36: 暗闘
香川杏子の講演が始まった。
ひょっとして香川杏子が、『これは私のボディガードよ』とボンデージを着込んだ黛真希を、自分の隣に立たせるのではないかと、海は危惧したが、香川もそこまでするつもりがなかったようだ。
海も、流石にこの姿で舞台に立つのは無理だと思った。
人体スーツ着用は不思議な心理的効果があって、初めそれを身に纏った時は、素っ裸で街中を歩いているような感覚があったが、暫くすると、その感覚は逆転し、全身に仮面を付けているような感覚になり素の状態以上に何でも出来るようになっていた。
だが、いくら何でも黛真希として、こんなボンデージを着て大勢の観衆の目に晒されるのは御免被りたかった。
幸いな事に、今、黛真希は舞台袖で観衆を監視している。
反対側の舞台袖には、極夜路塔子がいる。
海の耳に入れたイヤホンには、津久見が配置して警備員達の連絡が、常に入るから盲点はないといえばない。
同じように極夜路塔子の方も、今回は同僚警官達が講堂で張り込みを続け、彼女は逐次その連絡を受けている。
それに海には、煌紫がいる。
比留間達が間近で動き出せば、誰よりも速くそれを察知できる筈だった。
だが比留間は、姿を自由に変えられる。
狼男に河童だ。
当然、人間のまま、顔つきも変えられる。
春風祭には一般人も多く来る。
要は誰でも、この会場に忍び込めるのだ。
一刻も早く「共食い」の連鎖を断ち切りたい煌紫にして見れば、願ってもない機会だろうが、その相手を直接するのは海だった。
これで全てが終わるなら、派手に暴れ回っても良いが、海自身の本命は、あくまで香川杏子だ。
これは煌紫に対する義理立ての仕事だ、次に繋がる余地は残さねばならない。
それにここでは、銃も使えない。
海が自由に使えるのは玩具の様なトンファーだけだ。
人間相手には充分過ぎる武器だが、ハイエナ族相手には、大した役にも立たないだろう。
出来れば表向き比留間を阻止するのは、津久見警備の誰かか、あるいは警察か極夜路塔子であって欲しかった。
もっと言うなら、正体を現した香川杏子が、比留間を返り討ちにしてもいい。
それで香川杏子が正体を現したなら、自分は全ての悩みから解放され、人間に寄生した化け物を討つという大きな大義名分の元に復讐を完結できる。
いずれにしても、この会場で大きな動きが必ずある。
煌紫の情報によると、比留間達は陰謀など巡らさないで行動する筈だ。
チャンスがあれば、喰いに来る。
腹が減っているのだ。
その飢えを満たすためには、自分達が死んでもいいくらいに。
煌紫は、『私に任せろ、最後はなんとかする』と言い切った。
海には煌紫の思惑が全く理解できなかったが、こうなったら煌紫を信用するしかなかった。
聴衆だ。
その中にいる。
大学のスタッフだとか、周囲に顔が知れている人間達の中に、紛れ込めるような変身の力など彼らにはない。
使い慣れた比留間の身体を捨てて、この襲撃の為にだけ、他の人間に寄生しなおすという事もしない筈だ。
第一、彼らの寄生できる人間は限られているというのだから尚更だ。
ならば、この観客席の何処にいる。
奴らの運動能力なら最前列に陣取らなくても、中程の観客席からでも一瞬に襲撃を仕掛けられる。
二階席からでも可能だが、飛び降りてくる時に、その姿を大きくさらす事になる。
一階席は満員だ。
さすがに獲物に牙を掛ける前に、びっしり人が埋まった一階席で、ゆっくり自らの変態した姿を、さらすような真似はしないだろう。
第一、自分の前にいる人間達が邪魔になる、、もちろん、目の前の人間を全員殺すというなら話は別だが。
今日は、立ち見の客もチラホラと観客席脇の通路にいる。
俺なら、そこだ。
ステージに一気に駆け上がるために、邪魔になる障害物が少ない。
だが警備の他の連中は、そういう動物がするような襲撃を想定しているだろうか?
拳銃や、爆発物、を想定?
ある程度、増萬寺での情報も入っている筈だが、やはりそれを前提に出来るほど、増萬寺での襲撃は現実的な話だと彼らは思っていないかも知れない。
あの襲撃の実態を知っているのは、極夜路塔子と自分だけだ。
いや、中身を知っている人物がもう一人いた。
香川杏子もイザとなったら、比留間達の襲撃にマンイーターとして反応するだろう。
講演は続いている。
観衆は皆香川杏子の話に、魅了されて陶然となっている。
話自体はありきたりだ。
内容ではなく香川杏子の放つオーラに引き込まれているのだ。
『来るぞ!』
煌紫が突然、浮かび上がって来た。
極夜路塔子がいる側の観客席通路から、一人の立ち見客がステージ上に向かって走り込んできた。
もの凄いスピードだが、果敢にも彼の進行方向にいた警備員はそれに反応したように見えた。
いや反応するというより、せざるをえない。
本当は、この男の突撃から逃げたかったのだろう。
だが逃げる前に、この警備員は襲撃者の進路上にいる邪魔者として、八つ裂きにされたのだ。
警備員の動きは、暴力の突風に対する人間の生身の身体のはかない抵抗だった。
餌食になった彼を発見し、他の警備員達が特殊警棒やスタンガンを持って彼らの方に走って行く。
海はそれらの光景をまるでスローモーションのように見ながら、ステージ上の香川杏子に向かって走り出した。
パニックが生じかけている観客席の中程から、もう一つの動きがあった。
海が、それはないと、思っていた奇襲だった。
一匹の巨大なオオカミが、ステージに向かって中央通路を使って飛び出してきたのだ。
オオカミが人間の姿で座っていた席辺りの数人の観客は、無惨に血の吹き出た首を露わにして天井を仰いでいた。
単純な陽動だったが、この二人には驚異的な破壊力とスピードがあった。
海が香川杏子に後一歩というタイミングで、壇上に駆け上がっていた男は、第一の障壁である極夜路塔子に手をかけていたし、オオカミは今正に、舞台に駆け上がり極夜路塔子へ飛びかかろうとしていた。
この時、会場全体が暗転した。
誰かが会場の電源を墜としたのだ。
非常灯のグリーンだけが生き残っている。
完全な闇という訳ではなかったが、会場の混乱を加速するには充分だった。
あちこちの悲鳴のボリュームがさらに上がり膨らんでいく。
海の視野も一瞬だけ暗くなったが、それは直ぐに回復した。
闇でも問題ない。
この闇に、一発の銃声が響き渡った。
狙撃!?誰が誰に!
海の視野の中で、香川に襲い掛かろうとしていたオオカミの頭蓋が弾け飛んだ。
だがその頭蓋の中に、虫がいなければ、オオカミは死なない。
すこし向こうでは、極夜路塔子が殺され掛けていた。
「どうする?」
海は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ迷った。
だがその脚は、香川杏子の前を通り過ぎて、極夜路塔子救出に向かった。
視界の片隅で、香川杏子が薄く嗤いながら、頭部に銃弾を撃ち込まれながら自分の身体に覆い被さってくるオオカミの腹を蹴り上げている姿が見えた。
香川杏子の両手は、自分の頭部を守るように曲げられてはいたが、海の目には、それが演技である事が直ぐに判った。
たぶん香川杏子は、自分の両手で、相手を引き裂きたかったに違いない。
海はトンファーを引き抜き、極夜路塔子に襲いかかっている男の頭頂部を、その超絶的な遠心力を使ってぶち抜いた。
それでも男の手が極夜路塔子から離れないので、力尽くで男を引き離す。
極夜路から引き剥がされた男が、攻撃対象を変えた。
今度は、首が折れ陥没した頭をブラブラさせながら、海に組み付いて来ようとする男の体側に、胸まで届く高い回し蹴りをぶち込む。
男の骨が折れたのが判ったが、それでも男の身体の動きは止まらない。
「銃だ。やはり銃でこいつの身体の中の虫を仕留めないと無理だ!」
そう思った途端、目の前の男が、何かに激しく突かれたように跳ね踊った。
こっちらも狙撃されている!
素晴らしい狙撃精度だった。
飛来する銃弾は海をかすりもしない。
海の後ろ、つまり香川杏子の方でも、既にオオカミに対する連続した狙撃が再開されていた。
会場に電源が戻ってくる。
香川杏子の前に横たわっているオオカミは、集中した狙撃によって既にずだぼろの大きな毛布のようになっている。
銃声の回数と間隔から考えて、虫が、宿主から逃げ出す事は不可能だと思えた。
極夜路塔子を背中で庇う黛真希の視線の先に倒れている男も、胸部・腹部・臀部・太股など肉厚の部分は全て銃弾が撃ち込まれていた。
なぜかこの狙撃手は、宿主にいる虫の殺し方を知っていた。
そしてこの状況、、、、香川杏子自体が、囮だったのだ。
「煌紫っ!なんだこれは?!」
この闘いの間、煌紫は初めの警告以降、海の中に一度も浮かび上がって来なかった。




