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異蟲界、倒錯の知的パラシートゥス  作者: Ann Noraaile
第3章 蠱毒の女王
28/67

28: 川太郎の襲撃


 加藤刑事は能舞台を遠くに眺めながら、表情には出さなかったが、今回の任務について、子供のように、ふて腐れ、いじけ、苛立っていた。

 何故、こんなチンケな警護任務に、この俺が回されるのか、おまけにここには問題児の極夜路までいる。

 これじゃ、まるでここに回されたのは、役立たずだからだというレッテルを貼られてるようなもんだろうと。


 時々、風向きの加減で、夜風に乗って流れてくる女どもの化粧品の匂いだけが、加藤刑事の慰めだった。

 しかしこんな山際の警備位置に回されては、間近に拝めると思っていた一流ファッションモデル達の生の姿も味わえるかどうか疑問だった。

 圧倒的に女性の比率が多い観客席に、女性の刑事達が配備されるのは合理的だが、こんな場所には香川が契約しているという警備会社の下っ端どもで十分の筈だ、、と加藤の愚痴思考には際限がなかった。


 加藤は時々、山側の黒々とした藪を見る。

 本来は「時々」ではなく、山側からの侵入を防ぐために彼が配置されているわけだから、十分な監視が必要だったのだが、加藤はそれをしなかった。

 つまらないという事も大きかったが、ここから見える山側の光景は彼の田舎を思い出させたからである。


 自分の足下数メートル下には、小川が流れているのを加藤は日の高い時間に確認している。

 そんな川のある場所も、郷里の自宅近くにはあった。

 しかも川太郎とかいう河童の伝説のおまけまであった。

 加藤は、それらを懐かしんでいるのではない。

 憎んでいたのだ。

 田舎を捨て都会に出てきて、自分は本庁勤めとはいえ、何故、うだつの上がらない万年平刑事をやっているのだろう?

 部署で嫌われ者のあの極夜路さえ警部補なのだ。


 果てしなく続いていく加藤刑事の愚痴と不満の思考が、ふと途切れた。

 足元にある筈の小川から、魚の跳ねるような音がしきりにしたからだ。

 加藤も一応は、刑事である。

 異変を感じ取る感覚と、それに対応しようとする心は持っていた。

 心の隅で、加藤が幼い頃、思い描いた事のある川太郎の姿が一瞬、浮かび上がった。

 苦い笑みを浮かべて、それでも加藤刑事は小川に降りてみる事に決めた。


 境内があれほど明るいにも関わらず、小さな崖を少し下っただけで、周囲は真っ暗になった。

 闇にまだ目が慣れていないという事もあったが、境内に施された照明が、ショーアップ用のものであり通常の照明とはまったく違うことが大きかった。

 加藤刑事は、この任務に入る前に貸し出されたペンライトを胸ポケットから取り出す。

 ショーの邪魔にならないようにとの配慮だったが、ペンライトの光源は余りにも頼りなかった。


 魚が跳ねるような音は、ますます強くなり、今では違う物音に聞こえた。

 加藤刑事は携帯無線のスィッチを押すかどうかを考え始めた。

 仲間にこの状況を知らせて、応援を呼んだ方がいいのかも知れない。

 しかし、全くの見当はずれなら加藤は良い笑い物になる。

 ここに召集された刑事の中で、この任務を重要なものと捉えている者などほとんどいないのだ。

 表面上は真面目にやっているが、みんな本来の仕事に戻りたがっているのだ。


 そんな状況の中で、些細な事を騒ぎ立てたとなったら、、、。

 もうすこし見極めてからだ。

 それにイベントが既に始まっている。

 先ほどからアジアンティストのワールドミュージックのようなものが、境内に流れ出していた。


 しかしこの加藤刑事の判断は、間違っていた。

 小川の水面を頼りなく舐めていくペンライトの小さな光の輪が、縦長で楕円形の甲羅のようなものを捉えたのだ。

 川太郎!

 、、、突拍子もない連想が、浮かんだ。

 次の瞬間、それが水中から立ち上がった。

 それは紛れもなく川に住む怪物だった。




『待て、行くな、海!今はそのタイミングじゃない!』

 煌紫が叫んだ。

 しかしその時には既に海は、身を潜めていた藪から飛び出していた。

 斜面下にある小川まで一直線に駆け下りていく。

 ショーは既に始まっており、境内にいる殆どの人間の注意は能舞台とその袖にある小さな縁台に集まっていたから、只でさえ速い海の動きは誰の注目も引かなかった。

 しかも境内に流れる不可思議なリズムの音楽の音量は思いのほか大きく、海が立てる小さな物音も彼らには当然届く筈がなかった。


 小川の中で、一人の男が怪物に殺されかけていた。

 縁もゆかりもない、たった今、見つけた人間だったが、彼が殺されるのをほっておける訳がなかった。

 暴力に犯されている人間を、見て見ぬ振りをする、すなわちそれは、その暴力に荷担することと同じだという事を、海は今までの経験の中で知り尽くしていたからだ。

 さらに海には、通常の人間を超えた力がある。

 力ある者の値打ちは、その力をいかに行使するかによって決められる。

 それはきれい事ではない。

 その事を忘れた者は、その力自身によって自ら腐り朽ち果てていくのだ。


 海は、大の男をぼろ雑巾のように振り回している怪物の背中に向かって、斜面を駆け下りてきた加速を使い、跳び蹴りを放った。

 普通なら、この一撃で相手は倒れる。

 人間相手なら、過剰すぎる海の渾身の攻撃だった。

 だが怪物は一瞬、よろめいたものの、倒れはしなかった。


 背中にある甲羅のようなもの、いや甲羅に変化した背中の表面が、海の跳び蹴りの衝撃を吸収したようだ。

 怪物の甲羅にはじき飛ばされる恰好で、小川に着水した海はすばやく体勢を整える。

 海に正面を向けた怪物の胸部と腹部には、背中にあるような甲羅のようなものがあった。

 ただこちらの方は、背中のそれより少しは柔らかそうに見えた。

 先ほどまでこの怪物に囚われていた男は、川の中に投げ出されている。

 かなりの重傷を負っているようだが、死んではいないようだ。


「ここに来るのに、川底を這ってきたのか?なりふり構わずってやつだな。」

 海が小さな声で、呟くように言う。

 怪物には、その声が聞こえている。

 まるで深海魚の頭部を人間の顔に組み替えたような怪物の顔が、瞬く間に歪んで、より人間らしくなる。

 意識してそうしているのではなく、人間の言葉を聞き、それを理解しようとすると、肉体がそんな風に自動的に反応してしまうのだろう。


「チカドウノナカデアッタヤツダナ」

 辛うじて人間のものとして成立した声がそう答えた。

 その答えからは、目の前に居るのが、比留間兄弟の兄なのか、弟なのかは判らない。


『海、この状況で闘うのは無理だ!』

 煌紫が話しかけてくる。

 言われなくても判っていた。

 せっかく用意した拳銃も背中に背負ったままだ。

 バックパックから拳銃を取り出すまで、比留間が、いやハイエナが待ってくれるとは、とうてい思えない。

 体力勝負でも勝ち目はないだろう。


 比留間のすさまじいばかりの変身ぶりを見れば判る。

 殺戮を効率よく実行するためにだけに特化した変身。

 人間の姿に戻るのも難しいくらいの変容を遂げている。

 もうハイエナは、宿主である比留間の身体の事など考えていないのだ。

 その時、水中に半身を沈めていた男の手が、何かを求めるように動いた。

 そして男の紫色の唇が震えた。


「くそたれ、、。」

 男の執念だった。

 その動きに気づいたのは、比留間も同じだった。

 比留間は身体を斜めに開き、少し動いてさりげなく片脚を上げ、それを男の頭部を踏みつけるように下ろした。

 ボコンという鈍い音がした。

 その時、海は恐怖で動けなかった。

 瞬く間に、水面に黒いものが広がっていく。  


『銃だ!あの男の腰の辺りに銃があった。大丈夫、ハイエナはまだ銃に気づいていない。奴は男の動く気配に反応しただけだ。』

 煌紫が言った。

 海は男が殺される瞬間(いや実際にはもっと長くなのかも知れないが)、目をそらせたが、煌紫は冷静にこの状況を観察し続けていたのだ。


『やれ!銃を拾うんだ!やるしかない。黙って殺されるつもりか!』

 その叱咤に反応して、海の口から雄叫びが放たれる。

 そして海は、比留間に向かって突進した。

 比留間が突き出してくる鋭利な爪の生えた手刀を上半身のひねりで辛うじてかわし、比留間の立ち位置とその場所を交換する形になった海は、上半身を下に倒して、その反動で自分の踵を夜空に向かって跳ね上げる。


 狙いとしては、その踵の先に比留間の顎があるはずだったが、すでにそこには何もなく、代わりに海は、自分の足首を比留間に握り込まれていた。

 そして比留間は、海の足首を支点にして海を川面に叩き付けた。

 海は空中を半回転させられ、川面に激突した。

 咄嗟に手を突き出して、その衝撃を防ぐが、身体は既に水の中にあった。

 そしてその側には、頭部を踏みつぶされた男の死骸があった。


 そこからどうやって、その死骸から拳銃を抜き取り、再び比留間に向かい合ったのか、海自身よく覚えていなかった。

 おそらくその自失した数秒間は、煌紫が海の動きを補助したのだろう。

 川から起き上がった海は、比留間に腕を突き出し、刑事のリボルバーの撃鉄を引き起こした。

『初弾はどこでもいい。ただし、始めに頭を撃ったなら、次は首だ、その次は胸、、、決して同じ所を狙うな、、、』

 煌紫の言葉がよみがえった。



 刑事達に戦慄が走った。

 同僚が最後に送ってきた無線には、死の匂いがしたからだ。

 刑事達は大なり小なり人間の死と向き合った経験がある、無線が送ってきた音、そして沈黙は、その経験を刺激した。

 極夜路は、自分と一緒に要人警護に当たっている女性SPの顔を見た。

 緊急時に持ち場を離れる事が出来る刑事は、そうはいない。

 この人がいるから自分は動ける、極夜路はそう判断した。


 この場での指令系統のトップは、誰か判っていたが、その人物の指示を待っている間に状況は悪くなる。

 臨機応変の判断が、どの刑事にも求められていた。

 だが上からの指示は降りてこない。

 判断ミスによる、失態を恐れているのだ。

 更に上の指示を待っているのだろう。


 極夜路は、歯がみした。

 これだから・・・。等々力事件、日本平事件、苦い思い出が胸を刺す。

 極夜路は、独断で走りだそうとした。

 そのぎりぎりのタイミングで、上司から加藤刑事支援の指示が極夜路に降りた。

 その上司にして見れば、指示そのものが誰もやりたがらない「貧乏くじ」であることを、極夜路は判っていたが、だからどうだと言うのだ。


 極夜路の身体に、火が付く。

 やるだけだ。

 極夜路は警備の中から割り裂かれた5人の警官と共に、加藤刑事が警護に立った箇所に急行する。

 しかし、それは現在も続行中のイベントに影響を与えるような大きな動きではない、そう上に指示されたのだ。

 この後の展開によっては、「何故、イベントを中止してでも救出に出なかったのか」と、責任を問われるケースも起こりうるかも知れない。

 問責、、、それはあんたの持ち分よ、と極夜路は上司の顔を思い浮かべた。


 極夜路のそんな思いをかき消したのは、極夜路たちの動きをいち早く察知し、数名で追いかけてきた民間の警備員達の動きだった。

 意志決定の手順にしても、機動力にしても、この民間の方が、自分の所属する警察より遙かに上回っていると極夜路は思った。


 現に彼らは、既に、強力な指向性を持つ懐中電灯で、崖下の小川を照らし出している。

 極夜路が自分の持たされているペンライトの非力さに悪態を付いている間にだ。

 極夜路は、この備品に付いて上司に意義を申し立てていた。

 普段なら、同時進行で行われている行事への配慮など、ほとんどしないくせに、政府の要人がそこにいる・警護の難易度が低い、というだけで、このペンライト、、だった。

 しかたなく極夜路は、民間の警備員達が使うライトの光の輪を追った。


 そこに突如、加藤刑事を襲った厄災のステージが浮かび上がった。

 小川の中で対峙する一人の青年と得体の知れない怪物、そして青年の足元近くに倒れている加藤刑事。

 極夜路がヒップホルスターから拳銃を抜くのと、自分たちを照らし出した光源の方向へ、怪物と青年の顔が向くのとが同時だった。

 青年の方は、自分たちに放たれた光の強力さから、とっさに目を守ろうとして自分の顔を二の腕で遮る。

 怪物の方は、睨み付けるように、こちらを正面から見上げた。

 怪物の猫の目のような瞳孔が、一瞬にしてしぼまる。


 極夜路は、酷く動揺した。

 一瞬かいま見た青年の顔に見覚えが、と思った瞬間、あらゆる思考が蒸発してしまうようなグロテスクな怪物の顔が、彼女の意識に刻印されたからだ。

 それでも極夜路は、銃を構えた。

 だが、他の警官達が極夜路が銃を構えたのにならって、銃をベルトのホルスターから抜き終わる頃には、既に怪物と青年の姿は光輪の中からかき消えていた。






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