30: ボディガードへの勧誘
海は三日ほど自宅に戻らず、転々と移動しながらビジネスホテルを泊まり歩いていたが、その間、警察の捜査の影を感じることは一度もなかった。
更に比留間達の動向を探ろうと結構目立った行動をとった時にも、海には自分が監視されているという感覚はなかった。
そしてやはり今回も、増萬寺の小川で等々力に殺された刑事の報道は、一切無かった。
猪飼から呼び出しがあったのは、増萬寺での事件があってから一週間後の事だった。
今、二人は、レストランで食事をしている。
海は居心地がわるい。
服装はいくらなんでもライダースーツという訳にはいかないので、フォーマルなスーツを身につけているのだが、それがしっくりこないのだ。
ドレスにしてもスーツにしても、スカートという物にどうしても馴染めなかった。
それに猪飼は、海に「女」を、感じ始めているようだった。
これが一番、始末におえない。
海の中身は完全に男だからだ。
そして男だからこそ、猪飼が女性としての自分に感じている欲望が、手に取るように判る。
「いい加減に、用件を切り出したら?まさかこの後、他の女にするような手順を踏もうと思ってるわけじゃないんでしょう。私は酔いつぶれたりしないし、ホテルへも行かない。」
海がフォークをさりげなく置いて切り出す。
「随分なものの言いようだね。たしかに本件に移る頃合いではあるが、、。その前に、そろそろ名前を教えてくれないかね、お嬢さん。いつまでもお嬢さんではやりにくい。」
猪飼が真っ直ぐ、海の目を覗き込むように言った。
この男、相当阿漕な事をして来ている筈なのに、目が澄んでいるのが不思議だった。
それに危ない世界に生きる男特有の色気のようなものがある。
「こちらはちっともやりにくくないけど。名前が必要ならそっちらで決めてくれてもいいわ。」
「香川様は、あの娘は神領遊というモデルの親戚だと仰ってた。遊の母親の血筋は黛と言うらしいね。」
猪飼は、遊に変身した海のことをそう推理していたようだ。
「黛がいいなら、それでもいいわよ。」
「下の名は?」
「真希。」
とっさに何故か、真行寺真希の名前が浮かんだ。
それにいずれこの話は香川にも伝わるだろうから、この名が香川に対する一種の当てつけになるだろうと海は思ったのだ。
香川は、真希も殺している。
「真希か、良い名だ。では黛君、さっそく用件に入らせてもらうよ。」
猪飼は今までの会話など、どうでも良いように用件を切り出し始めた。
それは自分の所属する警護会社へ、海を雇い入れようとする内容だった。
ただし雇用期間は、警護会社が香川杏子と契約を結んでいる間だけの臨時雇用だ。
「、、、つまりこの私が香川杏子のボディガードに当たるってわけ?」
「そう。役に立たなくていいボディガードだ。もう気が付いていると思うが、この話を私に持ちかけてきたのは香川様本人だ。我々にして見れば、お前達の警護では、役不足だと言われているようなものだから、不本意なのだがね。それに。」
「それに、黛真希は香川杏子の命を狙っているかも知れない、でしょ?」
「その通りだ。相手に過去のトラブルを示談で済ませるような態度を取り金を巻き上げておいてから、恨みを晴らすってのも、いくらでもありうる。」
猪飼は香川杏子と遊との間に何かがあって、それを知っている黛真希が、香川杏子を脅し、尚且つ恨みに思っていると捉えているようだった。
例の一千万の金が、その示談金代わりだと思っているのだ。
裏に寄生虫が関わっているとは、夢にも思うまい。
その意味では、香川杏子の単独行動は、彼女の思惑通りに運んだのだと言える。
まさか、あの一千万が増萬寺襲撃事件に繋がっているとは考えもしないだろう。
「それでも貴男は私を誘ってる。それは私を手元に置いておく方が、色々便利だから。もしかしたら敵をずっと見張ってられるからって発想なの?相当な自信ね。」
「それもあるが、何より金が入る。香川杏子が君に対して支払おうとする報酬は相当なものだろうが、この契約が成立すれば、その報酬の4割は、うちが戴く。」
「4割!そんな虫の良い話を聞いて、貴男の会社に雇われる馬鹿はいないわ。」
「いいや、君はきっとそうするだろう。いや、そう言ったのは、香川様だ。あの子は私が頭を下げても、私のボディガードにはならないだろうとね。何かそういう意地があるのだと。でも片一方で、何故か私を何かから守りたいとも思っていると。だから因縁のないお前が動けば、あの子の気持ちは揺れる筈だと仰った。」
図星だった。
しかし香川杏子は海のこの奇妙な心理を、何故、理解しているのだろう。
香川杏子の、海に対しての背景理解は不完全な筈なのに。
増萬寺の件だけで、そこまで推測したと言うことか。
確かに、あの時、背中の中に隠した拳銃は香川杏子を狙うためのものではなかった。
だが猪飼は、増萬寺の件を何処まで理解しているのだろう。
「簡単に言えば、黛は誰にも邪魔をされずに、自分の手で香川杏子を殺したがっているとでも?」
「香川様はそこまでは仰っていない。私はそれに近い状態だと思っているがね。」
「それでも香川杏子は私を手元に置きたい?」
「それくらい君の事を気に入っている。それと当面の敵を、君は熟知しているようだ。それも大きい。」
猪飼は自分の部下から、比留間の変身した姿を報告として受けている筈だが、それをここで持ち出すつもりはないらしいい。
どこまで何を知っているのか、食えない男だった。
「どちらにしてもこの話、私にはメリットが少なすぎる。」
「でもないだろう。私の会社に雇われれば、君は香川杏子のスケジュールや、その他諸々の警護上必要な情報を得られる。外にいては、何も判るまい?殺るにしても守るにしてもだ。」
煌紫ならこんな場合、どんなアドバイスを送ってくるだろう、、煌紫は寄生虫がらみと海の身体に差し迫った危機が訪れない限り、滅多に浮上してこない。
「あなた方は、むちゃくちゃな条件で私を誘ってる、、私の方にも条件があるわ。それを呑むんなら、この話考えてもいい」
「言ってみたまえ、黛真希君。」
「一つ、当然の事ながらこの契約は香川杏子のボディガードに限っての事。二つ、勤務形態、勤務時間については私との協議に置いて決定すること、勿論、週休二日とか馬鹿な無茶をいうつもりはないけど。三つ、行動の決定権もこれに準ずる。四つ、私の警護活動上の技術向上にあたって協力を惜しまないこと」
「要するに形上は雇われてやるが、中身は好きにさせろという事だな。いいだろう、上出来だ。我々も、お嬢さんにクライアント警護上の戦力を期待して、この話を持ちかけている訳ではないかなら。こちらの言う事を聞かないからといって、給料を減らしたり首にしたりはしないよ。」
自分の言った事に多少の面白味を感じているのか猪飼はにやりと笑った。
「しかし最後の警護活動上の技術の向上ってのは一体なんだい?」
「闘いの為のノウハウと訓練、、」
「銃の撃ち方だとかだな?確かに150万出しても使いこなせなきゃ意味がない。・・・銃に限らず、いろいろと教えてやれるよ。我々には、普通に生活をしている人間には思いも付かないような、いい教師が大勢いるからね。それが我が津久見警備総合会社の自慢だ。それにお嬢さんは筋がよさそうだ。香川様にその技術を使って貰っちゃ困るがね。早速、、、この後、どうかね。就職祝いだ、銃を好きなだけ撃たせてやる。その他、銃以外でも本部に戻れば、色々出来る。」
「酔い潰されてホテルに連れ込まれるよりはましそうね。銃は自分のを使いたいから、合流先と時間を前の取り引きのようにメールで30分後に指定して。じゃ、ここはこれで終わりね。」
猪飼は如何にも、残念そうに肩をすくめて見せた。
しつこく女に追いすがらないような、自制心はあるようだった。




