35: 食人テロ
普通の大学祭は秋口に行われるのが常だが、天下の名門、帝都大学では「春風祭」と呼ばれる一大イベントが、もう一つ実施されていた。
この「春風祭」のメインとなる講演会のビッグゲストとして、香川杏子が招かれていた。
増萬寺での事件などを含めて、香川杏子が置かれている状況から考えれば、この講演会は、当然キャンセルされるべきだったが、彼女はそれを引き受けていた。
これが普段良くあるような講演会なら、例え大規模なものであっても、香川はそれをキャンセルしていたかも知れない。
比留間達の食人テロを恐れてというより、自分に対する大仰な警護態勢が煩わしいからだ。
その点では、このイベントも大学側から警護要請が警察に届けられていたから、大仰さでは変わりはなかった。
ただ今度の相手が、「若者」であるという事に、香川杏子は強く惹かれていたのである。
その気持ちは、食肉牛の飼育者達が、丹誠込めて子牛を育てるのと、よく似ていた。
香川杏子を崇拝する若い人間が多く育てば、その内の何人かの成熟した肉は、事の他、美味しいものになるだろう。
そして香川杏子の社会的地盤は、彼らの成長と共にますます強固なものになっていく。
香川杏子は、そう考えたのである。
大学の春風祭運営サイドが用意した控え室に通じる通路は、香川杏子の姿を捉えようとするマスコミ報道陣であふれかえっていた。
そんな彼らを威圧し遠ざけていたのは、警備の男達だったが、何を思ったか香川杏子は突然立ち止まった。
そして報道陣にその身体を向けた。
彼女の両脇には極夜路塔子と黛真希がいる。
二人とも質は異なるが、図抜けた美女だった。
香川杏子は、そんな二人を引き連れた自分の姿を、報道陣に見せつけたかったのだろう。
案の定、その瞬間、無数のフラッシュがたかれた。
極夜路塔子と黛真希は緊張した。
自分たちも写真に撮られている、、そういう事ではなく、こういった瞬間にこそ、報道陣に紛れ込んだ比留間達の奇襲が予測できたからだ。
黛真希は自分の腰裏に結びつけたトンファーに後ろ手に指をかけ、極夜路塔子はスーツの裏に隠した拳銃をいつでも取り出せるように少し身体を開いた。
「香川さん!ご自分の危機を顧みず今回の講演をお引き受けになったのは、どういうご心境なんでしょう!」
何処かの芸能レポーターが素っ頓狂な声を上げた。
「これからの世界を形作る若い人々に私の夢を語る、これほど光栄な機会は、またとない事ですわ。それは何事にも代えられない、栄誉ある機会ですもの。それにこの国の警察はとても優秀、そして警備会社もね。」
香川杏子が両脇を固める二人を紹介するように、両手をかるく広げた。
その途端に、又、カメラのフラッシュが激しくたかれる。
警備陣は、大仰なビデオ撮影クルーこそ、警護上の問題として規制を掛ける事が可能だったが、カメラや簡易ビデオの持ち込みまでは、抑えることが出来なかった。
「右側の女性の赤いボディスーツ、素敵ですけど、香川さんのデザインですか!」
「素敵なのは、彼女の方で私がデザインしたスーツではありませんよ。勿論、私のデザインは彼女の美しさを引き出す為にありますが。もう一人の彼女にも、私の服を着て欲しかったんですが、何しろこの国の警察はお堅いから。」
報道陣の中に笑いが生まれる。
「ああ、それと一つ、忠告ね。今、撮った二人の写真はメディア報道には使っちゃ駄目よ。一人は刑事さん、芸能人じゃないの。その意味、わかりますよね?もう一人の素敵な彼女は、私のデザインした服を着てるわ、正式発表前のね。ご自分一人で、この美しい女性達の姿を楽しむのはかまいませんけれど、、、。」
そう言いながら香川杏子が報道陣のある一角を見つめ、右手をあげ人差し指で一人の男を指さした。
「あなたに、言ってるの。あなたの顔にそう書いてある。これは行ける、今度の記事には、この二人の女達の写真を使おうってね。」
指さされた男の顔は引きつっているが、何とも反応が出来ない。
海千山千の男なのに、『失礼ですね。何を根拠に!』とも声がでない。
実際に思っていることを千里眼のように言い当てられたという事もあるのだが、それ以上に香川杏子から発せられる人とも思えぬオーラが彼を射抜いたからだ。
周りの人間達も、自分たちの中に銃弾を打ち込まれたように凍り付いている。
「では、皆さん。ごきげんよう。又の機会に、お会いしましょうね。」
そんな報道陣の反応に満足したのか、香川杏子は再び控え室に向かって歩き始めた。
人は言う、香川杏子が進む全ての道がランウェイなのだと。
だが香川杏子を並んで歩く、黛真希こと神領海は『このドS寄生虫が、』とそう思った。
極夜路塔子は『香川杏子が常に言ってるのは、私を見なさい、でも、それは私がそう思ったときだけ許されるのよって事ね。しかも、そのタイミングは彼女以外は誰にも判らない。この警護大変だわ。』と思った。
そして香川杏子の横顔を見、その向こうにいる黛真希を見た。
控え室のドアの左右に、極夜路塔子と黛真希が立っている。
少し離れた場所には、警備の黒服と私服警官が交互に立つという奇妙な光景も見られた。
だが見たところ、この講演会での警護陣容は、圧倒的に津久見警備総合会社のボリュームの方が大きい。
警察は大学側の要請を受けて香川杏子への人員配置を仕方なく受けたのか、それとももっと人員を出したかったのだが、今までの経緯や津久見警備総合会社との関係で、それが出来なかったのか、海には判らなかった。
「あなた、そんな高いヒールの付いたブーツ履いてて、脚痛くないの?」
極夜路塔子が苛ついた様子で言った。
初めてあった時から、極夜路塔子が黛真希に好意を持っていないのは明らかだったが、この会場におけると警察と津久見警備総合会社の落差の現実を見て、更に苛立ち、津久見に雇われている黛真希を攻撃するつもりになったらしい。
「全然。」
「遠回しに言っても分かんないのね。そんなの履いて警護が出来るの?それにその服、私なら香川杏子に、これを着ろって命令されても、警護の邪魔になりますからって断るわ。」
真希の表情は変わらない。
「、、それにそのトンファー。解る?空手着を着てるわけでもなく、扇情的なそのボディスーツ、つまり、それぺニスのメタファーよ。女を馬鹿にしてると思わない?」
「それが香川杏子の戦略なんじゃないかしら?」
「戦略?あなた、何処から見てもセックスドールよ。恥ずかしくない?」
「全然、平気よ。それよりあんた、良く喋るね。」
極夜路塔子は知らないが、海は海として彼女と一度会話をしている。
その時とは、随分、極夜路塔子から受ける印象が違う。
勿論、今回、極夜路塔子は、海の事を同性で、しかも同じ任務につく人間としてライバル視している。
故に彼女の態度は違って当然なのだが、中身が男である海にしてみれば、前の極夜路塔子の方に若干の好感のようなものを抱いていた。
「単なるお喋りじゃないわ、コミニュケーションの一つよ。いざとなったら一緒に動くんでしょ?あなたが暴漢に襲われた時、右に逃げるのか、左に逃げるのか、それとも怖くなってその場にしゃがみ込んでしまうのか、それくらい知っておきたいの。」
「そう、なら覚えておいて、私なら香川杏子を庇って私の身体を盾にする。どこかの間抜けみたいに、みすみす相手を取り逃がす様な事もしないわ。」
そう言いながら、どうしてこんな言葉がすらすらと自分の口から出るのか海は不思議に思った。
これも女性の皮を被っている効果の一つなのだろうか?
「ひょっとして、あなた、それ増萬寺の事言ってるの?」
『そうだ』と思わず言いかけて海はひやりとした。
海が増萬寺の件を知っているのは、海として香川杏子からハイエナ族を退ける為に現場に居たからで、警察の警護の失敗を、人伝に聞いて知っているという浅いレベルではない。
そのまま、この調子でやり取りを続けていけば、「それを何故知っているの?」という局面までいく可能性が大いにあった。
それとも極夜路塔子は、そういう事まで考えた上で、感情的な会話を自分に振っているなら、相当なものだと海は思った。
「猪飼から聞いた範囲じゃ、あの時、警察はそんな感じだったんでしょ?」
海は辛うじて、誤魔化しに成功した。
「猪飼ねぇ。あなた、あの男と寝たの?」
「なんで、そんな発想になるわけ?」
「あなたは、全然、ボディーガードなんか似合わない。要は、危機に瀕したヒロイン香川杏子のマスコットガール件、マネキンでしょ?あなたはあなたで、それを足がかりにタレントか何かの次のステージに昇る。その美味しい関係を用意してくれたのが猪飼、、違う?」
見事な勘違いだが、傍目にそう見えても不思議ではないし、真希と猪飼の関わりを考えると、持ちつ持たれつの構造自体は、それによく似ている。
これは真行寺慎也が、自分に見せた勘違いと、まったく一緒だと思った。
なぜ、そういった勘違いが起こるか、、つまり人々が、寄生虫の存在を、まったく論外のものとして考えているからだ。
思えば香川杏子に寄生している虫も、人々のこの勘違いの陰でのうのうと、その生を堪能しているわけだ、と海は思った。
しばらくして迎えの大学生と大学側の職員が連れだってやって来た。
香川杏子は、その対応を、春風祭を実施運営している大学生単独に任せられるような位置づけの人間ではない。
VIPなのだ。
試しにと、大学生達が講演を打診したら、あっさり香川杏子からOKが出て、慌てふためいたのは大学当局だった。
だからこの講演で、大事があっては大変だと、警察に警護要請をしたのも大学当局だった。
そんな大学生と職員を分け隔てなく、気さくに喋りながら、香川杏子は講演会場の講堂に向かって歩いていく。
言いたい事を言うが、分け隔てはない。
だから誰もが、香川杏子のカリスマに見せられていくのだ。
『だが、そいつの正体は、グロテスクな人殺しの寄生虫だぜ。』と思いながら海は、香川杏子の側に付かず離れずの位置で歩いていた。




