14: 顛末
客室に戻った海は、急いで羽織っていたコートを脱ぎ、忌まわしい黒革のボンデージをはぎ取るように脱ぎ捨てた。
全裸になると備え付けの鏡の前で、自分の口を大きく開け、唇の両端に両手の指先をそれぞれに引っかけ、それを横方向に思い切り引っ張った。
遊の端正な美貌が歪む。
海が身につけているのは思考力のない疑似植物生命体だ。
この疑似生命体には、一度、自分の中に取り込んだ他の肉体を、自ら意志的に解き放つ知能はない。
遊の「皮」から解放されるには、煌紫の力を借りるか、拒否を示す他からの強い刺激を与えてやる必要があった。
焦りに焦っていた海は、煌紫の力の発動が待てなくて、疑似生命体が自分を吐き出すように、刺激を与えて無理矢理「嘔吐かせた」のだ。
一瞬のうちに、鏡の中の遊の顔が、寝起きの顔のように少し「浮腫んだ」。
それを確認した海は、同時に首筋裏に縦に細長く生まれた裂け目に自分の指を突っ込み「遊」を脱ぎ始めた。
・・・・これが「遊」からの「海」の脱皮だった。
・・・・・・・・・
あっけない幕切れだったが、海にとって自らが行った「人殺し」のショックは予想以上に大きかった。
超人的な身体能力を得る為に、最近でこそ積極的な暴力行為の数をこなした海だが、それまでは虫を殺すのが精一杯の人間だったのだ。
いや身体を変容させる為に、自分を暴力の世界に追い込んだ時でさえ、自分から先に肉体的な攻撃を相手に仕掛けた事は一度もない。
肉親を殺される事と、その相手の命を自分の手で奪うことは、復讐の名の元にさえ完全なイコールにはならないという当たり前の事実をようやく海は知ったのだ。
復讐殺人は、海の心の重さを軽くしたのではなく、より重くしていた。
『目には目を、歯には歯を』は、復讐を制限した言葉だ。
片目を潰されたなら相手の片目をつぶせ、それ以上の事はするなと。
だが自分にとって掛け替えのない人間が殺された時、その制限は、何処にあるのか?
又、同じく聖書では、後にこうも言われている。
『愛する人たちよ。自分で復讐をしてはいけない。神の怒りに任せなさい。復讐はわたし(神)のすることである。わたしが報いを行う、と主は言われている。』
お前達人間は、復讐すべきではない、それが「復讐するは我にあり」の本当の意味だ。
つまり復讐の道に踏み込んだ者は、そこから抜け出せない。
それ故の警鐘だった。
そして海は、復讐とは、人間に仕掛けられた自滅の罠なのだという事を今回の事で理解した。
だがそれは理解しただけの話で、海の復讐の炎自体は、一向に衰えそうもなかったのである。
マンションの一室に引きこもり、食事も満足に取らずに、数日が過ぎている。
自失した海の瞳には、等々力の死を報道するテレビニュースが映っていたが、その内容が意味を持って海の心に届くことはなかった。
報道での等々力の死因は、他殺ではなく自殺だった。
目撃者は、遊に成り済ました海を甲板上で見ていた、あの幼児だった。
幼児は、海が復讐を決行した時刻にも最上甲板にいたのだ。
確かに小さな子供なら、最上甲板の転落防止柵の隙間から頭を突き出せるし、そこからは垂直に船の側面と、真下に海面が見える。
下層の船の中から誰かが、海に飛び込むのも見える筈だった。
ただし、第一発見者であるこの坊やの言葉が、周りの大人達に受け入れられ船の責任者に伝わるまでにはかなりの時間がかかったようだ。
まず母親の言う事を聞かない手の掛かるこの坊やの言葉が、母親に認められるまでに三十分、この母親が船員を掴まえて、事情を説明するまで数十分、、という具合で、実際に事が動き始めたのは、乗客達が全員下船して、客員名簿の人数が一致しない事が明らかになった時からだ。
等々力の身体は、不思議な事に奇跡的に大きな損傷もなく、船のスクリューに奇妙な形で巻き付いていたらしい。
坊やの証言から、等々力が飛び込んだのは、左舷の第二甲板であることまでは推測出来たのだが、遺書らしいものは、そこにも、船のどこにも見あたらなかった、、。
ただし、等々力が最近、職務上で非常に大きな悩みを抱えていたのではないかという関係者の声が多々聞かれたそうである。
そして一方では、等々力の個人的な汚職に関する数々の疑惑が取りざたされていた。
要するに、等々力の死は、そういう形でこの国の権力者層で処理されようとしていたのだった。
等々力の社会的地位から考えると、かなりゴシップ含みの処理の仕方のように思えたが、下手をすると、この死がきっかけになって、明るみにでるかも知れない国家の裏事情を隠蔽しようとするなら、警察関係者には返ってそちらのゴシップの方が都合が良かったのかも知れない。
一部の権力者達は、等々力が非常に危険な遊びに手を染めていることも知っているようだった。
しかもその遊びは、政敵の政争のネタにも利用できない出来ない程の、高度な権力ネットワークに守られていた。
正に「触らぬ神」に、守られていたのである。




