27: 増萬寺へ
煌紫の言った通りだった。
海は猪飼から、遊の姿で、足の付かない真性拳銃を実弾と共に150万で手に入れた。
猪飼は拳銃購入の理由を、何も問わなかった。
怖くなるほど簡単に手に入った銃だが、当然のことながらそれを携帯するのは簡単ではなかった。
万が一、警官に職務質問をかけられ所持品検査にでもなればどうにもならないからだ。
それに海は、復讐を誓った昔のように、大胆な行動はとらなくなっていた。
うまく言葉には出来ないけれど、自分には復讐以外にまだやるべき事が残っているような気がし始めていたのだ。
とにかく、今、警察の厄介にはなりたくなかった。
それでも煌紫は、香川杏子の周辺に近づく時には拳銃を携帯するようにと海に強く主張していた。
その日も背中に背負った小型のバックパックの中に、布に包んだ拳銃を忍ばせていた。
夕暮れが迫った海岸線沿いの遊歩道をランニングする海だが、数十メートルおきに立っている警官に目礼をしながらも、その心は常に背中に背負った拳銃に向いていた。
『そろそろ増萬寺の裏手だ。目の前にある公園を抜けて、山の中に入る頃合いだよ。』
煌紫が浮かび上がってくる。
今夜、増萬寺では薪能とファッションショーが同時に行われる。
薪能とは、野外で行われる能や狂言の舞台公演のことだ。
薪能は、神社仏閣・御苑・城跡など静かで広い敷地があり、かがり火を焚くことができる場所で行なわれるが、それに目を付けて、ファンションショーをジョイントさせたのが香川杏子だった。
増萬寺へ通じる遊歩道に立つ警官達は、このイベントの警備に当たっている。
「増萬寺に抜ける山越えの道に警官がいたらどうする?今度はランニングしてますとは言えないぞ。」
『それはないね。』
今夜、増萬寺で行われる杏ブランドの「薪能ジョイント杏」と名付けられたイベントには、何人かの女性要人が招待されている。
その為の警備陣だが、表参道の警備体制に比べて海岸にせり出した寺の側面にあたる地域には、申し訳程度の人員しか配置されていない筈だった。
完全な警備を目指すならこの場所が大きな穴となるが、警察にはそれを気にしている気配はない。
つまり警備自体がデモンストレーションなのだ。
それには、ある理由があった。
この警察警備の主な対象は、香川杏子ではなく、リベラルで過激な言動で知られるある一人の政府女性要人であり、この警備の強化が行われたのは、彼女が右翼団体を強く刺激する発言をつい最近行った事に原因があった。
現在ではさほど目立たなくなった右翼を殊更に攻撃対象に選び、自らの先進性を顕示しようとする彼女だが、彼女自身の家系には、右翼の大立て者がいるという経緯もあって、彼女がそうして見せる事は、大衆にとって充分見るに値するパフォーマンスになっていた。
当然、右翼団体は反応する。
というより彼らは世間の手前、反応せざるを得ないのだ。
だがこの国の右翼は、昔のように過激ではない。
上手く運営できている組織であればあるほど、テロ行為等は決して行わない。
右翼としての見てくれ上の行為の総ては、デモンストレーションであって、実利は別の部分にある。
そしてそれは、警護する側の警察にも共通する内情だった。
なのにである、この女性要人はそんな右翼の動きを、さも蔑視、軽視していると言わんばかりに、この時期再び加熱し始めていた領土問題に絡めながら、自分の挑発ともとれる自由奔放な動きを、更に加速させたのである。
香川杏子主催のイベントに参加する際にも、先の大戦中、特殊な役割を果たした増萬寺の過去を引き合いにだして、言わなくて良い事まで言って、右翼団体を刺激し続けていた。
『ここには警官なんていないさ。普通の人間で獣道しかない山越えをして、増萬寺に抜けようとする者はいない。我々の世界の戦いは、警護する方も危害を及ぼそうとする方も、その目的と手段が人間とはまったく異なる。警察など関係ない。それは何度も確認して来たことじゃないか。』
今は完全に、煌紫と海の立場が逆転していた。
等々力を追い詰めている時には、海が無茶を主張し、煌紫がそれを諫めていたものだ。
煌紫は今夜、ハイエナ族が香川杏子を襲撃する可能性が高いと踏んでいた。
ハイエナ族は日本平のケースを考えても判るように、自分たちの存在を隠しながら得物を狙うという事に拘らなくなっているようだった。
いざとなれば宿主を変えれば良いというハイエナ族固有の発想もあるのだが、それ以上に自らの内に膨れ上がってくる「飢え」に抗しきれずにいるのだろう。
そういうハイエナ族にとって、周りが自然だらけの増萬寺は恰好の襲撃ポイントになる。
たとえ香川杏子が警護陣のど真ん中にいようが、その身体ごとかっさらって、山の中に引きずり込めばいいのだ。
彼らの目的は、身代金目当ての誘拐ではないのだから。
海は藪の中の傾斜を登り始める。
二本の脚だけではなく両腕両手も使うので、その姿はましらのように見える。
いや見えるだけでなく、ましら同等に移動速度が速い。
「ところで煌紫は、何故、銃にこれほど拘るんだ?」
『前にも言ったろう、今の海ではハイエナにかなわない。』
「それは聞いたさ、俺が知りたいのは何故、銃なのかってことだよ。それって銃の使い方にも関係してるんだろ?。」
『ファイ種に寄生された人間をしとめるのに、その心臓や脳を破壊しても意味はない。寄生虫自体を殺さなければならない。我々は人間の身体の中をかなり自由に動き回れる。それも相当素早く。中でも線虫形態のファイ種の移動能力はずば抜けている。サイズと形状が違うんだよ。大きな線虫をイメージすればいい。一番最初の攻撃で人間の身体の中にいる寄生虫にダメージを与えられれば、それはラッキーだと言える。そうでなければ、寄生虫の潜む場所を探している間に、君はファィ種にやられてしまう。いいか、初弾は何処でも好きな所に撃ち込めばいい。だが二発目からは着弾位置をずらすんだ。頭を最初に撃ったのなら、次は首だ。首の次は胸。胸の次は腹。同じ所を撃ってもまったく意味はない。破壊された肉体部位には我々は近付かない。そういう攻撃を矢継ぎ早にやる。どうだ?銃以外にそんな速攻攻撃は出来ないだろう?もっとも普通の人間には、これさえ難しいだろうが、海ならその程度の事は出来る。』
「銃の意味は判ったが・・・自信がないな。いくらお前が能力を上げてくれたこの身体でも、相手はどうぞ撃って下さいって言ってるわけじゃないんだ。それに相手はハイエナだぞ。」
『心配するな、数秒くれたら、この私が相手の潜む位置を教えてやれるようになる。』
「同属殺しだぞ、本気なんだな?それにその快楽波とやらは、直接相手に噛みつかなくてもいくらかは出るんだろう?煌紫は多少なりとも、間接的にその味を知っているんだからな。それに耐えられるのか?」
『・・・ああ本気だ。それに私の場合は喰いたいから、殺すわけじゃないし、直接、手をかけるのは私ではなく海だ。それが快楽波へのフィルターになる。それもあって、君と組んでいる。他の知的パラシートゥス属では、この仕事は出来ないだろう。我々は今のところ、快楽波に耐えて共食いを止められる唯一の存在なんだよ。』
数分後、海は増萬寺境内に設けられた能舞台と観客席、そしてモデル達が待機する巨大な臨時テントが見渡せる斜面に辿り着いた。
斜面の真下には小川が流れている。
篝火と効果的に配置された夜間照明が境内を幽玄に浮かび上がらせている。
会場のある向こう側からは、夜の藪の中に潜んでいる海の姿は見えないだろう。
海は観客席にいる顔ぶれを見定めようと目を凝らす。
そうする事によって実際、海はとてつもなく遠くにあるものをはっきりと見る事ができるのだ。
一種のズームレンズのようなものだ。
観客席の中でも、他からは区切られ能舞台がよく見える特等席と思える区画に、香川杏子がいるのが見えた。
特別席の中を優雅に移動している、どうやら挨拶回りをしているようだ。
そんな彼女を守るようにして一緒に動き回っているビジネススーツ姿の女性の顔を見て、海は一瞬凍り付いた。
それは極夜路だった。
そして更に視線を移すと、この大がかりな警備体制の元となった女性要人の側には、明らかに他の人間達とは違うオーラを醸し出しす顎のがっしりした大柄な女性が座っていた。
噂に聞くSPという存在かも知れなかった。
その女性の耳にも極夜路の耳にもイヤホンが差し込まれている。
警察は第一級の警備体制を引いているのだった。
そして更に視線を引いてみると、黒服の男達が境内のあちらこちらに点在しているのが判る。
これらの男達の雰囲気は、どこか私服警官とは言えないような剣呑なものを漂わせていた。
津久見警備総合会社の男達だった。
彼ら中身は、訓練されたヤクザだ。
この警備は民間と公が合同で行っているのだ。
そして能舞台から少し離れた闇の中で立って、海のいる方向を睨み付けている黒服の男がいる。
猪飼だった。
まさか猪飼に海の姿が見えている筈はなかった。
猪飼は寺の正面を警察が押さえている限り、攻撃があるとすれば海が潜んでいるこの方向しかないと考えているのだろう。
落ち着いたら拳銃をバックパックから取り出そうと思っていた海はそれを諦めた。
尋常ではない警察と猪飼らの合同警護の迫力に気圧されたのだ。
いくら拳銃を持っていても、彼らに遊びは通じない。
そしてもし、この警備網の中にハイエナ族が飛び込んできたら、阿鼻叫喚の生き地獄が展開されるだろう。
海は身震いした。




