2: 革の拘束衣
高速道路に入ってから暫くして雨が止んでくれた事に、海は感謝した。
いくら直線が多い路線だからと言って、雨のなかフルスロットルでバイクを走らせ続ける事は不可能だったからだ。
それに暖かいと言っても冬の雨なのだ、上から着込んだレインスーツ程度では身体が冷え切って動かなくなってしまう恐れがあった。
そんな事を続けていけば、遊を助ける前に自分が事故を起こしてしまう。
勿論、遊の為になら命を掛けてもいい。
だがそれは、今ではない。
そんな煩悶を抱きながら、海のバイクは夜の高速の闇を切り裂いていった。
人型の黒く怪しく光る革包みが、床に転がっていた。
否、包みと見えたのは革で出来た幅広のベルトの集合体だった。
両足首に一巻き、続いて両脹脛の部分に一巻きというように、頭部をのぞく人体に、幅広の革ベルトがびっしりと隙間なく巻き付けられているのだ。
腹部を絞り上げるベルトの輪の直径が、そこを締め上げる為か、腰部に比べて異常に短い。
緊縛拘束されているのは女性のようだ。
背骨の通るライン状に、それらの革ベルトを止める為の金具が十数個並んでいる。
頭部は顔面全体を覆う一本の革ベルトによって戒められていたが、よく見れば、その下の顔も革製の全頭マスクのようなもので覆われているようだった。
呼吸音が微かに漏れ聞こえた。
顔面を戒めるベルトの中央に三角形の穴があり、そこからちょうど鼻が突き出るようになっている。
だがその鼻もまた、革製の全頭マスクに覆われていて、鼻孔にあたる部分だけに小さな空気孔が穿たれている。
床に転がされた革人形としか見えないその人物は死んではいない。
全頭マスクの鼻孔から漏れる浅い呼吸音がその事を証明している。
だがその呼吸音は今にも途切れてしまいそうだった。
・・・スマホを使える、すると遊は片手もしくは両手が自由だという事になる、、自分では逃げられないのだろうか?それにどうして警察に連絡しない、、いや既にもうしてるのか、、、しかし他人を捕らえて監禁するような人間が、スマホのような所持品をチェックしないなんて事がありえるんだろうか?、、高速の直線部分を流す内、そんな事を考える余裕が、海にも少し出てきていた。
と言うよりもそれは、単調な深夜のドライブが引き起こす夢想に近いものだった。
時々、もの凄い勢いで併走する大型トラックや、対向車線を走ってくる車のヘッドライトが、海を現実に引き戻すだけという深夜の走行だった。
遊が弟の忠誠心を証明してみせる為に、誰かの前でスマホを使って芝居をして見せる、、そんなシーンを想像する。
あり得ない。
あるいは、遊の問題ではなく、海自身をおびき出すために、、?
故郷を厄介払いで追い出された一介の美大生に過ぎない彼の為に、一体誰が何の目的でそんな事をする。
第一、遊のあの声色は、間違いなく本物だ。
革人形の頭部にある鼻孔部分は、金属の丸い小さなリングのようなものをかますことによって、その革の解れを止めているようだった。
そしてよく見ると、そこから極細の糸が、長く排出されているのが判る。
グラスファイバーのようにも蜘蛛の糸のようにもみえるが、とにかく細い。
しかも強靱そうだった。
その糸は自ら、革人形の頭部から床を這い、ドアの隙間をぬって、廊下にでて、違う部屋のドアを同じようにくぐり抜け、その中に転がされていた一つの「物体」に繋がっていた。
その「物体」は、かっては真行寺真希と呼ばれた女性の肉体だった。
損壊されたそれを「死体」と表現しないのは、暴虐の限りをつくされ、破壊されつくした身体が、まだ、動く、からだ。
そしてあえて「物体」と呼ぶのは、その身体がいくら動こうと、それは人間の意志で動いているのではないからだ。
ともあれ、真行寺真希の身体は、つい先ほどまで遊のスマホを握りしめ、海にメールを送っていたし、今はそのスマホへの着信への対応や、次の送信のためにスタンバイしていた。
遊のモデル仲間である真行寺真希の、かっては愛くるしかった目は、この上もなく腫れ上がった瞼の下で、微かに光っていた。
勿論、人が目を開けているというようなものではない。
あえて言えば監視カメラが、目の前の光景に意味があろうがなかろうが、それを写し続けているのと同じ事だった。
その目の左右には、引きちぎられた耳蓋の端切れがぶら下がっていのだが、そこにあの糸が絡み、更に耳穴に潜り込んでいた。
真希が握りしめているスマホが振動した。
メールが着信されたのである。
スマホがゆっくり持ち上げられ、真希の顔の前にかざされる。
海からだった。
どうやら遊が監禁されている地点の側までは、たどり着いたらしいが、そこからが判らないらしい。
確かに、この別荘の周りにある道は、つい最近、新しく作られた道だ。
先ほど送った地図では、ここに到着するのは難しいだろう。
「赤い木橋を渡った所にある最近作られたログハウス風の建物」と真希はキーを打った。
彼女らを拉致した者達は、今はここを留守にしているのが判っていたので、真希は、その遊に似せた肉声で返事をした方がより正確な情報を与える事が出来た筈だ。
が、真希の声帯は、手酷い破損によって遊の声を真似るどころか、既に動かなくなっていたのだ。
海は、森林を貫くように切り開いてある道路の路肩にオートバイを止めていた。
先ほど脱いだレインスーツに付いた雨水を切って、バイクの後部シートにネットで止めてあるバッグに入れる。
そしてレザーのカジュアルなライダースーツの中で縮こまってしまった身体を伸ばしながら、周りを見渡した。
周囲には幾つかの別荘がある。
明かりが灯っている別荘の方が少なかった。
勿論、深夜という時刻のせいもあるが、ここは冬がけっこう厳しい場所で、しかもスキー場にも遠かった為に、ほとんどのオーナー達はこの土地を、避暑で過ごし冬場は敬遠するのだろう。
けれど戸数自体はそこそこにある別荘地としてメジャーな地域であることには間違いない。
そんな場所で一軒一軒、遊の在処を調べていく訳にはいかない。
しかしメールに添付されていた地図では、これ以上の捜査は困難であり海は思いあまって、逆に遊を危険にさらすかも知れないスマホでの送信に踏み切っていた。
そして今、意外な事に、その返事が返ってきたのだ。
「赤い木橋を渡った所にある最近作られたログハウス風の建物」
海が数分前に通過してきた場所だ。
感覚的には、一人の人間が拉致監禁されている場所といえば、山奥に隠れたようなロケーションを連想させたが、実際には道路の側を付いたり離れたりするような形で流れている小川に掛かっていた木橋のすぐ向こうにそれはあった。
更に海の記憶では、該当のログハウスの窓には、暖かさそうな灯がともっていた。
だから海の感覚の中では、その平和そうなログハウスは端から捜索の対象から外されていたのだ。
「それに、、」と一瞬だが海は考えた。
「第一報から三時間はたっている。一人の若い女性を誘拐し監禁しておきながら、その人間が対象を長時間放置して留守にするなどという事が、この法治国家でありえるのだろうか、、やはりこれは手の込んだ悪戯ではないのか」と。
遊がその悪戯の首謀者という事はありえなくても、誰かにうまく乗せられてということは、、、とそこまで考えて海は首を振り、急いでヘルメットを被った。
遊がそんな下らないいたずらを海に仕掛ける訳がなかった。
事態は、きっとそれだけ想像する以上に込み入っているのだと、海は理解し、オートバイを反転させた。
たしかに事態は、この拉致劇に関わったあらゆる「存在」にとって想像以上の混乱をきたしていた。
例えば、革のスーツとベルトによって梱包された遊の身体は、「第二代謝」が、妨げられていた。
普通ならこんな極限状況でも、遊はその「第二代謝」によって、自らの生命を強健に保ち、さらにこの状況からの脱出さえ、果たせていたかも知れないのだ。
拉致者達が、遊と真行寺真希に与えた、彼らの言う自家製の「神経麻痺剤」が、こういった状況を生んでいるのだ。
確かに普通の人間である真希は、その「神経麻痺剤」で、彼らの拷問に長く耐え、彼らに多くの楽しみを与え、結果、死んだ。
だがこの「神経麻痺剤」は、遊には違う効果を発揮した。
筋肉の弛緩と昏睡を彼女に与えたのである。
拉致者達の楽しみの目的の多くは、真行寺真希ではなく遊にあったから、彼らの計画はここで大きく狂った事になる。
この日の楽しみの為に同種の肉体組成を利用して作った貴重な拘束具まで投入したというのに、大きな計算違いだった。
遊から苦痛を引き出すどころか、その遊自体が意識を失い目を覚まさないのだ。
結果、彼らは人形を嬲るような程度の加虐しか遊に与えていない。
そして拉致者の内の一人に、回避できない急用が発生し、更に二人目にまで緊急の電話がかかってきた。
普通の犯罪者なら、自らの状況を考え、遊達に対して隠蔽など、それなりの処置を施したのだろうが、彼らは違っていた。
彼らは遊や、真希の死体を、一時、そのまま放置することを選んだのである。
彼らは自分たちが社会に行使できる自分たちの権力の強大さを良く知っていたのだ。
この程度の状況などなんとでもなる。
第一、神領遊と真行寺真希の二人のトップモデルは事実上「失踪」さえしていない。
彼女たちが「不慮の事故に遭遇する」のは、もっともっと後になっての事だ。
遊は革によって全身を拘束されているが、それは鑑賞の為であり、遊が覚醒した際、その逃亡を防ぐという意味で行われた処置ではない。
彼らは彼らの用いた神経麻痺剤について、目的外の副作用を起こした今でも絶対の自信を持っていたし、彼らのアジトに何らかの追っ手の手が伸びることはあり得ないという確信も持っていたのである。
それらのどれをとっても、彼らの価値観や行動様式は人間のものからは大きくかけ離れていた。
彼らの心配といえば、時々、何の前触れもなく生えだしてくる自分の六本目の指を噛み千切る時の奇妙な不安を伴う痛みと、その意味くらいの事だった。
だからと言って、彼らは外見的にはモンスター的な存在ではない。
いやむしろその逆だった。
彼らは外見的には、非常に社会的地位が高く、洗練された人間達だったのだ。




