2.私の誕生日
愛子が出て行ってから、私は改めて、洗面台の鏡に立ち、自分の姿を眺めた。
そこには、ひとりの女の子がこちらを見つめて立っている。顔の輪郭は卵形で薄くて赤い唇に、色は白く、ほおは少し紅らんでいる。目はぱっちりとした二重で、それでいて眉毛は外側にかけてゆったりと下がっていて、柔らかな印象を与えていた。つやつやした黒髪は額の前で切り揃えられて、軽く両肩にかかっていた。
身長は女性の平均身長より少し高くなっていた。
そして大きめな胸と大きくなったお尻が院内着の下で盛り上がっていた。
私は思わずじっと見てしまい、それが自分の体なのだと思うと、興奮するよりもまず恥ずかしくなり、目をそらした。慣れるまで時間がかかるのかな。でも、愛子が言っていたように、内面も別人に、たぶん、この体に見合った女の子に変えられるのであれば、それが当たり前になり気にならなくなるのだろう。
引き戸を開けると、鍵が掛かっておらず、ガラガラと音を立てて、開いた。
廊下では30代くらいの女性の看護師2人が、各病室へ食事を配膳しているところだった。
私は、ここがどこなのか、聞いてみることにした。
「ここは美里浜病院ですよ」
考えてみたらおかしな質問だったが、その看護師はその手の質問には慣れているようで、変な顔一つせず答えてくれる。美里浜、という名前をどこかで聞いたことがあると思ったら、テレビのニュースだった。気が狂った大量殺人犯が以前入院していた、主に精神の疾患を治療する病院の名前だ。
私がここに入院させられているということは、私の頭もいよいよおかしくなったのだろうか。さっきの愛子との一連のことは全部妄想で、私はもともとこの女の子だったのか。でも、生まれてからずっと、私は間違いなく、私だったはすで、こんな女の子ではなかったはず。
しかし、今は落ち着いていた。この病院のこの世ではないような、ふんわりした雰囲気と雨の静かさのおかげだろうか。
階段を降りた1階には、ちいさなサロンがあり、飲み物の自動販売機が置かれていた。院内着のポケットをまさぐってみたが、当然お金はなかった。
窓からは、夕暮れの明かりが差し込んできていて、明かりの着いていない部屋を黄色く照らしていた。
私は窓側にこしかけて、ひじをついた両手で顎を包み込むようにして、夕日で光り輝く海を眺めていた。
しばらくして、そろそろ戻ろうと思ったら、後ろで物音がした。
ぼんやりとしていた私は、なんとなく振り返ると、その女の子と目があった。
──みちよ、さん?
その女の子は、私と目が会うと、何事もなかったようにすぐ目を反らした。そして、後ろの自販機からコーヒーのいい臭いが漂ってきた。
コトンと紙コップを置く音がした。女の子は、私から2席ほど離れた、海側の席に座った。
私はどうしても、確認せずにはいられなかった。その女の子が本当にみちよさんなのか。だって、みちよさんは私が殺してしまったかもしれないんだ。それとも助かったのか。それで体は治ったけど、心は治らずに、こんな病院に入院しているのだろうか。
海を見るふりをして、ちらりと横を見た。女の子の横顔があった。
おさげの三つ編みはほどかれて、今は頭の後ろで1本に束ねられていた。
でも、優しそうな瞳、くちもとのちいさなほくろ、なにより全体の雰囲気は、私が殺したかもしれないみちよさんと、そっくりだった。
私は、そっと椅子を引いて立ち上がった。その女の子は、相変わらず海を眺めている。
部屋を出るふりをして、そっとその女の子後ろ姿に近づいた。
両手を後ろに組んで側に立つ。
「いい天気ですね」
夕焼けに心奪われていたのだろう。その女の子は、すこしびっくりして様子で振り返り、私を見上げた。でも、相手が同じ年頃の女の子だとわかると、すぐに笑顔になって、
「そうだね。私、ここで毎日夕日を見るの、好きなんだ」
どうやら、中学校の時の私だとは気が付かなったみたい。でも、これだけ姿形が変われば当たり前か。
それからしばらく静かになって、ふたりで窓を見つめていた。
「私は、4月から雨根村高校への入学が決まってるの、みちよさんは?」
「えっ、なんで、私の名前を知っているんですか?」
心優しそうなその女の子は、さすがに怪訝そうな表情をした。
「あ、えっと、…知り合いにそっくりさんがいて、その人と勘違いしちゃって…」
私はしどろもどろになり、自分でも訳がわからない言い訳をしていた。でも、もしかして本当にこの女の人は、私が殺してしまったみちよさんの他人の空似なだけ、なのかもしれない。
だって、私はあのとき、血まみれで倒れているみちよさんを間違いなく見た。あのみちよさんは、生きているはずはないと思っていた。
「えーっ、そのそっくりさん、私と名前も年齢も姿形もそっくりなんだね。会ってみたいな!」
私の言い訳を信じてくれたのかどうかわからないが、みちよさんは楽しそうにわらってくれた。そして、当然の流れで、みちよさんは聞いてきた。
「あなたは、なんてお名前なの?」
私は戸惑った。頭の中をかき回しても、自分の名前が出てこなかったのだ。愛子にへんなことをされたせいで、頭もおかしくなったのか。もともとおかしかったけど
「私の名前、えーっと、名前は…」
考え込んでいると、みちよさんは、そんな私をきょとんとして、見つめている。愛子からは、私の名前を聞いていない。私の体も人生も、それを拾った愛子のものだ。勝手に決めてしまってよいものだろうか。
ふと、私の病室に、桜の枝が活けてあったのを思い出した。
「さくら、です」
適当に名乗った。どうせこの場限りの名前なのだ。
「さくらさん、か。いい名前だね。よく似合っているよ。だって、桜の花のように、きれいでかわいいんだもん」
みちよさんにかわいい、と言われてすっかり恥ずかしくなってしまう。でも、夕陽で包まれた部屋では、顔が紅潮していることはわからないだろう。
私は、みちよさんの隣に腰掛けようと、腰を下ろしたが、椅子を後ろに倒してしまい、あわてて元に戻して座り直した。大きくなっていたお尻で、椅子を押し倒してしまったのだ。まだこの体の感覚が掴めていないのだろう。あたふたしている自分は、まるで変わっていない。
あわてて椅子を直している私の姿をみて、みちよさんはくすくすわらっていた。それは、軽蔑するという感じではなくて、かわいい子供を見てほほえましくなっている母親の笑顔のようだった。
「さくらさんって、なんだか面白いね。パッと見すごくしっかりしてそうなのに、内面はおっちょこちょいって感じ。あ、いい意味でだよ。なんだか親しみやすい気がしてい」
私は、気になっていることをそれとなく聞いてみることにした。
「みちよさんは、春からどこの高校へ行くの? 東京の高校?」
みちよさんは、懐かしそうな遠くを見るような表情で、夕陽を見つめている。
「わたしは、…どこへも行かないことにしたんだ」
「えっ! でも、せっかく東京の高等学校に合格したのに、もったいないよ」
「すっかり飽きちゃったんだ。これまでの形通りの人生にね」
そうやってコーヒーカップを傾けるみちよさんの顔は、とても大人びて見えた。顔は少女だったけど、表情は人生を知り尽くしたおばさんのようだった。
「あ、でも、さくらさんと一緒に、雨根村高校に行くってのもいいかもね」
一瞬顔をのぞかせたみちよおばさんはパッと消えて、私の前には、みちよさんが冗談めかしてわらっていた。
夕陽がすっかり海に沈んで、水平線の向こうにその名残が残っている。明かりが着いていない部屋は、月明かりがなけれ真っ暗になっていただろう。
私はそろそろ帰ろうと、背もたれに手をかけて立ち上がろうとしたら、みちよさんが不意に手をのばして抱き着いてきた。顔をうずめたみちよさんの熱い吐息が私の胸に触れた。
「さくらさん、なんだかあなたとは初めてあった気がしない。どこかで知っているような気がする…」
みちよは私を見上げて言った。目が潤んでいる。私は、興奮して熱くなった頭で、必死に冷静に考えた。そういえば、みちよさんは男の子の友達はいなかった。中学の卒業アルバムの写真でも、女の子と仲良さそうに手をつないでいる写真ばかりだった。もしかしたら、そういう趣味がある人なのかな。
「なんだか、あなたのこと、好きになっちゃったみたい…」
私は、なんと答えてよいかわからず、だまってみちよさんを見つめていた。
「キスしてくれませんか…」
みちよさんは、ゆっくり目をとして、口をつぐんだ。恥ずかしいのか、まぶたが小刻みに震えていた。
私の胸は苦しいほどドキドキしていた。足の間がうずいてきて、頭の中は過熱して正常に思考できなくなっていた。そして、そっとみちよさんを抱き寄せて、自分の唇をみちよさんのそれに重ねた。
うっすら目を開くと、暗い窓に、だきあってキスしている二人の女の子が私の目に入ってきた。
どのくらい時間が経過したのだろう。どちらともなく、唇を離すと、暗い海に向き合って並んでそっと手をつないていた。
「じゃあね、またいつか会えたらいいね」
みちよさんはそっと手をほどくと、照れたようにわらって、窓辺の紙コップを捨てるのも忘れて部屋を出て行った。パタンとドアが閉まる音がして、私はひとりになった。
暗い窓の向こうから、穏やかな波の音が聞こえていた。月の白い光が海面を照らしてキラキラしていた。そして、すっかり女の子に変わってしまった、私の無表情な青白い顔が、窓に映っていた。
もう部屋の中はすっかり真っ暗になっていた。
私は2階の自室へ戻り、ドアを開けた。部屋はまっくらだった。部屋におかれた丸テーブルの上には、橙色の明かりが揺らいでいる。ろうそく?
パンッ
と音がしたと思ったら、部屋の明かりが着いた。私はびっくりして、音の方を振り返ると、ドアの前で、とんがり帽子を被った愛子がクラッカーを手にもって、げらげら笑っていた。
「びっくりした? ねえ、びっくりしたでしょ!」
愛子の問い掛けに答えるまに、私は頭に載っているクラッカーから射出されたごみを手で払い落とした。
「さ、すわって」
愛子が手で促したさきには、窓辺に向き合って配置されたソファーの間のテーブルの上に、ろうろくが1本刺さっているちいさないちごショートケーキが載っていた。
私は言われるがまま、腰を下ろした。
愛子は、ムードをださなくちゃとつぶやき、部屋の明かりを改めて消した。ソファーの側の明かりだけを残して。そして、私の前に座った。
愛子にのいわれるままに、私は愛子の前に座った。
「このケーキはなんですか?」
「見てわからないの。お誕生日会よ」
愛子は赤い液体が入ったボトルを傾けて、私の前のグラスにそそいだ。
「誰の、ですか」
「もちろん、あなただよ。新しいあなたが生まれた日だから」
愛子は持っていたグラスをこちらへ差し向けた。乾杯を、ということらしい。
私も釣られるようにしてグラスを持ちあげて、そしてふたりのグラスはカチンと音を立てて触れ合った。
「さ、あなたも飲んで」
愛子にそういわれて、私も一口飲んでみた。味からするとブドウジュースのようだった。
「あなたにプレゼントがあるんだ」
そういって、愛子は足元からリボンの付いた箱を両手で持ち上げると、食べ終わったケーキの皿をどけて、テーブルの上に載せた。愛子にどうぞと手の平でうながされて、私はリボンをほどいた。
ふたを開けてみると、きれいに折り畳まれた高校の制服と胸元にあしらうであろうリボン、そして学生証カードが置いてあった。
制服を取り出して、眺めてみると、目の前の愛子が来ている服とは違っていた。たぶんこれは雨根村高校の制服なのだろう。私は制服を見て、これをこれから毎日自分が着るのかと思うと、恥ずかしい気持ちになってきた。
ふと箱に残っていた学生証カードを取り上げて名前欄を見ると「さくら」と記載されている。
「私の名前は、さくらなのですか?」
「そうだよ。東京の高校受験に合格して、さくらが咲くように、ね」
窓辺に移された花瓶の、さくらの枝はのつぼみは、もうすぐ咲きそうなほどにふくらんでいた。
みちよさんに、その場しのぎで思いついて伝えた名前と同じだった。偶然かな。
「あ、そうだ。これも渡しておくね」
愛子は制服のポケットから、アクセサリーを取り出した。さくらんぼの形をしたイヤリングだった。
緑の葉にピンクのリボン、そこから2個のさくらんぼがぶら下がっている。
愛子は立ち上がり、私の側に来て屈み込むようにして、
「つけてあげる。きっとよく似合うよ。さくらさん、かわいいから」
と私の髪を手てたくしあげて、両耳にそれをとりつけた。私はおもわず手で触れてみた。
「大事なものだから、外さないでね。あしたからのさくらさんにも、よく言っておいてね」
愛子にそういわれても、どうやって伝えるのか。明日からのさくらは、私の体であって、意識は私ではない。今から強く心に念じておけば、私としての記憶が残るのだろうか。
そもそも意識とは、自分とはなんだろう。
難しいことを考えたせいか、次第にあたまがふんわりして、眠たくなってきた。夕食を食べていなかったが、それよりも、もう眠りたかった。私は壁にハンガーで制服をかけてくれている愛子に向かって、
「なんだかとても眠たいんだ。お誕生会ありがとう。嬉しかったよ。でも、もう寝かせて」
私は愛子の返事を待たずに横になった。愛子は壁の制服を整えると、ベッドの側にやってきて椅子に座った。
「いいの? 今日寝ちゃうと、あなたは終わりだよ」
愛子は心配そうに言うが、ベッドに入った私は心地好い眠気に包まれていた。まだ、20時ちょっと過ぎだと言うのに。
愛子は私の額に手を載せた。ひんやりとして冷たかった。
「雨根村のさくらさん、元気で暮らしてね。いってらっしゃい…」
愛子がそういうと、私は意識が暗闇の中に溶けていくような気持ちになって、眠りについた。
(つづく)