26: スクランブル交差点
香川屋敷の駐車場まで、海を案内したのは猪飼だった。
左の頬骨の上に大きな絆創膏が貼ってある。
さすがにサングラスはしていない。
獅子鼻でがっしりした顎、目はサングラスで今まで判らなかったが、意外に大きい。
猪飼の様子は、初めて会った駐車場の時となんら変化がなかった。
海を送り出すために、猪飼を呼んだ杏子の彼に対する態度も同じだった。
二人の間に挟まって、むしろ居心地が悪かったのは海の方だった。
「ご免なさい、貴男の怪我、私のせいね。」
「、、、筋が違いますよ。それによくある事だ。こういった事も含めての、報酬を戴いている。」
「SM?」
「私はマゾではないが、香川様はサドで間違いない。正真正銘のね。」
猪飼は淡々と言ってのける。
海の気まずい思いを救うかのように、屋敷の長い廊下が途切れ、二人は駐車場に着いた。
駐車場には海のオートバイが止めてあった。
シートの上には預けていたヘルメットが置いてある。
「なぜ私とオートバイを切り離したのか、なんとなく判ったわ。もしかしたら私、都会の神隠しみたいに、ここで始末されていた可能性もあったのね。」
「お嬢さんとは、暫くつき合いが続く事になりそうだから言っておく。香川様の機嫌が良い内に、お遊びは切り上げた方がいい。タイミングを外さなければ、少しは甘い汁も吸えるだろう。香川様はそういうお方だ。自分の引き際を、いつも考えておく事だね。」
「アドバイス、ありがとう。」
海はヘルメットを取った。
ヘルメットの中の匂いをさりげなく嗅ぐ、男の匂いはしなかった。
海は自分が男性であるのに、男性が不潔な生き物であると生理的に思いこみ初めている矛盾にまだ海は気が付かなかった。
「どういたしまして。今後は忠告通りにしてもらって、私に余計な手間をかけさせないでくれたら有り難いんだがね。」
猪飼はそう言い終わると、今日はこれでおしまいだという風に、オートバイのキーを海に投げて寄越した。
香川との取引の窓口は、猪飼だった。
取引の場所を駅前の大きなスクランブル交差点のど真ん中に指定したが、その事について猪飼はなんの反応も示さなかった。
しかしその取引相手に、直接香川杏子自身を指定した途端に、それについては少し返事を待ってくれと言って来た。
結局、約24時間が経過した後に、猪飼から連絡があって了承を得た。
おそらく猪飼は、取引の現場には自分が赴くつもりで、その案を杏子に打診し打ち消されたのだろう。
香川なら『面白そうじゃない、相手は素人の若い女性、私一人で充分』だとでも言っていそうだ。
香川杏子は、彼女の裏の顔を知る猪飼の前で、いつも通り「人間として強い女」で押し通すつもりなのだろう。
トラブルの処理に関して、露呈するかも知れない自分の人間離れした部分を、カンの良い猪飼に悟られたくないのだ。
その為にこのケースについては、出来るだけ猪飼を遠ざけておく必要が、香川杏子にはあったのだろう。
大量の人々が、足早に行き交う交差点のど真ん中で、海は香川が運んで来たキャリングケース上部のジッパーを開いて、その中にある札束を素早く確認した。
側には、垢抜けたスーツを着こなした香川が女王様のように泰然と立っている。
それはある意味、シュールな光景だった。
「日本平を殺したのは、比留間健一、等々力寛治の検死チームの一員だった男よ。」
瞬間、香川杏子の顔つきが変わり、次に手にしていた車付きのキャリングケースの取っ手から、自分の手を放した。
取引は成立した。
キャリングケースの中身が、一部の見せ金を除いて総て似せ札であっても問題はない。
海に必要だったのは、香川杏子に比留間健一という名前を知らせることだったのだから。
海は杏子の持ってきたキャリングケースを引き継ぐと、そのまま前に進み道路を渡り終えた。
杏子は、とっくの昔にヒールの踵をアスファルトに突き刺すようにして、その場を立ち去っている。
スクランブル信号が赤に変わるのと同時に、こうやって全ての取引は完了したのだ。
取引を終えてマンション戻った海は、全身を覆うライダーズジャケットを脱皮するように脱ぐと、下着を取って、今度は本当に「遊」から脱皮した。
体型を男のものに戻す。
手慣れたものだった。
数分とかからない。
それぞれを丁寧に、クローゼットに仕舞いながら海は煌紫を呼び出した。
「うまく引っかかって、用心してくれるだろうか?」
海は念の為、マンションの窓から通りを眺め、尾行の有無を確認する。
尾行があるとすれば、猪飼配下の人間だろう。
取引先からの帰路と同様、特別、問題はなさそうだった。
『うまく行くよ。実際に比留間は日本平殺しの実行犯なわけだしね。それに彼らは人間の犯罪者のように、自らの犯行を隠すための工作には執着しないから、香川杏子が比留間を捕捉するのは時間の問題だろう。』
「自信過剰のマンイーター族に、やりっぱなしのハイエナ族か。」
『海は、ハイエナ族、いやファイ種が何故、やりっぱなしになるか判るかね?』
「寄生虫だからだろ。」
煌紫に対して、差別的な物言いだと判っていながら、海はそう言った。
『・・・ファイ種は、宿主を簡単に代えるからだよ。いざとなったら宿主を変えれば良いと考えるから、宿主の身体を守ろうとする意識が希薄になる。』
「前に、ハイエナどもには寄生できる人間に制限があるから、奴ら人間を殺すことに抵抗があると言ってなかったか?」
『言ったが、殺そうとしない事と、守ろうとする事はイコールではない。・・・それに我々、同属の殆どが、いざとなれば人間以外の生き物にも寄生出来る。まあ、大きさや諸々の制限はあるがね。、、勿論、寄生して旨味のある生き物は人間しかいないんだが。とりあえず生き延びるには、他の生き物でも急場はしのげる。そして適合する人間を見つける。ファイ種は、その辺りの拘りは、もたないんだ。』
「煌紫、お前もか?」
海は少し動揺した。
最近、少しは身近な存在に変わり始めた煌紫が、また遠いものになった。
『勿論、寄生出来るよ。ただ、やれるのとやるのとでは大きな隔たりがある。その辺りのハードルの高さが、種によって違うということだ。』
「、、、、香川が比留間に辿り着いて、その本当の正体に気が付く可能性は?」
『交戦状態になれば、相手の正体がすぐに判るだろう。キー種とファイ種とでは、私とキー種がそうだったように知見度が違うからね。上からは下が楽に見える。しかし香川杏子が比留間兄弟の存在を知ると言うことは、比留間兄弟にとっても都合がいいんだという事を頭に入れておいた方がいい。もし香川杏子が、直接彼らに接近してきたら、比留間らはそれを返り討ちにして、香川を喰ってしまえばいいのだから。香川の社会的な力は、比留間兄弟より遙かに上だが、生き物同士として対面したら、どちらがどうとは言えない。』
「両者の直接の顔合わせは、俺達にとっては、あまり望ましくないってことだな。猪飼のような人間が、比留間を始末してくれれば一番いいわけだ。」
『それはそうだが、、、今の所、香川は比留間が同属である事を知らず、人間だと思っている。だから自分の手で、直接彼らを始末しようとするかも知れない。なんと言ってもキー種の最高の喜びは快楽殺人なのだからな。それに、比留間のような叩けば埃の出る身体の人間は、殺しやすいし、後始末も簡単だ。つまり比留間は、香川にとっても快楽を得るための絶好の得物ってわけだ。私は香川が比留間を殺すだけで満足して、その中身に食欲を感じないように祈っている。』
海は、日本人は蛸を食べるが、内陸に住む西洋人は蛸を悪魔の魚として、それを食べようとはしないという話を思い出すと共に、香川の比留間に対する気持ちを考えてみた。
「又、快楽の為の殺人か、、、比留間を殺すのは、等々力らの復讐の為ではないのか?」
『海、、、前にも言っただろう。我々と人間を同じに考えるなと、我々には復讐という観念はないのだ。ただ、自分たちのグループが持っていた筈の力の一部としての等々力らを、比留間にもぎ取られたという感覚はあるだろうね。だから、もうそれ以上の侵略を許さないという判断は、ありうるだろう。』
「逆に言えば、比留間達が自分たちの正体を明かし、今日から俺達は香川杏子の傘下にはいるともし言えば、そうなる可能性もあるということか。」
『まさに、その通りだ。ただしその前に、香川は、彼らを殺す楽しみと利用した時の効果の大きさを天秤にかけるだろう。しかしどちらにしても、両者の歩み寄りの可能性はゼロに近い。比留間達の方は、何よりも、もうあの食欲を押さえきれないだろうからね。』
「・・・猪飼に頑張ってもらうしか、ないわけか。」
『それと、もう一つの方法がある。』
「俺達が比留間らを仕留めるってか、、、仇の命を助ける為に、俺が自分の手を汚すのか、、」
『君が、じゃない。寄生虫の世界と、人間の世界の混乱を防ぐために、われわれが、手を汚すのだ。』
着替えも終わり、すっかり元の姿に戻った海は、床に無造作に置いたキャリングケースを眺めた。
『ところで手にいれた1千万、何に使うつもりだね?』
寄生虫の煌紫が金の使い道の心配をするのは不思議だったが、海は煌紫がそれだけ人間に近い感覚を持っているのだと判断した。
煌紫いわく、香川も人間にとっての金の価値を充分に理解しているが、それはゲームのルールを知っているレベルに過ぎないという。
だから1千万もの金を事も無げに用意したのだと。
因みに当然ながら、知的寄生虫達には経済活動はないという。
「今の所、金には不自由していない、実家からの仕送りというか、分割払いになった手切れ金があるからな。」
海の口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
『だったら拳銃を買いたまえ、その他の武器も必要だな。ファイ種は手強いぞ。いくらこの私が強化した海でも、素手では勝てないかも知れない。』
「・・・・本気かよ。第一、銃なんてどこから手に入れる。この前の工作用のスマホだって手に入れるのに相当苦労したんだぜ。」
等々力との連絡用に足の付かないスマホを用意する必要があったが、その時は遊の姿でそれをやった為に、相当苦労したのを海は思いだしたのである。
入手の交渉の経過で、遊の身体を求めて来た男もいたくらいだ。
『猪飼がいるじゃないか。彼なら銃ぐらい簡単に調達するだろう。もう一度、遊の姿で彼から買えばいい。』
猪飼統九郎・・津久見警備総合会社が年間契約で香川の元に派遣したボディガード主任。
その昔なら、津久見組の若がしらと言った所か。
津久見警備総合会社自体、組織暴力団のフロント企業であり、あろう事か警察OBを多数抱えるという極めて異様な会社だった。
「どう持ちかければいい?見当もつなかいよ。」
『おいおい、あの類の人間が、わざわざ銃を買いに来る人間に、その使用目的を聞くと思ってるのか?』
「顔見知りで、しかもこっちと香川杏子の関係を、かなり知っているんだぜ。いろいろ勘ぐるに決まっている。」
『だったら、尚更だ。向こうに好きなだけ、こっちが銃を買う理由を想像させとけばいい。いいかね、猪飼は香川の子飼いの部下じゃないんだ。香川に忠誠心なんか持っちゃいないぞ。彼は自分に有利に物事が運ぶことしか考えちゃいない。彼はきっと海が銃を手に入れた状況を、上手く利用しようとするはずだ。遊の姿をした海の事を甘く考えてる、銃を持たせても自分ならこの女を上手くコントロール出来るとね。だから猪飼は、必ず銃を用意するよ。』




