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神が設計ミスした生物

   

 平成から令和になったようです。令和。なんだかお祭り騒ぎだったようですが、人間というのは明るい表情で破滅していくという気がしてなりません。

 

 「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も暗い内はまだ滅亡せぬ」

 

 これは太宰治「右大臣実朝」の中の一節だが、今この時代に当てはまるような気がしてならない。吉本隆明の話では、戦争中は「社会は明るかった」そうだが、その明るさの中に滅びの姿を見ていた太宰には、大思想家の片鱗が煌めいていたという気がしないでもない。太宰治は大作家ではないが、そのビジョンはもっと大きなものに通じていたという気がする。

 

 太宰の作品では「鴎」という短編が一番好きで、ここで太宰は自分の暗さを世の中の(戦争中の)明るさと比較しつつ、その居場所について悩んでいる。

 

 先に言えば、これは「戦争批判」「戦争は良くない」という考えとは少し違う。僕という主体が現在感じているもの…そうして太宰治という主体が戦争中感じていたもの、それは様々なものの平板化であろうと僕は感じている。端的に言えば、人間は動物よりも暗い生物だ。メディアに出ている人間は外面化された生の象徴なわけだが、それを崇拝する庶民的なもの、その二つが一つになって極めて平板な世界が作られようとしている。

 

 この世界の平板化、すでに十九世紀から予測されていたもの、人間の均質化、平板化、物質化は、二十世紀には戦争と平和という形ではっきり具現化された。我々はそこで、戦争と経済の両面によって数量化された単位となった。今や人が望むのはこの数量の世界で神となる事である。自分の存在そのものを数に変換する事だ。数でしか自分の価値を計測できない主体。それが現代人の本質だと感じる。

 

 最近、シオランを読んでいるが、僕はシオランに則って、どうやら人間というのはその本質から間違った存在だったという気がしている。人間が進歩するには狂気と誤謬が必要である。その事実は、静寂と自己超克を基礎とするインド哲学…そういうインドが停滞し、発展しなかったという事態に示されていると思う。インド哲学は何よりも正しかった、人類の馬鹿げた大騒ぎが終わってみれば、古代のインド哲学者やストア学派、老荘思想などが正しかったように思われるが、この正しさからは発展や進歩というものは現れない。

 

 東方には楽園があるとか天国があるとか考えて、航海に出た西欧の人達は、楽園が存在するという幻想を抱いていたのだが、その幻想=過ちこそが、彼らの巨大な進歩を呼んだのだろう。狂気や幻想は、幻滅や自己解体へと繋がっていくが、幻滅を夢見て人は走る事はできない。賢者は動かない。動くのは愚者である。歴史を作ってきたのは愚者であると言えるだろう。

 

 これを現在に置き換えれば、成功とか、金とか、セックスを目的としてうごめく人間というのは愚者であり、彼らが最後に至るのは幻滅だと断言できるが、しかし世界を動かすのはこのような人達だと言える。これはアダム・スミスが指摘していた事で、ストア学派が集まっても生産性は計られない。ソクラテスの集団は何をするだろうか。生産や進歩には、人間の愚かさが必要となる。だから、彼ら……自己啓発本に耽溺している人とか、自分の地位向上のみを考えている単純な人というのは、愚かだと切り捨てる事はできない。彼らはある意味で賢者よりも優位な立場にいる。

 

 ただ、こういう事をつらつら考えていくとどうしても、神は人間を間違えて作ったのだと思わざるを得ない。つまり、幻滅や狂気という餌がぶら下がっていなければ運動せず、進歩もできない人類という種、これが最後に到達するのは幻滅であり解体である。ナポレオンが最後に辿り着いた孤島は彼の生涯の答えだったのかと言えばそうだろう。世界を望んだものは最後にはみなそういう場所に陥るが、それは必然的な答えだ。ところが、この必然を求めて世界を求める事はできない。人が運動するには結論を隠蔽して、そこに彩色を施し、見かけだけは美しくして、改めてそこに突進する必要がある。結論を最初から見せればどうしようもない。

 

 古典文学とエンタメの違いというのを述べてみると、以前から気になっていたが、エンタメはハッピーエンド、主体の欲望が叶うという方向に舵を取り、古典文学は人間の破滅を描くという悲劇の方向に舵を取る。この違いは気になっていたが、何故違うのかというのは、今までに書いた事と重ね合わせれば容易に見えるかと思う。エンタメは嘘であるが、これは必要な嘘と言える。しかしいくら必要な嘘であっても、結局は嘘に違いない。

 

 こんな風に考えていくと、どうしても一つの結論、人間というのはその根底から間違っていたという気がしてくる。あるいは人間は「正しさ」「完全性」「永遠」という誤謬を自らの中に持った動物だったが為に、これほどまでに進歩して地球を覆うまでになったとも言えるかもしれない。シオランが感じていたように、人間というのはその役割を終えつつあるのかもしれない。歴史というもの自体が終わりを迎えているのかもしれない。人間という存在は、過ちを持たなければ前進できない生物であり、正解を自らに持った途端動けなくなり、寂滅していくほかない。

 

 古代の僧侶連中の怨念は、進歩と開明に明け暮れた我々蛮人を捉えてはなさなかったという事か。彼らの復讐は長い歴史の歩みを越えて果たされたという事か。現在において我々はなにかの終端に辿り着こうとしているのか。しかし、我々に絶対に許されていないのはその終端を認識する事だ。我々が滅びていく時は、進歩を信じ、全てが明るく開けていく様を信じている時に限られる。我々は未来を語りながら未来を失っていくだろう。

 

 ドストエフスキー「罪と罰」について、賢い人が言及するのをいくつか見た。言及している人は賢い人だったので、容易にラスコーリニコフの思想の過ちを見抜いてた。ところが僕からすると、賢い人はラスコーリニコフ自身が自分が過っていると最初から気づいてた、その点については認識していないように思われた。ラスコーリニコフは間違った思想を抱いていた。これはいい。では、正しい思想とは何かと容易に賢い人間は発言する。僕は賢い人の方が間違っていると思う。人間は誤った思想しか持てない。ラスコーリニコフは自分の間違いを知りつつ、破滅を知りつつその道筋を歩いた。彼に正解の道を指し示す人はラスコーリニコフよりも、いや、ドストエフスキーよりも正しいのか? …多分そうなのだろう。それが「正しさ」という観念の中にとどまる限りはそうだろう。ところがその観念の行く末自体が物語として示されているとは考えられないだろうか。

 

 ドストエフスキーは最後にはキリスト・神という観念に辿り着いた。それを心の慰めにしようとした。僕には神という観念は、人間に残された最後の美しい誤謬という気がしてならない。ドストエフスキーには、ロシアの土壌と時代性からキリスト教を自分の哲学の中心に持ってこれたが、現在の我々にはそんな事は不可能に思える。ハネケやウエルベックのニヒリズムは他人事ではない、現在を生きる我々が面接する具体的な問題だ。

 

 人間というのはその根底からして間違った観念しか抱けないとは既に仏教の段階で喝破されていたが、人間というのはもしかして、ラスコーリニコフのように自らの破滅を知りながらその道筋を歩いてきたのだろうか。そうだとしたらこの物語はもう終わるのか。僕は…僕個人は、世界にも自分にも深く絶望している。ところがこの絶望もある種の希望になってしまうという状況には逆らえない。物理的に重力には逆らえないのと同じように、思考も思想も、ある法則には逆らえないのだ。その法則の向こうには「神」がいると信じたい……いやそうではなく、この「神」もまたこの法則の内部にある観念に過ぎない。人間の消滅した後の未来がどうなるかはわからない。我々には全然わからない。しかし我々の思考傾向は我々に「わからない」という答えを許してはくれないのである。

 

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[良い点] 私はヤマダさんほど考えていることを纏め上げられない者なのですが、仏教のことはかつて感じたことがありますね。 全人類が原始仏教を実践できたら戦争はなくなるだろうが、しかし何も進歩しないだろう…
[一言]  個人的な現代人間社会の見解ですが、サムライアリ(1%未満の富裕層)とクロヤマアリ(99%以上の貧困層)の図式のように思う。フェロモン(お金)で惑わされ自分達の巣(社会)を崩壊させられたこと…
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