6: 変身による実証
海はその日、自宅のマンションから一歩も外に出なかった。
スマホの電源は切ってあるし、窓のカーテンを引きマンションのドアは内側からロックをかけてある。
まるで逃亡中の犯罪者の心持ちだった。
ベッドの上には濡れタオルで丁寧にふきあげた白黒二体の、『人体の抜け殻』が広げてある。
内、白い肌の抜け殻には、大きなバスタオルが掛けられていた。
海がその抜け殻を正視するのに耐えられなかった為だ。
もう一つ、黒いなめし革のベルトのボンデージスーツの方は、あれだけ水気を含んだというのに、その形状や質感はまったく劣化しておらず、普通の獣皮で縫製されたものでは、ないように見えた。
海はその手で、かっては遊の頭部を包んでいたなめし革の全頭マスクをもてあそびながら、ぼんやりとそれら二体の抜け殻を、椅子に座って眺めている。
ただ、ぼんやりと言っても、放心状態にある訳ではない。
海の頭の中にある「声」との会話に没入している為に、外からはそう見えるだけの話だ。
「そろそろ、お互いに名前で呼び合おうか。どうやらお前は、俺に寄生しているようだから、宿主に対して海様と呼ぶのが妥当な気がするんだが、気位が高そうなお前のことや、そうは呼ばんやろ。しかしいつまでも、君とも言われたくない。こっちが生徒みたいな気分になるからな、、譲歩して海でいい。お前の事は、なんと呼ぶ?」
『ならば煌紫とでも呼んで貰おうかな、皇帝の紫だ。我々の体表の色の美しさは誇りだからな。』
サナダムシごときが何を大層に、と海は腹の中で思ったが、それを頭の中での声には変えなかった。
数時間に及ぶ頭の中での会話で、自分の内心の考えは、脳内中の交信であるにも関わらず隠し通せる事が判っていた。
勿論、それは相手側にも同じ事がいえるのだが、。
「煌紫か、、それでいいだろう。さて、それじゃもう一度、本題に戻ろうや。俺の姉さんの事だ。はっきりさせてくれ。今のままだと、俺は姉さんの為に、悲しんでさえやれない。俺の目の前で、姉さんは溶けてなくなったが、煌紫、お前は姉さんが今でもちゃんと生きていると言う。しかし遊姉さんが俺の記憶の中で生きているなんていう、ご託は聞きたくないぞ。そこをはっきりさせろ。」
『海、、何度も説明した筈だ。遊の全情報が納められているのは君の記憶ではなく、私の記憶巣だ。海、君は自分の常識から一旦離れて、私の話を素直に聞くべきだ。難しいだろうが、私の言葉をそっくりそのまま受け入れるべきなんだよ。』
「あの時、お前は遊を助けると約束した、、。」
『私には、記憶巣にある遊の全情報を肉体も含めて、完全に復元できる能力がある。復元されたものを、君が遊だと認めるなら、私は遊を助けた事になる。だが海は、その遊に直接会うことは出来ない。嘘を付いたわけじゃない。実際、この事一つの説明の為に、こんなに時間がかかっているんだ。あの時、ここまでの事を、海に伝える時間的余裕はなかった。私も遊も両方死にかかっていたからね。』
「なぜ生き返った姉さんに会えないんだ?現に俺はお前とこうやって会話してるじゃないか。」
『それも何度も説明しただろう。一つの肉体に宿る魂は一つだけだと。君は錯覚を起こしている。君は、君の頭の中で私の心が居座っているように思っているようだが、それは錯覚だ。これは海の身体の中に、私の身体が寄生しているから起こることなんだよ。私は私の自前の脳で思考しているんだ。もう一度言う。一つの肉体に宿る魂は、一つだけだ。』
「・・・煌紫は、俺の肉体をいじって、姉さんを再現すると言ったな。ならその時、俺の心はどこにいくんだ?」
『それも説明したろう、、。遊の全情報を、私の記憶巣に待避させたように、海の情報も一旦折り畳んで私が吸収する。遊と海、脳髄を丸ごとその度ごとに、君の身体の中で作り直す。入れ替えるんだ。海の脳に、遊の記憶を刷り込むわけじゃないんだよ。私には難しい事ではない。おまけに君たちを形作っている素材は非常に似通っているしな。』
「、、、、。」
姉を生き返らせるのと引き替えに、俺は寄生虫の記憶巣とやらに一時収納される。
多分、俺はもう一度、姉を消してしまわなければ、元の自分には戻れない。
もちろんこいつが言っている事が本当だったらの話だ。
突拍子もない話で、全てがデタラメに聞こえる。
単に自分は、精神に異常を来して下らない自演をしているだけの話かも知れない。
それとも知らない内に、俺はずっと前に寄生虫を抱え込んでいて、そいつが脳内に到達し、この情況のタイミングで錯乱を、、。
・・海は沈黙で応える。
『いい加減にしてくれ。私達は本来、自分の宿主と、こんな風に意志疎通するようには出来ていないんだ。会話が長すぎる。正直言って、こうやっている事自体が疲れるんだよ。それに君は本当の所、総て理解できている筈だ。ただこの現実を認めたくないだけなんだろう?』
「、、、、。」
海は、煌紫に再び沈黙で応える。
『判った海、こうしよう。君の心をこのままにしたままで、君の身体を遊に作り替える。バスルームに移動してみてくれ。そこでやって見せる。』
「・・やってみせるって、何を。」
煌紫は粘り強かった。
(さっき言ったじゃないか、君は人の言葉を聞いていないのか)とは言わなかった。
その代わりに煌紫はこう答えた。
『海は私の事を信用していない。自分の中に別の生き物がいると実感してさえ、その生き物のいう言葉に信用を置いていないのだ。だったら実際にその言葉が、いかに真実を物語っているかを示してみる他あるまい。もう一度いう、君の心は今のままで、君の肉体を遊の情報に基づいて、遊そのものに再構成する。それを見てから、君は私が今まで言って来た内容を、再吟味すればいい。身体だけなら元に戻せる、この体験による海のリスクは0だ。』
海は全裸になってバスルームにある鏡の前にたった。
『心配するな、遊への変容には痛みも熱感もなにも伴わない。正確にはそれらが伴って当然の肉体変容だが、君への苦痛は私が遮断する。いくぞ。』
それは実に急速に始まった。
甲という顔写真から、乙という顔写真へモーフィングするようなもので、なんの躓きもなく、実にスムースに変容が始まり終了した。
組織の成長や減退を急速に繰り返し、別の外見に変化するのではなく、二つの容貌の繋がりは水の変化の様にフラットなのだ。
あっけない行程だったが、結果は圧倒的だった。
海は遊に変容した。
変装や変身ではない、完全に遊に変容したのだ。
さすがに髪の毛の長さまでは、劇的な変容を実現する事は不可能だったようだが、遊の顔が、海が見つめる鏡の中に浮かび上がった。
「そっくりだ、、だが、姉さんじゃない。」
『当たり前だろう。遊の表情は遊しか出せない。海の目の前にいるのは遊の肉体だが、その心は海なんだからな。言っては何だが、海には遊のあの輝くような表情を作り出せない。表情とは単に顔の筋肉の動きではないんだよ。』
「、、、、。」
海は煌紫の最後の一言にショックを受けたようだった。
遊の余りに異様な死を目撃して、逆にその為に姉を失った事を実感できずにいた海が、その喪失に今、改めて気づいたのである。
姉が生き返るなど、トリックに過ぎない。
遊が描いてきた生の軌跡は、昨夜、あの時間に確実に断ち切られたのだ。
再び、その生が別の身体で再開されようとも、それは遊の生ではない。
断じてない。
命は連続性の中にこそあるのだ。
海はそう思った。
「もういい、元に戻してくれ。」
『いいのか?』
「いいんだよ、、。」
次の瞬間、鏡の中に現れていた遊は消え去り、代わりにそこには焦燥しきった海の顔があるだけだった。