25: ダウトゲーム
イギリス風の庭園が一望できるように、壁が総てガラス張りになっている。
海が、サングラスの男に伴われて、この部屋に入った時、香川杏子は、そのガラス張りの壁を背にして革張りのソファに脚を組んで沈み込んでいた。
海はこの時はじめて、普段着でドレスを着るような女性に会ったと思った。
「お連れ、いたしました。」
「ご苦労様、猪飼。失礼はなかったでしょうね?」
香川杏子が優雅にソファから立ち上がると、二人に近付いてきてそう言った。
後の問いかけは、海と猪飼の二人が対象なのだろう。
「実に紳士的な誘拐でしたわ。」
猪飼が答えないので、海がそう答える。
香川杏子は楽しそうな表情で海の顔を見つめている。
「思った通りのお嬢さんね。気が強いだけじゃない、ミステリアスでチャーミング。お名前は?」
遊に化けた海の姿は、遊の完全なコピーと言うわけではない。
身体の表面に数ミリの厚さを纏っている訳だし、露出する眼球や口内は、元から遊に似ているとは言え、海の物であって遊とは別物だ。
人はその差をぎりぎりの所で、感知判別し損ねる。
だが香川杏子には、それが解っているようだ。
「、、、、。」
海は香川杏子の問いには応えず、視線を、2メートルほど離れた位置にとっている猪飼の方に泳がせた。
「猪飼、このお嬢様は、貴男がいると、どうも寛げないみたいね。」
「そう言われましても、この場を離れるのは難しいですね。正直申し上げて、その娘、少し危険な匂いがする。」
その途端、香川杏子のきつい眉のカーブの端が更につり上がる。
「無能なボディガードは嫌、でも気の利かないボディガードはもっと嫌い。」
香川杏子はその表情に反してフワリと言ったが、猪飼は微動だにしない。
すると香川杏子は海の側から、ついと動いて、猪飼の目の前に立った。
次の瞬間、パァーンという乾いた音が聞こえたかと思うと、猪飼は床に顔を覆いながら跪いていた。
香川杏子の右手が手の甲を上にして斜め上の空間に、まっすぐ上がっている。
その指先から赤黒い液体が流れ落ちるのが見えた。
「おさがり。」
その冷徹な言葉に、猪飼は頬を押さえながら従った。
猪飼の指の間からは血が流れ出していた。
それでも猪飼は自分のハンケチを、香川が血を拭えるよう差し出した。
その後、頬を押さえながら退場した猪飼を見送ると、香川杏子は何事もなかったように海の側に戻ってくる。
「今のを見て悲鳴も上げないし、顔色も変わっていない。確かに普通のお嬢さんじゃないみたいね。」
「貴女も普通の女の子には、そんな姿を見せないんでしょう?」
「お前は、誰?」
杏子がハンケチで拭き取れきれなかった、指輪にこびり付いた肉片と血を舐め取りながら言う。
広大なテリトリーの中に、もう一つ設けてある本当の自分の領域に踏み込んだ者にだけに見せる杏子の顔。
「お前・・遊じゃないのは確かね。等々力はまだ遊が生きているかも知れないとか、間抜けた事を言ってたけど、私には判っていたわ。あの子は、死にかけていた。それにそんな大事な時間に、私たちは遊の側を離れた、、、その原因を作ったのが等々力。そんな間抜けなんて殺されて当然、、よね?」
海の表情は、動かない。
怯えはなかった。
腹の底が熱い、この女に対する怒りだった。
復讐の念というより理不尽なものに対する怒りだった。
その怒りに反応したかのように煌紫がせり上がって来た。
正体を隠そうともしない香川杏子の様子をみて、自分の出番を感じたのだろう。
「・・まあそんな事はどうでもいいわ。ニッペイはちょっと残念だったけど。さあ、もう一度聞くわ。お前は誰?」
『決して答えるな。この女は顔には出さないが、遊にそっくりな君の登場に困惑しているんだ。しかし海の正体を拷問にかけてでも知りたいとは考えないだろう。この女は、自分のデータベース能力に誇りを持っているからな。例のキー種特有の思い上がりだよ。この女のデータベースは、世界中の電子情報の流れから汲み出されたもので、彼女の記憶巣に格納されている。この女は自分がそれを自由に操れると慢心しているんだ。それなのに、目の前にいる遊にそっくりな女の正体が分からない、、。実は混乱の極みの中で、海に話しかけているのさ。』
のぞき込むように香川が顔を近づけて来ると、杏子の目尻には年相応の微かな皺があるのが判る。
だがその切れ長の大きな肉食獣のような目の光が、彼女の顔に忍び寄る老いの印を総て焼き払っていた。
しかしそれ程、海に近付いているのに、香川には疑似植物の人造皮膚も煌紫の存在も感じ取れないようだ。
香川の舐めるような注視のさなかに、煌紫との会話を続けるのは、何か不思議な気がした。
『それに今、この女は、引っかけの為の当て推量を喋ってるつもりでいる。内容は事実だが、普通の人間なら、それを聞いても理解できない筈だと思ってるのさ。罠だよ。自分の話の何処に、相手が反応するのかを見てるんだ。ほっておけ。君たちがよくやるポーカーゲームと同じだ。』
「本当のことを言いながら、口からでまかせを言ってるように見せてるって、それなら自分たちの正体が寄生虫だってことまで、喋るんだろうか?」
『それはない。彼らは、自分の寄生については絶対ばれていないと思いこんでいるからな。それに変な言い方だが、彼らは、自分が寄生虫である事を忘れている。』
「・・それは少し困ったな、それだとハイエナ野郎達の事を説明してやるのが難しくなる。」
『なんだ?君は、その対処法も考えないで、彼らに迫った危機を伝えてやるつもりだったのか?』
「そこは同じ寄生虫同士、煌紫がなんとかすると思っていたからな。」
『馬鹿な、、、今、我々同属に起こっているこの変化を正確に理解しているのは、私を除いては比留間兄弟だけなんだぞ・・・海は寄生虫の存在については一切口にするな。実際、表面上、色々な事件を起こしたのは、人間の身体なんだ。あくまで一連の事件は、人間達が起こした出来事、それでいくんだ。』
「判った。お前は、神領に略奪婚される前の遊の母親が産んだ子だね?それなら辻褄があう。お前が遊にそっくりなのはそのせい。等々力が言ってた女も、お前だろう?」
海は突然、横っ面をひっぱたかれたような気分になった。
母親は神領家の次期当主・暦によって、一人の男から略奪され、跡継ぎ用の子どもを孕まされた。
海はその子供が、自分と遊であることを既に知っていたし、更に神領の身勝手さによって、家を継ぐことの出来ない遊と、用済みになった母親が、神領家から放逐された事も知っていた。
だが、その母親にもう一人の子どもがいるとは知らなかったのだ。
それに神領家の略奪婚の内幕を知る人間は、極わずかな筈だった。
全くの赤の他人である香川杏子が、それを知っているとは。
『馬鹿な事を考えるな。さっき言ったろう、この女はデタラメを喋っているんだ。海の家の事情を知っているのは、それを遊から聞き出していたからだ。だが、遊は自分にもう一人の姉妹がいるなんて全く知らなかった。この女のデタラメに振り回されるという事は、女の罠に落ちるということだぞ。』
煌紫の忠告は、少し遅かったようだ。
海の内心の動揺は、その表情に既に現れていたようだ。
香川杏子の観察眼は恐ろしく鋭い。
「図星かしら?まあもし当たっていなくても、かなり近い所ね。所で、貴女、何故私の前に姿を現したの?何が目的?」
「香川杏子の作るものが好きだから。ファッションショーに来る目的に、それ以外のものがあるかしら?」
香川杏子が突然、お腹を押さえるようにして上体を折った。
そして爆発するような甲高い笑い声を上げた。
それは狂騒的ながらも、艶やかな姿だった。
「、、、、ご、ごめんなさい、貴女が余りにもおかしな事を言うものだから。私のショーにライダースーツでやって来たのは貴女が初めてだし、、。第一、私、自分の作ったものに愛着がないのよ。あんなものに集まって来る人間の気持ちが本当は判らないの。」
『今の言葉の後半部分は本音だ。キー種には人間の創造力や作り出す美が理解できないからな。それどころか本当は金銭感覚すらないんだ。キー種は香川杏子の才能を操っているに過ぎない。』
珍しく煌紫の言葉には非難の色があった。
「これからどうしたらいい?」
煌紫の言葉を聞いて、海は今後の展開を煌紫に預ける事にした。
力勝負ならとにかく、寄生虫相手の心理的駆け引きが、人間に上手く出来る訳がない。
『キー種が一番良く理解している人間心理は、欲望と恐怖だ。というより、それに惹かれて彼らは人を喰う、、。この場合、香川杏子が一番理解しやすいのは、君が彼女を強請に来た人間像を演じる事だ。思い出してみたまえ、それで等々力がいとも簡単に君の誘いにのっただろう?』
「・・・私が貴女の周りでうろうろしてたら、その内、貴女の方が私を見つけだすだろうって自信はあった。こんなに早くとは、思わなかったけど。」
香川杏子は直立したままの海を中心に、その周りをぐるぐると歩き出す。
品評会に出された家畜を値踏みする目利きのようでもある。
「よく判らないわね。普通、復讐者の行動ってもっと、秘めやかなものじゃないかしら?」
「私は身内の復讐なんて、興味ない。あなたの命に関わる情報を持ってるの。それを1千万で買わない?」
1千万、とっさに思いついた金額だ。
これと言った根拠はない。
だが、言ったすぐ後から後悔した。
額が多すぎたのか、少なすぎたのか?
相手が人間なら、この金額の事を考える。
自分の犯した罪と、それから逃れ続ける為の代償と、そして今の生活、、それらがこの金額でつり合うのかどうかと。
「今、復讐と言ったろう?やっぱりお前の正体は、遊の関係者だね?」
香川杏子が満足げに、ニンマリと笑う。
煌紫の杏子に対する分析は正しいようだった。
金額には、まったく反応しない。
更に、おそらくこの様子では、1千万もの大金を強請ってきた相手の正体に対しても、杏子は自分の下した推理だけで、対処し続ける可能性が大だった。
キー種に共通する過度なまでの己の能力に対する過信、これは、攻略する側から言えば、都合が良いといば、これほど利用しやすいものはなかった。
ただし「攻略する側」に居続けられるならば、という前提付きだが。
「お前、どこまで知ってるの?」
香川杏子が再び罠をかけるべく動き始めるが、海は今日の所は、ここまででいいと判断した。
「そんなこと、私が口を噤ぐんでさえいれば、あなたには何の影響も出ない事じゃないかしら。1千万円はその口止め料も込みよ。」
強引に話をまとめようとする海だが、香川はそのペースには乗ってこない。
「等々力の時も、ニッペイの時も、遊の弟、神領海がうろつき回ってた。彼とは貴女、どういう関係?何も知らないなんて言わせないわよ。」
「一人で動いていて、今みたいな状態になったらどうする事も出来ない。さんざんいたぶられて殺されて終わり。私が危なくなったら、もう一人が動くって事かしら。保険みたいなものね。血の絆は強いわ。」
「あら?警察は一時、日本平殺しの犯人は、神領海じゃないかとまで考えていたのよ。」
海は自分を尋ねてきた極夜路と、名乗る女刑事の事を思いだした。
「神領海は日本平を殺していない。神領海が日本平の周りを嗅ぎ回っていたのは、私がそれを命令したから。彼のお陰で、私は貴女にとっても、重要な情報を得る事が出来たわ。」
「等々力を本当に殺した相手の正体も知っているっていうことなのかしら?」
「、、、、報酬と引き替えに、ある名前を教えてあげる。あなたならそれだけで、みんな判るんじゃないかしら?」
「今、この場で、私がお前の口を無理矢理割らせたら?」
「あなたは、そんな事は絶対にしない。」
「どうして、そう思うの?」
「それはあなたが、香川杏子だから。」




