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    真夏の薄氷はキャンセルに溶ける。(後編)

【※注意】この部分には、痴漢行為をはたらく人物が登場します。詳細な描写はございませんが、念のため苦手な方はご注意ください。

『俺の左斜め後ろの女の人、たぶん痴漢されてる。捕まえるから手伝って』


 俺は名草(なぐさ)先輩のスマホ画面に表示された文字を見るやいなや、驚いて先輩の斜め後ろをチラリと見た。そこに立っていたのは、大学生くらいの女の人。表情は青ざめていて、恐怖の色が見て取れる。その後ろには、スーツを着た中年の男。まだまだ列車内は混んでいるとはいえ、少しずつ乗客は減ってきているというのに、異常にその女性に接近して立っていて、手元は女性のお尻の辺りを触っている。


 俺が慌てて先輩の方に向かって頷くと、先輩はすぐにスマホをポケットに突っ込み、長身をかがめて女の人に小さい声で話しかけた。


「あの、後ろのおっさん、知り合いじゃないですよね? 捕まえますね?」

 女性は泣きそうな顔で先輩を見上げて、こくこくと頷く。その様子を見た先輩は、すぐに男の腕をがっしり掴み、今度は男に向かって低い声で言った。

「おっさん、俺と次の駅で降りましょうか」

「なっ、なんのことだよ!」

男は焦った様子で言う。

「分かってるだろ。痴漢の現行犯で駅員に突き出すんだよ」

「ち、違う! 何かの間違いだ!」

男が首を横に振って否定する。

「何がどう間違いなんだよ。……藤巻(ふじまき)、こっちの腕押さえて」

「はいっ!」

 俺は慌てて男の左側に回り込んで、先輩とは反対側の腕を掴んだ。


「ちょっと待ってくれ! 冤罪(えんざい)だ!」

男が俺と先輩の顔を見比べて叫ぶ。

「言い訳はあとで駅員さんと聞くから」

名草(なぐさ)先輩が男の発言に耳を貸す様子はない。

「お、お前ら、この女とグルか⁉︎ 三人で俺に冤罪ふっかけて、示談金ふんだくろうとしてんだろ!」

 俺はギョッとして男の顔を見た。自分からあんなことしておいて、なんて図々しい言い分だ。

「ドラマの見過ぎか、あんたは。こんな学校名バレバレのジャージでそんなことしてたらアホだろ」


 先輩が冷たくそう言った時、ちょうど電車が駅に到着した。俺たちの目的の駅ではないが、とりあえず男を引っ張って降りる。女の人もふらふらとついて降りてきた。


「駅員室で話聞かれると思いますけど、大丈夫ですか?」

先輩が心配そうに女性に聞くと、その人は弱々しく頷く。

「はい、行きます……。あの、お二人は大丈夫ですか」

「ああ、俺らは別に時間あるんでお気になさらず。なあ藤巻」

「はい。全然だいじょぶです!」

 先輩に同意を求められ、俺は力強く頷いた。実際のところ、練習開始にはたぶん間に合わないと思うが、それどころではない。


「俺はやってないんだって。放してくれ! 俺が冤罪で捕まったら家族にも職場にも迷惑かかるだろ! 責任とれんのか⁉︎」

 男は相変わらず無実を訴えて暴れる。俺は、絶対に逃すまいと、男の腕を掴む手に力を込めた。


「あのなあ。第一に、やってないはずはない。俺と藤巻が証人。第二に、ほかに迷惑がかかるとしたら俺らのせいじゃなくて自分のせい。つーかすでに被害者の人にめちゃくちゃ迷惑かけてんだから謝れよ」

先輩が言う。部活中にも聞いたことないような厳しい声だ。


「……クソッ!」

逃げられないと観念したのか、男がそう悪態をついた。かと思うと、いきなりふくらはぎの辺りに痛みが走った。

()ってっ!」

 男に蹴られたのだ、と気付いた瞬間に、男は隙をついて俺の腕を振り払い、その手で名草先輩に殴りかかった。

「うっ」

先輩がお腹のあたりをおさえてうずくまる。


「先輩っ!」

 俺が咄嗟(とっさ)に先輩に駆け寄った隙に、男が駅のホームを走り出すのが見えた。マズイ、そう思った瞬間、隣で先輩の呟く声が聞こえた。

「バーカ」


「え?」

 俺が先輩の方に視線を戻すと、片膝をついたまま男を目で追う先輩の唇の端が、なぜか上がっているのが見えた。パチン、と先輩が指を鳴らす。その瞬間、「わーっ!」と男の叫び声が響いた。見ると、逃げたはずの男がホームでひっくり返っている。よく見れば、男が倒れているまわりの地面だけ、妙にキラキラと太陽の光を反射しているようだ。


「もしかして先輩……」

「へへ〜、先生には黙ってて〜」

そう言って先輩はピースサインを作ると、ぺろっと舌を出した。

「俺、駅員さん呼んでくるから、藤巻アイツ捕まえといてよ。今度は逃すなよ〜。……()てててて」

先輩は顔を歪めて脇腹をおさえながら立ち上がり、駅員室の方へ歩き出した。

「はい!」


 俺は男の方へ急いで走っていった。やっぱりだ。ここだけ、地面に薄く氷が張っている。俺は、名草(なぐさ)先輩の所属がアクア寮だったことを思い出す。男は滑稽(こっけい)なくらいツルツルと滑って、逃げるどころか立ち上がることすら出来ていない。このまま放置しても逃げられないとは思うが、駅にはまばらに人がいてこちらを気にしているし、駅員さんもすぐにやって来るはずだ。こんな所にこんな季節に氷が張っているのはマズイだろう。俺はこっそり魔法をキャンセルし、滑らなくなった地面を踏んで男を取り押さえた。


   *


 その後、駅員さんから警察に通報が行き、無事、男の身柄は到着した警察に引き渡された。

「あの、ほんとにありがとうございました」

 警察の人に状況を説明し終わって、名草先輩と駅員室の椅子に座っていると、被害者の女性が俺たちにわざわざお礼を言いに来てくれた。女性のほうも女性警察官の方に事情を聞かれていたようだったが、このあと警察署へ被害届を出しに行くらしい。


「あーいえいえ、もっと早く気付けなくてすいません」

名草先輩が困った顔で謝る。

「いえ、怖くて全然動けなかったので、本当にありがたかったです。あの、蹴られたり、殴られたりしたの、大丈夫でしたか?」

女性が心配そうに俺たちの顔を見比べる。

「はい! 俺らは全然大丈夫なので。気にしないで下さい。な?」

「はい! 全然! 全然大丈夫です!」

先輩と俺は、精一杯の笑顔で言った。

「そうですか。ほんとに、ありがとうございました」

 女性はもう一度頭を下げて、警察官の方と一緒に去っていった。警察の人によると、俺たちもまた後日、改めて事情を聞かれるかもしれないとのことだ。


 被害者の人、まだ顔色はよくないみたいだったなあ。あんなことがあったから当然だ。それに、駅員さんも警察の人も優しく丁寧に対応してくれたとは思うけど、怖かった状況を思い出して長いこと説明しなきゃいけなかったので、それでさらに疲れちゃったんじゃなかろうか。心配だ。先輩のおかげで犯人が捕まったのは本当に良かったけど、実に後味の悪い事件だ。


「ホントのとこは大丈夫? 足」

 先輩も疲れたのか、だらんと背もたれに背中を預けた姿勢で聞いてくる。

「うーん、まあ、蹴られた瞬間に痛くなかったと言うとウソになりますけど、骨とかは大丈夫だと思います」

俺は正直に答えた。

「先輩こそ大丈夫ですか?」

「俺もまあ、アザにはなるかな。はは。ごめんな〜巻き込んじゃって」

先輩は苦笑いして言う。

「いえ! 俺は全然!」

 あの状況では、絶対にあれが正しい行動だったと思う。


「まあでも、最後の()()はちょっとヤバかったかなあ」

先輩が苦笑して天を仰いだ。

「ヤバい、ですかね……」

 ()()、つまり魔法を使ったことは、校則的にはまずいかもしれない。でも、ああでもしないと逃げられてたと思うし、仕方なかったと思うんだけど……。


 うーん、と俺が悩んでいると、ガラリと扉が開いて、聞き覚えのあるよく通る声が聞こえた。

「すみません。アナスタシア学園高校の遊佐(ゆさ)萌々果(ももか)と申します」

 あ、遊佐先生が迎えに来てくれたみたいだ。なんだか先生の声を聞くとほっとして、やっと力が抜けた気がした。


   *


「二人ともおつかれー! えらかったね!」

 駅員室を出ると、遊佐先生がすぐに笑顔で言ってくれた。

「ケガ大丈夫? まずは病院行こうか。念のため診てもらいなさい」

はい、と俺たちが返事をすると、先生は微笑んだまま、仁王立ちで両手を腰に当てた。


「で? ……使ったの?」

 う……さすが先生、痛いところを突いてくる……。先輩はさっき『ナイショにして〜』って言ってたけど……。俺はチラリと先輩の方を見た。

「使ってませ……」

先輩は言いかけたところで先生の鋭い視線に射抜かれて、ギクリと固まった。

「使いました、すいませんでした」

先輩がペコリと頭を下げる。思ったよりあっさりバレたな。


 すると、顔を上げた先輩が続ける。

「けど、藤巻は使ってません。藤巻は関係なくて、俺の独断でやりました」

これには俺も慌てて否定する。

「え、いやいや、俺も使いました。すいません」

(かば)ってくれる先輩、めっちゃカッコいいけども! 俺も先輩の氷を消すのにキャンセル使っちゃったし……。

「詳しく説明」

先生が言う。先輩が、犯人確保の状況を説明した。


「……なるほど。オッケー。それで犯人捕まえたってことね。そういうことなら別に問題ないよ」

先生が優しく微笑んで言う。

「ホントですか?」

俺が尋ねると、先生はあっけらかんとして頷く。

「うん。だってたぶん、他の人にはバレてないでしょ」

「ですかね……」

 先輩は半信半疑といった様子だ。すると、先生が俺の方を見上げて言う。


「だってさ、藤巻、もしうちの学校へ転校してくる前に今日の状況に居合わせてたら、魔法だって思った?」

 あ、なるほど。

「いえ、絶対見間違いかなにかだと思ったと思います。魔法だって発想は微塵(みじん)もないと思います」

俺は思った通りにこう答えた。

「でしょ? 動画撮られてたとしてもさ、どう?」

「合成だと思う、と思います」

俺が言うと、先生は満足そうに頷く。

「そういうこと。普通はたぶんそんな感じだよ」

「へー、そうなんですか」

 名草先輩はもの珍しそうに俺の顔を見つめる。そっか、先輩は生まれた時から魔法使いとして生活してるから、そういう感覚はわかんないのかな。


「まあ一応校長には報告して、万一魔法に関する噂が広まってるようだったら対応してもらうね。場合によっては大規模な忘却魔法使うとか。けどまあ、話で聞いた通りなら心配ないと思うし。何より二人のおかげで犯人捕まったわけだから、むしろお手柄。正しい判断だったと思うよ」

先生が俺たち二人を見上げて言う。

「「ありがとうございます」」

 俺と先輩は、ほっとして顔を見合わせた。


 俺たちはその後、先生の付き添いで病院に行き、骨や内臓には異常がないことが確認された。内出血にはなってるけど、それも今度の試合までには余裕で治るだろう。これで一安心だ。


「私はさ、普段の授業で『魔法は人の役に立つことに使いなさい』とは教えないようにしてるんだよね」

 病院を出てすぐ。ふいに、遊佐先生が俺たちの前を歩きながら言った。

「え?」

俺が意外な言葉に驚いて顔を上げると、遊佐先生はそのまま振り返らずに続ける。


「まあ、もちろん人の役に立つことはすごく良いことだけどさ、それは義務ではないじゃん? キミらが魔力を持って生まれたのって単なる偶然だから、生徒たちにはあんまりこう、『自分は魔法使いだから人の役に立たなきゃ』みたいな感じで必要以上に重い使命を背負わせたり、自己犠牲を押し付けたりはしたくないし、『人の役に立てない魔法使いはダメだ』みたいな考えにはなってほしくないんだよね。魔法使いだろうがなんだろうが、みんな自分らしく自由に生きればいいんだから。だから、『魔法は人の役に立つことに使え』とは言わないの。私の生徒には、魔法をどういう風に使うのか、自分自身の意思で決めてほしいんだよね」

 そこまで言って、先生は立ち止まり、俺たちの方をくるりと振り返る。


「けど、自分たちの意思で、今回みたいに人のために魔法を使おうって思えたのであれば、それはすごく素晴らしいことだと思う! これからも、力は自分が正しいと思うところで使いなさい。正しいと思ったら躊躇(ためら)う必要ない!」

 はっきりとした先生の声に、俺と名草先輩は背筋を伸ばして、「はい」と頷いた。すると先生は腕組みして、呆れたようにちょっと首を傾げて続ける。


「ただし、自分のことも大事にね。今回は大事には至らなかったからよかったけど、無茶はしないこと。証拠写真撮って警察呼ぶとか、危険を冒さない方法もあるから」

「さーせんした……」

 先輩が苦い顔で言った時、どこからか着信音が聞こえてきた。すぐに先生がバッグからスマホを取り出して耳に当てる。


「あ、峰岸(みねぎし)? ……うん、二人とも大丈夫だった。……オッケー。じゃあね」

短い通話を終えて、先生がスマホを片付ける。

「峰岸先生ですか?」

俺は尋ねた。

「うん。二人のこと心配してたよ。偉かったって褒めてた。部活は今日はもちろん休みでいいし、明日以降もケガの状態次第で遠慮なく休むなり見学だけにするなりするように、だって」

 遊佐先生が峰岸先生からの伝言を伝えると、先輩が横でクスッと笑って言う。


「よーし、じゃあお言葉に甘えて、たっぷりサボらせてもらおーっと!」

「こら。サボれとは言ってない」

先生が呆れたように先輩を睨む。

 まあ、そんなこと言って、明日もたぶん部活来るんだろうな〜先輩は。さっきのすっごくカッコよかった姿はどこへやら、いつもの調子でへらへらと笑って、「すいませ〜ん」と先生に謝る名草先輩を見て、俺も思わずクスッと笑った。

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