12: ドレッシングデザイヤー
海は男の姿のまま、遊の形見である人体スーツを身につけ、その後、煌紫の無数ともいえる神経枝を自分の肌の表面から出して、自らをスーツと接合した。
男女の体格上の差は、遊の情報を使って自分の身体に補正をかけてある。
スーツ自体も、内側に抱き込んだ人体から栄養摂取と移動の権利を与えられ、その見返りを「適合」という形で人体に与えようとする。
その栄養の中には、人体の汗や代謝物、果ては皮膚の常在菌まで含まれていて、おまけに小さな切り傷などは一瞬の内に自己修復するから、人体スーツを長期間着用する肉体的なストレスは全くない。
結果、見事な擬装が可能になる。
これなら極端な身体変容を行使せずに、軽い体型の変化で「遊」に化けられる。
残念ながら汗までは出ないが、この時点でスーツは、強制的に遊の姿形を海に与える補正機能を持った「肌」そのものになるのだ。
これを始めた当初は、自分の髪の毛が一本一本、スーツ頭部の裏側に吸い上げられるような感覚が不快に思えたが、今はそれが一種の小さな快感になっている。
遊の姿で、手に入れた不正な出所のスマホに囁きかける声は、煌紫の力を使って、海の声帯だけを遊のものに復元して発声したものだ。
・・・一種の儀式だった。
電話をかける相手には、こちらの姿が見えないのだから、外見的に遊になりすます必要などはなく、声帯の変化だけで十分なのだ。
しかしこの復讐の権利は、自分ではなく遊にこそ与えられるべきだろう。
海はそう思っていた。
相手の男を、遊として呼び出す。
この復讐には、これ以外のアプローチはないような気がしていた。
煌紫は前に、遊はやさしい女だと言った。
確かにそうだが、ただ優しいだけではない。
海が神領の家から跡目争いの為に、追い出された事を告げた時、遊は笑った。
あんな時代に取り残され、いずれ滅びてしまう神領から逃れられてよかったじゃない、と。
そして強い目で、こう言ったのだ。
弱くて物事を見通す事の出来ない人間たちが作り出す世迷い言なんかに影響されないで、貴方は貴方の目の前の本当の世界の現実と戦いなさい、と。
そうすれば、世界は貴方を愛さないまでも、拒絶することはないのだからと。
遊の優しさは、聡明で真っ直ぐで強い。
遊の手を、復讐の返り血で汚したいわけではない。
ただ奴らには、奴らの前に、毅然と立つ遊の姿を見せつけてやりたいのだ。
それが遊になった海の本心だった。
警察庁次長警視監・等々力寛治が、その相手の一人だ。
はじめ煌紫は、その名も、続く他の二人の存在も、海に伝える積もりはなかったようだが、海がふとした弾みで、等々力寛治の名前を「人体スーツ」経由で、知ってしまってからは、それを隠すのを諦めたようだ。
煌紫が、彼らの名前を隠していたのは、海に復讐という行為をさせない為だったが、知ってしまった以上は、逆に彼らの力の強さを正確に海に知らせ、「諦め」の方向に持って行こうと煌紫は考えていたのだ。
今は、遊を辱め死に追いやった相手の名前は、残り二人を含めて、総て判っている。
遊の体内にいた煌紫自らが、目撃者なのだから、相手の名前はもちろんの事、煌紫の持つネットワークで、遊さえも知らなかった等々力らについての諸々の情報が簡単に手に入っていた。
そういった形で、煌紫から改めて自分が復讐すべき相手が、警察のお偉方であると知らされた時、当然ながら海は驚かなかった。
海は、遊や真行寺真希の失踪について、彼女たちの所種する事務所に問い合わせた時の妙な雰囲気や、警察に届けた捜索願後の当局の動きなど、そこに尋常でないものの影響を感じ取っていた。
相手の力は大きい、警察庁次長警視監である等々力はもちろんの事、残る二人もビッグネームだった。
しかし、その名前の大きさ故に、この復讐戦において、海に有利に働く状況もいくつかある筈だった。
等々力らは、自分たちの犯した行為を、完全に闇へ葬ってしまいたがっている。
しかし、いくら社会的な力を持つ人間でも、その力の社会性故に、自らが犯した触法行為の全てを、その力で完全に無に帰すことは難しいはずだ。
あちこちに、事件隠蔽の為の撓みが残っているだろう、それを利用するのだ。
こちらの出方によれば、彼らは自分の所有する権力を行使する事が出来ず、自分自身の単独行動で、カタを付けなければならない局面が必ず出てくる。
それを利用するのだ。
例えば、拉致監禁していた女が、自分たちのアジトから逃げだし、逆に脅しをかけてきたら、彼らはどうする?
彼らは、まだ神領遊の生死を掴んではいない筈だ。
それに対して彼らが他の力を利用すれば、自分の犯した犯罪が明るみに出る可能性が大きくなる。
つまり自分一人で、受けて立つしかないはずだ。
それが海の発想だった。
いつもならそんな海の計画を、稚拙だと批判する煌紫も、この時は何故か口を挟んで来なかった。
等々力が持つプライベートなスマホの電話番号を、煌紫から教えられた時、海はかすかなひっかかりを覚えたが、あえてそれを無視した。
その番号は、遊の記憶から引き出したものである可能性があった。
遊は自分と将来を誓い合った恋人などではない。
遊は一人の独立した女性であり肉親である。
遊がどのような男性関係を過去に持っていようと、その事について、あれこれと批判をするような立場に海があるのではなかった。
更に言えば聡明な遊が、都会の闇にいくらでも転がっている危険な罠に、簡単に取り込まれる筈がないのに、何故あのような事態に陥ったのかも、その電話番号の存在で理解出来るような気がした。
しかし、たとえ一時でも、遊がこの男と親密な関係を持っていたのだとしたら、その遊をあのような形で死に追いやったあの行為は、尚更、万死に値すると、海には思えるのだった。
海は遊としてスマホを使い、渦潮の逆巻く海峡を遊覧しながら渡る大型観光船に等々力を誘い出していた。
その大型遊覧船の出発港がある町にたどり着くだけでも、都心からだと新幹線を使ってさえ半日仕事だ。
多忙な男なら、スケジュールを調整するだけでも大事だろう。
等々力が公務に都合を付けられるように指定日までに3日間の猶予を設けた。
しかし、その3日間で、等々力は己の権限を行使して、この呼び出しの真偽の裏を取るために、様々な動きを見せるかも知れなかった。
それも海の想定内の事だった。
海はこの工作にあたって、スマホの入手から始めて総てを、遊の姿でやり遂げている。
等々力には、遊が生き延びているとしか思えないだろう。
平日に遊覧船の個室を一人で取るのは返って目立つのだろうが、遊の人体スーツを身につける空間を確保するにはそれしかなかった。
トイレの個室も一度は考えてみたが、海には遊の形見でもあるスーツをそこで纏う気には、なれなかったのである。
乗船名簿には海の実名を記入した。
海は神領海としてこの船に乗り込み、遊として復讐を果たし、再び海の姿で下船するつもりだった。
後にこの復讐が明るみに出れば、この乗船名簿は、海を追いつめる為の大きな手がかりになるのだろうが、復讐後には己の犯した行為について、それなりの責任をとるつもりの海にとっては、なんら問題のない手続きだった。
殺しを完了させたら、数年数ヶ月も、逃げ回るつもりはない。
要は、三人の人間たち、いや寄生虫に復讐をすれば全てが終わるのだ。
遊の姿で海が遊覧船の最上部にある甲板に出た時、一人の男の子と出会った。
海の目には、彼が幼稚園児か小学校低学年の児童のように思えた。
遠くで子供の名を呼ぶ女性の声が聞こえた。
おそらくこの子は、その女性の手から放れた息子かなにかなのだろう。
好奇心が相当旺盛なようだった。
甲板上を縦横無尽に走り回り、転落防護柵の隙間から熱心に海を眺めていたかと思うと、次の瞬間には甲板上にある、ありとあらゆる設備をなで回している。
同じ所に留まっているという事が殆どない。
遊覧船とは言っても、この船は、幾つかの島にある港を経由する長距離船なので、時間さえ合えば、島に住む地元の人間にとっては、交通手段にもなりうる。
昼下がりという中途半端な時刻なら、このような遊覧船もかえって便利なのかも知れなかった。
この二人は、緊急の用事が出来て、親元の島に帰らなければならない親子連れといった所か。
「カイ君。私達の名前の由来教えて上げようか。これ母さんが教えてくれたんだけど。母さん、父さんと一緒に見てた砂浜で遊ぶ子どもたちの姿が大好きだったんだって、それで私達双子が生まれた時に、海と遊ぶにしたらしいよ。単純過ぎるよって言ったら、あの時の光景が、目に焼き付いているの。あの時が、一番幸せだったかもって言ってた。」
その「あの時」が、どんな場面だったのか、いつかは姉にもっと詳しく聞こうと思っていたが、今はその遊自体がいない。
海の意識の中で、海辺で遊んでいる幼い遊と海の姿が消える代わりに、現実の少年が海に向かって走って来た。
その子が海の側にやって来て、海を不思議そうな顔をして見上げた。
くりくりとした眼から出る視線が、海の足元から股間、股間から顔へと何度か往復する。
海の顔が赤くなる。
自分が女を装っているのが、見抜かれたような気がしたからだ。
特に今は、妙な具合に遊の人体スーツの女性器に収納されている自分のペニスを意識してしまう。
海は遊に成り済まして、女性として動き回っていた時に、ある発見をしていた。
この変身に騙されるのは、人間だけだということだ。
今それが正しくない事が判った、騙されるのは、正確には「大人の人間」だけだ。
犬は「中身」を見ている。
それは犬には、余計な思いこみがないからだ。
小さな子供にも余計な思いこみはない。
幼児にあるのは残酷なまでの純粋な好奇心だけなのだ。
しかし実際には遊の顔は、赤面などしていなかった。
遊の顔面は、表情豊かに動くが、その皮膚の下には血管と呼べるようなものは通っていないからだ。
幼い子供を優しく眺めるその顔には、遊の美しいほほえみが浮かんでいる。
子供を呼んでいた女性が、この男の子を見つけ、海に軽く会釈をして、その手を引っ張って立ち去る。
男の子は、別に振り向きもせず、そのまま手を引かれていく。
海は、ようやく、自分の羽織っているロングコートの裾から見えるボンデージスーツの足元が、小さな子供の視線から見ると、履き物としては一風変わったものである事に気が付いた。
大人の視線からすると、ロングブーツがそこから覗いているように見えるのだが、、、。
子供らしい直感力で、少年は遊が履いたそのブーツに何か奇妙なものを感じたのだろう。
そして恐らく、目の前の綺麗な女が、自分の母親の持っている種性とは、まったく違ったものを放っていることも。
『人は子供のころ虫が平気なのに、大人になると駄目になるケースが多いな。あの子は海の着てるものをどう見てるんだろうね?』
煌紫が突然浮かび上がって来てそう言った。
「どう見えるかって?多分、そのままなんじやないか。大ムカデの抜け殻だよ。」
海は刺々しい皮肉で、そう答えた。
これからの復讐にそなえて、神経が張り詰めていたからだ。
実際のボンデージスーツの生地の感触は、昆虫のモノではなく果てしなく鞣し革のものに近い。
人に寄生するこの存在達の見てくれは、昆虫や寄生虫に良く似ているが、その身体組成はまったく別のものである事を、この頃の海は認めつつあった。
『で私は、巨大な虹色のサナダムシかね?』
「その通り」
海の身体を包んでいるボンデージスーツは、監禁された遊を拘束していた革ベルトを、煌紫が彼の言う「仲間たち」に再縫製させたモノだ。
そして遊を拘束していた革の元の姿は、警察庁次長警視監・等々力寛治に寄生している虫が脱皮した抜け殻である。
海は象徴的な意味でこのボンデージを、煌紫はキー種からの消化液攻撃から海を守る為に、このボンデージの着用を採用していたのだ。