9.清風高校へ
「それじゃあね、早く良くなって、東京で一緒に暮らそう」
美里浜病院のロビーで、さくらは車いすのお母さんに話しかけた。そして、お願いしますとお辞儀をして、お母さんを看護師にお任せした。
ここなら雨根村よりずっとよい治療が受けられる。お母さんの病気もきっとすぐによくなるだろうと、さくらは思った。
それから電車で東京へ戻り、9月からの編入が決まっている、清風高校へ向かう。
夏休みももうすぐ終わりで、街路樹は夕方の涼しい風に揺れている。
ひとりぼっちのセミが、どこか遠くで鳴いていた。
清風高校に到着すると、グラウンドでは部活動の後片付けをしている生徒が見えた。
さくらは、入学案内に同封されていた書類が入った封筒を持って、職員室へ向かった。
さくらは職員室の入口で、
「失礼します」
とお辞儀をして、そっと中へ入った。夏休みなのか、職員室の席には空席が目だった。
一番入口の近くに座っていた、女の先生がこちらへやってきた。そして、さくらに向かって、
「合格おめでとう」
と微笑んで、さくらの持っていた封筒を受けとった。
「ちょっと待っててね」
とその先生は自分の机へ戻り、書類を封筒から取り出して、ざっと確認していた。
そしてもう一度すべてを封筒に入れ直すと、さくらのもとへ戻ってきた。そして、先生の手から、名札のついた鍵を受けとった。
「これ、寮の鍵ね。部屋の場所はさっき脳内情報処理装置に送信しておいたから。それからこの学校の校則とか、明日からの授業のこととかも、送信してあるので、確認しておいてください」
さくらは職員室をでて、パタンとドアを閉じた。
夕方の夏休みの校舎はあたりまえだが、誰もいなかった。
窓からそとの光が差し込んでいる。さくらはその中を、脳内情報処理装置にしたがって、静かに歩いて行った。
1階の連絡通路を抜けると、清風高校の女子寮があった。受付のおばさんに、
「9月から入学することになった、さくらです。よろしくお願いします」
と頭を下げると、おばさんは感心したように、
「あらー、編入生試験に合格したなんて、あんた頭いいんだねえ」
と褒めてくれたので、さくらは顔が赤くなった。
さくらは階段を上り、3階までやってきて、指定された302号室の前に立った。
ドアの横にかけられた入室者名を見ると、さくらの名前と、そのすぐ上に、愛子の名前が書いてあった。
ドアをノックしても返事がない。鍵もしまっているようだ。さくらはポケットからキーを取り出して、ドアを開けた。
机とベッドが一体化したロフトベッドが側面の壁に向けて配置されている。
真ん中のカーテンの仕切りを挟んで、その反対側も同じものが配置されていた。
ドアの正面には窓があり、部屋の壁は女の子の部屋らしく、薄いピンク色だった。
愛子が使っているらしい机の上には、数学の教科書とノートが開いたまま置いてある。
すぐ上のベッドには、布団が敷いたままになっていた。誰も寝ていないように見える。
反対側の、さくらの机は本だなに本もなく、すっきりしていた。
ひとまず、背負っていたリュックサックを下ろして、机に座る。そして目を閉じて、心の中でひとりきりになる。
今でも、自分が東京の高校に合格したなんて、夢みたいだ。
遠くでなくセミの声を聞いていると、雨根村のことを思いだす。みちおも知美もどうしてるかな。また落ち着いたら、会いたいな。
東京に住んでいるさくらと、雨根村のみちおと知美は、脳内情報処理装置により接続された仮想空間では会うことはできない。
東京の人間と、その他の人間の間では、厳しいアクセス制限が設けられているからだった。
だから、会いたければ、現実世界で同じ場所に存在しなければならない。
まずは、この高校の生活になれないと、とさくらがリュックサックに手をかけたとき、
「うーん」とカーテンの後ろから女の子のうめき声がした。
さくらがカーテンを開くと、ベッドの上で、愛子が上半身を起こし両手をあげて、背筋を伸ばしていた。
「あ、来たんだ。さくらさんは友達だからって、同じ部屋にしてもらったんだ。その方が都合がいいからね。」
さくらは何をいっていいかわからず、ぽかんとして愛子を見つめていた。やっとのことで、
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
と頭を下げると、愛子はベッドから下りてきて、さくらの前で膝から下を左右に少し広げてお尻を床にぴったりとつけて座っていた。
いわゆる女の子座りである。釣られてさくらも足を折り畳むようにして、すわった。
まだ夕方だったけれど、愛子はもうパジャマ姿だった。
「あたしたち、初対面じゃないんだから、そんなに緊張しないでよ」
愛子は正座しているさくらの肩をポンと叩く。そして、そのままさくらの耳元へ顔を近づけて、
「忘れてないよね、東京爆破計画」
とささやいた。さくらは、こっくりとうなずいた。
「でも、まだアレがどこにあるのかわかっていなんだ。だけど、もうすぐだよ」
どこで誰が聞いているかもしれないからか、愛子は東京制御コンピュータを”アレ”と置き換えていた。
「あ、そうだ、部活どうする? あたしと一緒にテニス部に入ろうよ!」
それから、愛子はさくらの入学案内を広げて、楽しそうに話始めた。
それから、部屋で愛子とお話をしていると、あっという間に19時過ぎになっていた。窓のそとはすっかり真っ暗になっている。
愛子はパンフレットを閉じると、
「お腹すいたね。食堂に案内するよ、一緒に行こ」
と愛子が立ち上がったので、さくらも連れだって部屋を出た。
夜になって、寮の廊下はダウンライトが着いて、明るくなっていた。
階段へ行く途中の部屋で、大きなキャリーバックを持った女の子が、顔にハンカチを押し当ててしくしく泣いていた。
じっと見ていたさくらの目線に気づいたのか、女の子の泣き腫らした瞳と目が合った。さくらは気まずくなり、あわてて顔を反らした。
「なに見てるの、行くよ」
愛子はさくらの手をぐいと引っ張った。
階段を下り始めたところで、さくらは愛子に聞いてみた。
「あの子、どうして鳴いてるんだろう」
「え、この女子寮恒例の風景だよ。1学期の成績が基準に満たなかったから、退学になったの。きっとこれから田舎に帰るんだよ」
「なんだか、かわいそう…」
「かわいそう? あの子だって、だれかを押しのけてこの高校に合格したんだよ。それに、あの子が退学になった分、生徒数に空席ができたから、さくらさんが編入できたんだよ」
愛子は階段を下りながら、素っ気なく言った。
愛子のような東京暮らしが長いと、そうやって割りきって考えられるようになるのかもしれないし、そうならないと生きていけないのかもしれなかった。
さくらが愛子の背中を見つめながら考え込んでいると、不意に愛子が振り返った。その顔は笑っていた。
「どう、200倍の競争を勝ち抜いて入学できて、とっても気持ちいいでしょ」
愛子の笑顔に、さくらは帰す言葉がなかった。
気持ちよかったのは、事実だったからだ。そして、みちお君があの時の夜のデートで言っていた言葉を思い出していた。
さくらんぼのイアリングが、ちいさく震えていた。
(つづく)