入るというのはないんです。向かいに同じくらいの鏡がもう一枚あって、そこからなんです。異世界へ入れるのは。ただ、ここにはそんなものはない。ここに一枚鏡があるだけです。ほかには何もないでしょう?」
弓彦は見渡したがそんなものはなかった。今村は続ける。
「ゲシュタルト崩壊ってご存知ですか?」
「おいって」
今村がまた突拍子もないことを言い出した。
「こんな壊れた鏡に映った自分を見ながら、『お前は誰だ』と言ってみてください。何か不安感というか、奇妙な感覚に囚われますよ。第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人に行なった実験に人格をコントロールするという名目で1日数回、被験者を鏡の前に立たせて、鏡の向こうの自分に話し掛けさせ精神の変化を観察記録していったそうです。実験開始後10日間経過したころ、被験者の判断力が鈍り、物事が正確に把握できなくなり、3か月経った頃にはすっかり自我崩壊してしまったそうなんです。ちょっと怖い話ですよね」
今村はニヤニヤしながら話す。
「それから、合わせ鏡を持ってくれば、両面の鏡に無数の枚数の鏡が写るといいますが、これは理論上の話です。反射率100パーセントの純度の鏡はこの世に存在しません。レーザー加工をしても反射率100パーセントは無理なんです。しかもこの鏡は築100年の歴史あるこの学校に古くからあるこの鏡の反射率はアルミ蒸着加工ですし、せいぜい高くて70パーセントです。仮に100パーセントの反射率の鏡があったとしても、それを重ねて像は光の行程の逆二乗に反比例して小さくなります。最後のあたりはミクロンになってしまいますね。あと、真空中以外では、光は吸収・散乱されますから、澄んだ空気の消散係数を計算すると10キロ 進むごとに63パーセントが吸収・散乱されます。ちなみに光速度は有限なので、無限の像を生むには無限の時間が必要とここまでくれば特殊相対性理論にまで発展してしまうので止めておきますが」
妙に饒舌な今村である。残りはポカンとしている。鼓さんはふらふらしている。動きが不審である。
「ちなみにこの鏡の裏を見ましたけど人ひとり入るスペースなんてありませんでしたよ」
「何やってるんだべ?」
そこをたまたま通りかかった風の永島先生がやってきた。ちょうど鼓さんが指差した教頭先生の逃走先からである。永島先生は学校内にもかかわらず麦わら帽子である。
「あ、永島先生」
「何だべ」
内藤先生に話しかけられた永島先生は少し笑顔を見せた。
「先生、見ました?」
「何だべ?何を見たんだっちゃ?」
「鏡の中から出てきた松井教頭が走っていったんですよ。永島先生の方へ」
「あおら!」
永島先生は叫んだが全く何を言っているかわからなかった。
「おらそんな教頭見てねえべ。そもそも松井教頭は車いすだから走れないべ」
「そうなんですか?」
今村が聞く。いつの間にか鼓さんはいなくなっていた。
「あっ、逃げられた」
「おいって、いつの間にかいなくなったって」
弓彦も全く気付かなかった。割れた鏡の前には弓彦と今村、内藤先生と先ほど現れた永島先生が残された。
「怪しいとにらんでいたんですけどね。あの子。まさか逃げてしまうとは」
ぼそりと今村がつぶやいた。弓彦が聞く。
「おいって、あの鼓さんはこの事件と関係があるって?」
「重要参考人ですよ」
「くさん、何が事件の重要参考人だべ?大事な生徒を名指しで容疑者なんてごしぇっぱらやけること言うな」
永島先生がにらみつけた。何と言っているのか解読不能である。
「じきに出てくるでしょう。それまでもう少しですよ」
今村はそう言って笑った。弓彦、内藤先生、永島先生はぽかんとして鏡を眺めていた。