8: 身体改造
大学構内にある古い東棟と、後から建て増しされた記念館を兼ねた第二東棟の間は、約10メートルほどの距離しか開いていない。
二つの建物の間は、それぞれの3階同士へ渡された空中通路で繋がれている。
敷地面積は遙かに東棟の方が大きいのだが、その高さはほぼ互角で、こうやって東棟の屋上に立ち記念館を見ると、記念館屋上のコンクリート面が微かに見下ろせる程度だった。
いずれの屋上にもこれといった落下防止柵らしきものはなく、屋上床面から30センチ程度の高さの凸部が上に向かってせり出しているだけだ。
海は今、東棟の屋上にいる。
ここに侵入するのは簡単だった。
屋上に出る間際の階段の踊り場には、スチール製の分厚いドアと、カギ穴つきのドアノブがあるのに、鍵がかかっていなかった。
開けていると言うより、閉め忘れているのだろう。
芸術大学の学生ならイメージ的には、飛び降り自殺をするような「苦悩する人間像」が似合いそうだし、東棟の高さは十分その条件を満たしていたのだが、学生達の現実はその正反対にあり、大学側の安全管理意識もその程度のもので十分と言えたのだ。
現に他の学生達は、冬休みの土産話に花を咲かせ、直ぐにやってくる長い春休みに、又、夢を見ている。
期間限定とはいえど、自分の好きなことだけをやっていれば良い世界を手に入れ、誰がわざわざこの屋上に上り、目もくらむような高さから飛びだそうとするのか、、、、いやもっと言えば、もっと楽に死ねる方が、他にいくらでもあるのだ、、。
しかし海は、今、それをやろうとしていた。
姉の死に耐えられずにか、いや、違う。
もっとも、その行動は、姉の死と関係なくはないが。
「煌紫、話がある、出てこい。」
『なんだ海、それに、ここはどこだ?』
「相変わらず礼儀正しいな、そんな事、俺の記憶をのぞき見すれば、一瞬でわかるくせに。」
『それが我々のポリシーであり、誇りだ。我々が宿主から借りるのは、宿としての身体だけだ。情報を得るための目や耳を宿主から無断で借りたりはしない。』
「・・・ここは俺の通っている大学の建物の屋上だ。今から隣の建物の屋上に飛び移る。」
『、、、、。無茶を、するな。』
「お前が俺の申し出に対して、消極的だからだ。」
『我々は、宿主の身体の危機を回避する為、その肉体に干渉するが、それ以外の目的の為に関ったりはしない。ましてや、復讐の為の身体能力の強化など論外だ。』
「・・・あの時、確か、お前は、今の身体で復讐するのは、無理だと言ったぞ。」
遊を拉致し瀕死状態に追いやった連中が、留守にしていた山中の別荘に帰ってくる前、確かに煌紫はそう言った。
『海を危険に晒さない為に言ったのだ。それに私もあの時は、少し混乱していたからな。』
「ごまかすなよ、あの時の煌紫は、姉さんを殺されそうになった事に怒りを感じていた筈だぞ。俺は、そういうの判るんだよ。嘘を付いてもだめだ。」
『嘘ではない。混乱していたと言ったろう。』
実際、煌紫はあの時、色々な意味で混乱していた。
選択しなければ、ならない事が多すぎたのだ。
人を痛めつけ、その肉を喰らう事で、快楽を覚える同属の存在は知っていた。
だが、種の最高知見体である自分の寄生した人間が、同属の寄生した人間に遭遇するという事態は極めて低い可能性の筈だった。
煌紫はそれに遭遇したのである。
そして同属同士は、決してお互いを干渉しないという鉄のルールが、この混乱を更に加速させた。
人間の警察を呼ぶ事など論外だったが、遊だけの事を考え、同属との衝突を覚悟するのなら、海ではなく同種の仲間を呼べば、なんとかなったのかも知れない。
「・・まあいい。俺はとにかく、ここから走って隣の建物の屋上に飛び移る。ただし幅は10メートル以上ある。当然、俺の今の跳躍力では届かない。言っている事は、判るな?お前は宿主の身体の危機を回避する為に、その身体に干渉するんだろう?」
『、、馬鹿な。海、君が地面に叩き付けられてぐしゃぐしゃになってから再生するという事も可能なんだぞ。それでもやる気か。』
「そうかい、それならその時は、俺の再生はいいから、遊姉さんを再生してやってくれ、俺はもういい。かわいそうに、姉さんは社会的にはまだ死んだことにもなっていないんだぞ!話は、これでおしまいだ。」
海は突然、走り出した。
当然、恐怖心がない訳ではない。
下手をすれば、結果は飛び降り自殺と一緒になる。
自分の内に燃え上がる復讐心を、抱えたまま死ぬ気にはならない。
だが復讐を果たすためには、死ぬ気になっている。
煌紫は数秒で人の身体の跳躍力を一気に引き上げられるのだろうか?
それは判らない、賭だ。
、、だがこうでもしなければ、煌紫を動かすことは出来ない。
説得に応じるような相手ではないのだ。
説得に応じない?、当たり前の事だ、。
相手は、人間ではないのだから、、。
屋上の縁がどんどん近付くてくる。
生存本能が、動く脚を止めようと悲鳴を上げる。
煌紫は、あの時、数秒で俺の身体を姉の遊に変容させた。
信じろ、そして今の俺には「力」が、必要だ。
目前に、向こうにある建物の屋上が見えてくる。
突然、がくんと膝の力が抜けて、海はその場に尻餅をついてしまう。
飛び出す為の崖っぷちから、1メートルもない位置だった。
海の目に涙がにじむ。
悔し涙だ。
この期に及んで、自分の命を惜しんでいる。
こんな自分が、遊を死に追いやった人間達に復讐を果たせる訳がない。
『違うよ。海が尻餅を付いたのは私のせいだ。君の跳躍力を高めるのに、少なくともあと数秒は必要だ。地面に激突してから蛙のような脚をもらってもしかたがあるまい。』
「、、、、。」
海はその場で腹這いになると、動かない脚を引きずるようにして肘を使いながら、さっきのスタートの場所まで、ずるずると移動を始める。
「俺は本気だぞ。何度でもやる。」
スタート地点まで辿りつくと、脚の感覚が戻るのを待つ。
つま先から徐々に温感が戻ってくるのが判る。
やがて脚全体が火照ったように熱くなってくる。
その熱さは下腹部に這い上り、やがて全身を包んだ。
『跳躍力は脚の筋肉と骨、そして神経の強化だけでは得られないんだよ。他に背筋だとか、、全身運動だからな。さあやって見ろ、海、準備は整った。仕上げの最後のスィッチを入れるのは、私ではないんだよ。君の生存本能だ。私の宿主達は、危機に陥った時、それを無意識にやって来た。君は、それを自分の意志でやろうとしている。それが出来るものなら、やって見ればいい。死の恐怖へ、自らを晒せるものなら、やってみるがいい。』
「なめるな!」
海はむっくり起きあがると突如、雄叫びをあげながら屋上の縁に向かって突進し始めた。
加速が今までと違った。
身体は信じられない程の動きを見せていたが、意識がそれについていかない。
これは練習をしないと無理だ!!身体が早く動きすぎる。
失敗する、そう思った瞬間、海の脚は最後のステップを踏んでいた。
死にたくない!!
次の瞬間、海は放物線を描いて空中を飛んでいた。
落下していく、が、思いの外、距離を稼いでいる、記念館の屋上の縁にぎりぎりの所だ。
手を思い切り延ばす。
肘から先が強い衝撃を受けた。
記念館の屋上の縁を辛うじて掴まえたのだ。
海は懸垂の要領で自分の身体をせせりあげ、ついに記念館の屋上に転がり込んだ。
全身汗びっしょりだった。
『空中で君は空気を相手にダンスを踊っていた。自分の身体をちゃんとコントロールできるようになれば、なんという事もない跳躍距離だったんだがな。』
煌紫がいつものように冷静に言った。
「ふざけるな、、これからどんどんやってやる、びびるのはお前の方になるぞ。」