24: 睥睨する女王
世界に名だたるカリスマファッションデザイナーであると同時に、企業ブランド「杏anzu」の総帥でもある香川杏子。
海が、彼女を自分の身近な人間として認識し始めたのは、社会的には失踪人となってしまった姉の身辺整理を始めた頃だった。
煌紫が、「香川杏子は遊と真行寺真希を拉致監禁した三人の内の一人だ」と海に指摘したのは、それよりもう少し後の事である。
神領家から母親に引き取られて育った遊が、母親の死後、トップファッションモデルに上り詰めたのは、純粋に遊自身の努力だったが、その前後から遊の後見人のような立場をとりながら、遊を陰ながら支援していたのが香川杏子だった。
失踪中の遊に代わって、彼女の財産管理や住宅についての諸々の処理は、総て香川杏子の代理人が行っていた。
一度ならず、海は遊の身近な親戚として、この代理人と打ち合わせさえしているのだ。
代理人からは、折に触れ、香川杏子が神領遊を如何に厚遇してきたかを聞かされたものだ。
そんな状況の中、「遊を釣り上げたのは後見人のふりをした香川杏子」だと、煌紫から聞かされた海は再び怒りの淵に沈んだ。
これだけの体験をしてきた海でも、母親ないしは保護者のイメージを使って遊に近付いたという香川の手口に対する激烈な怒りは、押さえきれるものではなかった。
海自身、遊とのデート中、何度も「素敵な憧れの人」として遊の口から香川杏子の名を聞いていたから、尚更だった。
その香川杏子が、スポットライトを浴びてステージの上から会場を眺め下ろしていた。
普通ならこの会場を占める多くの女性達の興奮は、ショー自体が終わってしまった今、冷却期に入る筈だったが、挨拶に立っているのが香川杏子だったために逆転現象が起こっていた。
一種の熱狂状態が会場を包んでいる。
香川杏子は、同性が成功を納めた時に、どうしても感じてしまう女性特有の妬みや嫉妬心を遙かに超えるオーラを全身にまとっていた。
正真正銘の女王には、総ての「民」がかしずくのだ。
杏子の視覚認識力は尋常ではない。
観客席を一目で見回した瞬間に、一人一人の顔を認知する。
視覚的なインデックスを持つ巨大なデータベースが彼女の頭の中、いやキー種の中で常に稼働しているのだ。
それが人間には、俗に「女王の目」と呼ばれる香川杏子のまなざし、あるいはオーラとして感じられるのだろう。
その「女王の目」が、満席の会場の片隅で、壁際に立っている一人の女性をピックアップしていた。
ここにいる圧倒的多数の女性客とは、かけ離れた風変わりなファッションセンスを持つ女。
彼女はその全身を、黒皮のライダースーツに包んでいた。
ざっくりしたショートヘアに化粧気のない顔、香川はその二つに過去のデータを重ねて見る。
その女は、神領遊にそっくりだった。
等々力寛治さえ、あのドジを踏まなければ最後まで味わい尽くせた筈の極上の「人間の女」。
もし香川杏子が一人きりだったなら、今まさに彼女は、文字通り「舌なめずり」をしていた事だろう。
『遊の姿では、もう復讐をしない、と誓ったのではなかったのかね?』
「等々力の時と同じだ。ガードが強すぎて、なんともならない。向こうから動いて貰うしかないんだ。これで香川が食いついたと思うか?」
海は女性が多すぎる会場の雰囲気に居心地の悪さを覚えつつ、自分の中に浮き上がってきた煌紫の問いにそう答えた。
煌紫の方は自分を呼ぶ海の意識に反応してというより、香川の視線を感じ取って、動き始めたのだろう。
『ああ早速、彼女、君の事を認識したようだ。でもどうするつもりだ?彼らは、等々力と日本平を失い、その裏で遊や君の存在がいる事を知っているんだぞ。それに香川はキー種にしては、珍しく慎重な行動をとる。今までのようには行かないだろう。』
「・・黙って、俺の命を奪いには来ないだろうさ。なんと言っても、この姿は、一度取り逃がした魚ってやつなんだからな。それに香川が接触してきたら、ハイエナ族の事を教えてやるつもりだ。」
『それは私としては嬉しいが、、、、。復讐を諦めて、香川の命を救ってやるのか?』
「ハイエナどもに得物を横取りされたくない、、、とも言い換えられる。どうしても遊姉さんの無念を晴らしてやりたいんだよ。ハイエナ野郎に勝手に喰い殺されてもらっては困るんだ。」
『・・・海、これだけは言っておくが、我々の「死」には、君のいう無念を晴らすという概念は当てはまらないないのだ。君がそれを晴らすために、我々の命を絶っても、我々はそうは受け取らない。遊の命を絶ったから、自分が殺されたとは思わない。ただ弱いから負けたのだと思うだけだ。悔いる事などあり得ない。つまり復讐の対象になり得ない、そういう関係性自体がなりたたないのが、我々なのだよ。その意味もあって、私は君の復讐を止めて来たのだ。』
「ああそれは、段々判って来たよ。その意味がね。でも煌紫、一つ間違ってるぞ。そういう心がないのは、寄生虫の専売特許じゃないってことだ。人間にも、そんな奴が大勢いる。だからこそ憎い。だからこそ復讐が、人間にとって逃れがたい永遠の大テーマになるのさ。」
海は、頭の中での煌紫との会話を打ち切って会場を抜け出した。
何が起こるにせよ、これからが本番だった。
海がファッションショー会場下にある地下駐車場からオートバイを駆って、地上に出ようとする寸前に、それを遮った車があった。
黒塗りの高級車だ。
タイヤの鳴く甲高い音が反響して、車の中から三人の男が降りて来る。
海はオートバイにまたがったまま、今しがた出てきた駐車場背後の方向を振り返った。
出口はここだけではない。
確か反対側方面の道路に出る出口もあった筈だ。
偶然ではない、この男達は自分に用があるのだ。
警察関係なら面倒なだけだ、海はそう思った。
男達の虚を突いて、このままオートバイをジャックターンさせ反対側へ突っ切って、、そう思った途端、その方向からも、もう一台の車がせり出してきて、海は完全に包囲されてしまった。
「お嬢さん、オートバイの鍵を私に預けてくれませんかね。責任を持ってお預かりしますよ。貴女は私たちの車に乗っていただく。丁寧にお迎えしろと言われているのでね。」
最初に出口を塞いだ車から降り立った男の内の一人が声を発した。
中肉中背だが、分厚い身体をしている。
どうやらこの男達のリーダーらしい。
薄暗い駐車場の中でもサングラスを外さない。
「・・・随分丁寧な誘拐なのね。」
海はヘルメットを脱いでそう答えた。
「誘拐ではありませんよ。香川杏子様が貴女を是非、お屋敷にご招待したいと申されましたので。」
「まるで召使いみたいな口の効き方、、もっとも私は実物の召使いに会った事もないけど、」
「召使いではありませんよ。香川様の専種ボディガードのようなものです。時々、こういった役目も仰せつかります。申し遅れましたな。猪飼と呼んで下さい。」
海は、胸に抱えていたヘルメットをバスケットボールのように、その男へ放り投げた。
結構、強く投げたつもりだ。
男は何の苦もなくそれを受け止める。
「誰が私のバイクを動かすのか知らないけど、そのヘルメットは私のだから、絶対に使わないでね。男の匂いが付くなんて気持ち悪い。ちゃんと貴男がそれを保管しておいて、最後に私に返してくれればいいわ。出来る?猪飼さん。」
「勿論です。」
「ならいいわ。」
海はオートバイからキーを抜き取ってシートから降りると、猪飼に歩みよった。
そしてキーを摘んで男の目の前に突き出す。
猪飼はヘルメットを左脇に抱え込んで、右手でそのキーを受け取って言った。
「実にいい判断ですよ。お嬢様、、。」




