3: ポラロイド写真
海は赤い木橋の側まで接近するとオートバイのライトを消し、エンジンを切り車体を押して歩いた。
雨上がりの澄み切った夜空に満月が冴え冴えと輝いていた。
だが幸いなことにその光は、常緑樹の枝振りが作り出す陰の中を進む海の姿までは照らし出せないようだった。
木橋近くの木陰にオートバイを止めると海は、橋の脇から川辺へと降りた。
偵察をするつもりだったのだ。
幸い川の水深は浅そうで、所々飛び石もあり、全身が丸見えになってしまう木橋を渡らずに、ログハウス風の大きな別荘まで、川を渡って接近できそうだった。
それでも肌を斬りつけるような水が、ライダーブーツから染みわたってくる。
その冷たさが海の冷静さを回復させ「なぜオレはここまで来て警察に連絡しないんだ」という何度目かの自問を繰り返させた。
「警察を呼ぶなら姉さんはそうしているはずだ。それが出来ない事情がきっとある。だからオレに助けを求めたんだ。」
それも海自身が用意してきた何度目かの答えだった。
だからこうして映画に登場するようなスパイもどきの行動を海はとっている。
川底からはい登り、屋敷前の前庭件駐車場になっている空き地に出た海は、腰をかがめて暫く蹲っていた。
姉の遊は、犯人達が屋敷を離れたと言っていた。
そして二度目のメールがあったのは、今から少し前だ。
屋敷の中に、犯人達がいない可能性は高い。
でもいたら、、、あるいは自分が屋敷に侵入した直後に帰ってきたら、、と考え、躊躇していたのだ。
だがそれは数秒だった。
迷えば迷うほど、その経過時間によって救出の為の可能性が減っていく。
海は動き出した。
物事を決めるまでは慎重だが、一旦、決めたら果敢に行動する。
それが海の性格の一面でもあった。
誰に似たのかは判らない。
父親ではないだろう。
海の父親は優柔不断を絵に描いたような男だった。
前庭を屋敷の玄関まで最短距離で通過出来るコースを頭の中で描くと、地面を蹴る音も気にせず、海は全力疾走した。
そしてドアの前にかがみ込んで張り付き、その耳を押しつける。
何の物音もしない。
試しにおそるおそるドアノブに手をかけ、それをゆっくりとまわしてみる。
驚いたことに、ドアノブは一度だけ柔らかい抵抗をしめした後、カタンと解錠した音を立てた。
てっきり施錠されていると思っていたドアが普通に開いたのだ。
海は、このまま内部に侵入することを決心した。
罠という事も考えたが、この施錠もされていない無防備な正面玄関の状況は、罠と呼ぶにはあまりにもふさわしくないような気がしたからだ。
実際それは、この屋敷を最後に出た拉致者が、施錠し忘れた結果だったのだが、、。
その拉致者は、真行寺真希へのすざまじい拷問行為で得られた快感で、一種の酩酊状態に陥り、家を出る時は施錠するという、実に単純な人間の生活習慣を忘れていたのだ。
開けた玄関の隙間から、身を滑り込ませた海は、奥に続く廊下の壁に背中を張り付けた。
玄関のすぐ裏がロビー形式になっている構造なら、海の姿は丸裸で隠しようもなかったのだろうが、中の暖気を逃がさない設計になっているのか、玄関からすぐ先は一旦狭まった廊下になっていた。
その廊下は暗かった。
深い奥行きを見せる廊下のかなり手前の部分に、一本の細い縦の光が見えていた。
どこかの部屋のドアが閉まりきらずに、少し開いているのだ。
海はとりあえず、そこまで進むことにした。
上がり框から廊下に上がる時に、濡れた泥だらけの土足で上がって良いのか?と一瞬考えた自分を、海は嗤った。
そして上がり框側に置いてある傘立ての中に、練習用らしきゴルフクラブが突っ込んであるのを発見し、それを抜き取って前に進み始めた。
海は小学校低学年の頃、その女性的な容貌を理由に虐められ家に逃げかえった事があった。
たまたま在宅していた祖父の宗一郎に見つかり、お前に落ち度がないのら虐めた相手を殺すつもりでやり返して来いと言われた。
海は棒切れを掴んで、相手の家に忍び込み、不意を付いてその子供を滅多打ちにした。
祖父が、何よりも、誰よりも怖かったからだ。
海は直ぐに家人に取り押さえられたが事は大きくならかった。
周囲の大人達は、この地域を支配する神領家の力の大きさを知っていたからだ。
ただ子供達の中では、そんな大人の事情など通用するはずもなく、この件で海への虐めはますますエスカレートしていったのだが、前と違って、今度は海が迷わず反撃するようになった。
そして虐めは直ぐに止まった。
理由は簡単だった。
子ども達にも、本気になった時の海の怖さが充分に分かったからだ。
今度は大人達がこう言った。
「神領の海はめんこい顔して腹が座っとる。ありゃ鬼っ子じゃ。宗一郎様に似たんだよ」と。
海は光の漏れていたドアの隙間から、部屋の中を盗み見た。
部屋の奥にはシングルベッドが一つ、その上には女性用の衣服や下着が乱れて散らばっている。
よく見るとバッグも転がっていて中身が散乱していた。
そして写真が床中に散らばっている。
ポラロイドカメラの写真のようだ。
息を殺して室内をもっとよく観察しようとした海の身体が暫くして、凍り付いた。
しかし次の瞬間、海はその部屋に飛び込んでいた。
部屋の床に、ずたずたになった女性らしき裸体が横たわているのを見つけたからだ。
その身体は嫌というほど痛めつけられていたが、手足が長く、くびれた胴が見せる均衡美だけは損なわれていなかった。
海は膝抱えに、その女性の上半身を抱き上げる。
その弾みで、女性が握っていたスマホがその手からこぼれ落ちた。
見覚えのあるスマホ。
それは姉の遊が使っていたものだった。
「姉さん!!」
顔中にまとわりついた髪を掻き取ってやる。
素人目にも事切れているのが判ったが、海はその腫れ上がった唇の側に、自分の耳を持っていって息を確認した。
絶望と怒りと恐怖が急速に膨れ上がってきて海を押し流そうとしたが、ある認識がそれを止めた。
『この女性は違う、、よく顔を見ろ、、顔が潰れて想像がつきがたいが、彼女は遊じゃない。』
海が絵画を専攻し、中でも人物をよくした美大生であった為か、それとも海がことあるたびに姉の遊の顔を想い抱いていたからか、このような状況でも、その女性の顔を遊ではないと判別したのである。
それどころか海は、自分がかき抱いている壊された女性の元の姿を思いだしていた。
「・・・真希ちゃん。」
真行寺真希、遊が特に親しくしているモデル仲間で、海も彼女を紹介されている。
それどころか万事に積極的な真行寺真希から、デートの申し込みを受けた程だった。
もっとも二人は、親密な関係を構築するまでには至っていなかった。
真行寺真希は、あこがれの遊の男性版ともいえる海を、遊の代用品として欲し、一方、海は、その理想の女性を、遊以外には認めていなかったからだ。
海はしばらく、混乱した頭で周囲を眺めていた。
この状況は一体何だ、、、?
何が起こっているんだ?
床に散らばったポラロイド写真に視線を落とした。
そこには拉致者が真行寺真希に加えた凄まじい性的暴力の証拠が残っていた。
『、、、そいつは真希ちゃんを痛めつける度に、彼女の姿を写真にとって、彼女に見せつけていたんだ。』
海は真行寺真希の頭をそっと床に降ろしてやると、側に置いてあったクラブをひっつかんで猛烈な勢いで、その部屋を飛び出していった。
もう一刻の猶予もなかった。
姉の遊を、どんな事をしてでも助け出す。
真行寺真希の死骸が、海の暴走スイッチを叩き込むようにして押したのだ。
海は、目の前にあるドアを次々となんの躊躇いもなく開き、電気を付けていった。