22: 訪問者、孔雀の目
海がイーゼルにかけたカンバスに筆を運ぶ。
だがここは大学ではない。
自分のマンションの一室だった。
油絵のモチーフは孔雀、実家の染め物に使われる図柄を海なりにアレンジして画布に展開している。
本来、海はこれを大学でつきつめる為に上京してきた。
上京が、体裁の良い厄介払いであっても、この目標自体は変わらない。
故郷の実家で、綿々と受け継がれてきた技術と伝統美を、新しい視点で再構成して、リフレッシュさせること。
それが海の目標だった。
日本平の殺害目撃以降、一週間にわたり、この作業に没頭していた。
ただしその目的は昔とは違って、絵を描くことに没頭する事によって、現実逃避する為だ。
姉の復讐の為には殺人も厭わないと思っていた海だったが、あの「人食い」の目撃は、その思いを超えていた。
だから人が沢山いる大学にも行かない。
人との関わりは、嫌でも、寄生虫とその寄生された人間の事を思い出させるからだ。
『もしかしたら自分の目の前のこの人間も、寄生されているのかも知れない』、そう考えるのがイヤだった。
それと厄介な事が、海の身辺でもう一つ生まれつつあった。
神領染の絵付け師である嘉門颯太から、電話があった事だ。
いやそれは、嘉門颯太の問題ではない。
嘉門颯太は、海が唯一、神領家の大人達のなかで心を許した相手だった。
問題は、彼が伝えてくれた神領家の状況だった。
海の父親である神領暦の死後、神領家の跡継ぎ問題は、ずっと不透明な状態になっていた。
先代の家主の宗一郎が、自分の二人の息子に家を継がすことを生前に拒否していたからである。
宗一郎は、自分の長男である暦と、その弟・聡明に、一家を継がせる統領としての器を全く期待していなかった。
自分が生きている間に、この二人とは別の神領家男子を育て上げ、その人物に神領家を継がせる積もりだったのである。
その為の跡継ぎ候補として宗一郎は、一旦、放逐した暦の内縁の妻の息子である海を、再び養子として迎え入れ直していてた。
その意図は、誰がどう見ても、孫にあたる海に、あるいは他の血縁者に神領家を継がせたいという事が明白だった。
しかしそれに腹を据え兼ねたのが暦の弟、聡明だった。
聡明の頭の中に、ある暗い計画が芽生えた。
暦の死後暫く経ってから、暦の正妻に男子・一太郎が誕生し海の立場は微妙なものになった。
この時、宗一郎は既に死去してこの世にはおらず、聡明は正妻の息子の後見人のような立場を取っていた。
宗一郎の孫である海に神領家を引き継ぐ資格があると言うなら、同じく宗一郎の孫にあたる正妻の息子・一太郎にもその資格がある事になる。
つまり海さえいなくなれば、実質的に神領家の当主は後見人である聡明になる。
そういった経緯で、海は実家から大学進学の為の上京という形で、所払いをされていたのだ。
この海にとって義理の弟にあたる一太郎が、ある病気で先が長くない事が、判明したというのだ。
再び、故郷の神領家の雲行きがあやしくなってきた、、、それを嘉門颯太が伝えて来たのだ。
だが今更、海はそのような神領家の跡目争いの渦中に戻るつもりはなかったのである。
自分の愛する神領染めは、神領家にいなくても、引き継ぎ守る事が出来ると考えていたからだ。
海が、絵に没頭し現実逃避するもう一つの理由は、知的パラシートゥスの人食い・共食いを、否が応でも思い出させる煌紫と会話したくなかった事もある。
しかし実態として、煌紫の方から話しかけてくることは、殆どなかった。
むしろ、たまにあるその機会でも、煌紫に喋りかけ、無理難題をふっかけ、結局自滅するのが海、というのが常だった。
絵を描くことから目を逸らすと、自然に海の心は、ハイエナ族やマンイーター族の事に傾いていく。
そして、あと一人残った復讐相手の事に。
・・・・・・・・・
孔雀の羽の模様の中の丸い部分は、「目」を模しているらしい。
羽を広げると一瞬に数十数の見開かれた「目」が現れる。
その「目」を見て、相手は驚く。
そうやって自分を守ったり、相手を惹き付けたりする。
孔雀の羽根を見て、美しいと思うのは人間だけだ。
生き物は、それぞれの「意味」で生き、その姿形を持っている。
その「目」に、今日3度目の色を、海が絵筆で置いた時、ピンポンと玄関チャィムが鳴り続いてインターホンから若い女性の声が聞こえた。
「神領海さん、いらっしゃいますか。私、本庁捜査第一課の極夜路といいます。ちょっとお話を伺えませんか?」
「キョクヤジ?」
海は筆を止めて、暫くの間、その言葉の意味を考えた。
自分は、二つの死に直接関わっている。
警察がいつ訪ねてきても、おかしくない。
海は、ようやくその事に思い至った。
人を操る寄生虫の事などを考えていると、ついつい現実離れしてしまうと、苦笑いをしながら、絵筆を筆洗に入れて、ドアに向かった。
「等々力殺しの容疑で逮捕する。」あるいは「日本平殺しで逮捕する」と言われても驚くつもりはなかった。
今の海は、外部の強制的な力で自分の生き方を拘束して貰う方が、有り難いような気持ちが強かったのである。
ドアを開けた海の目の前に立っていたのは、漆黒のワンレングス、漆黒の瞳、まっすぐな強い眉が印象的な美女だった。
年齢は二十代後半、どことなく遊の持っていた雰囲気に似通った部分がある。
本当は泥臭い程タフなくせに、生活をお洒落に楽しんでいる感じ。
「よかった。チャイムを鳴らした途端に、窓から逃げられなくて。」
冗談なのか本気なのか、いずれ判らぬ食えないニュアンスが、柔らかな声に包まれて運ばれてくる。
唇は薄くてやや大きいが、大味な感じがしない。
「よければ中に入れて下さる?こんな状態でいつまでもいる方が、貴男にとっても良くないと思うんだけど。人って意外と、他人に見られてるものだし。」
「あっ、ああ、済みません。気が付かなくて、どうぞ。」
実際、海は気が回っていなかったのだ。
まあ、あまり警察の訪問に慣れている人間も多くはないだろうが、、。
海はそうやって、極夜路と名乗った女刑事を部屋の中に招き入れたのである。




