10: 優しい心
海は現場からの逃走の為に、自分の全速力を出し切れなかった。
皮肉なことにその原因は、海の走る能力が高すぎた事にあった。
まだ宵の口の、駅近くの場所だ。
公園から少し移動すれば、人が大勢いる。
その中を、オリンピックに出場すれば余裕で金メダルが取るようなスピードで、駆け抜ける訳にはいかない。
と言うよりも、街では「走る」という行為だけで、人が振り返るのだ。
海は自分の逃走路が、日の落ちた河川堤の遊歩道に入ってから、本来の、いや煌紫に与えられた「走り」に、やっと切り替える事が出来た。
電車などの交通手段なら海のマンションまで1時間強はかかる距離を、同程度の所要時間で軽々と走り抜けられそうだった。
海の体中が、かっての運動体験によって得られた感覚とは、まったく別のもので動いていた。
息が上がるなどという予感もないし、 筋肉が疲労で重くなる事もない。
海の感じている運動感のイメージに一番近いのは、機械のエンジン内部の燃焼運動だろう。
肉体的な疲労はない、あるとすれば、ガソリンの枯渇だけだ。
この高性能なエンジンは、絶妙の発火タイミングと呼気能力を持つ大容量の強固で軽いボディを持っている。
河川堤に走り込んでから数分後に、海の後方には、先ほどの戦闘場所近くの私鉄路線の鉄橋が遠くに見えた。
ほぼ、一駅分の距離だ、それほどに海のスピードは早いのだ。
しかも高められているのは、脚力だけではない。
視力も高められていた。
すっかり夜のとばりが降り、曇った夜空からは月の光も望めないのに、微かな星明かりや、所々に点在する人工の光だけで、海の目はなんの支障もなく河川堤の遊歩道を全速で走っていくことを可能にした。
その目に、前方の架橋下にある不穏な動きが写った。
橋げたの下に、即席の小屋があった。
小汚いブルーシートやぼろ切れで組み立てられたそれは、一目で浮浪者のものとわかったが、その小屋の表面を、時々、懐中電灯で出来た光の輪がなめている。
海は走るのを止めて、堤の上からそれを観察した。
海の目には、数人の若者が手に木刀を持ったり灯油缶のようなものを持ったりしながら、小屋を取り囲んでいる様子がありありと見えている。
懐中電灯を時々しか使わないのは、勿論、自分たちの行動を人に見られたくないためだろう。
もっともこの時刻、人は海以外には誰もいないのだが。
「・・・まったくなんて夜だ。どいつもこいつも。」
海は思わず呟く。
小屋からは反応がない。
反応はないが、小屋の住人が息を潜めて自分に降りかかった災難が通過するのを耐えて待っている雰囲気がありありと伝わってくる。
もちろんそれは小屋を襲撃する前に、中の住人をいたぶることで快楽を得ている若者達のオーラとの対比で言えることだが。
海は黙って遊歩道から川に向かって少し下り降りた。
それなりの傾斜のある土手だったが、今の海にとって、自分のバランスを乱すような角度では勿論なかった。
海は地面から手近な小石を幾つか拾った。
それを小屋を取り囲んでいる若者達のいる方向に投げる。
もし今が昼間でも、相手の顔の造作が判らない程の距離なのだ、常人では当然届くような距離ではない。
それがブンという音を立てて、一直線に飛んだ。
飛んだと言うより、銃弾が発射されたという表現の方が近いのかもしれない。
それは若者が持っている一本の懐中電灯に当たり、それを彼の手からもぎ取るようにして弾き飛ばした。
若者は何が起こったのか理解できなかったようだ。
石つぶては次々と飛んできて、若者達が持つ懐中電灯を総て叩き落とした。
誰か一人が、慌てたようにライターを取り出して火を付けた。
それが一瞬のうちに、消える。
しかし今度は懐中電灯がはじき飛ばされたようにはならず、飛来した石礫は若者の拳を砕いた。
若者は苦痛の悲鳴を上げるのだが、その口を他の若者の掌が慌てて押さえにかかった。
「すまんな、手元が狂った。的が小さすぎたんや。」
若者達は、一斉に声の方向を見上げるのだが、闇の中、何も見えない。
「もう帰ったらどうだ。見逃してやるよ。こっちも人助けとはいえ、一晩に何人もの人間を怪我をさせるのはな、、、。」
木刀を持った若者が、海の呼びかけに反応したかのようにそれを握りしめる。
途端にその木刀に衝撃が走って、若者の顔に細かく砕けた堅いモノが飛び散った。
若者はまさかと思いながら木刀の刀身を撫でてみると、そこにヒビがはいっているのを知る。
飛来した石つぶてが木刀にあたり、自らは粉々に砕けながらも、木刀にひびを入れたのだと理解して、この若者は完全に戦意を喪失した。
「や、やばい!逃げよう!」
「逃げるって、どうやって?どうやら上からパチンコかなんかで石を撃ってきてるみたいだぜ。凄い威力だ!」
「おまけに、こっちから見えてないのに、向こうからは見えてる!」
そんな彼らの会話が聞こえるのか、又、声が降ってきた。
「川だよ、お前らのすぐ側が川だろ、川に入って逃げるんだ。俺はそこまで追いかけないぜ。濡れるのは嫌だからな。それがむかつくってんなら、今度は身体に当てるしかないな。痛いぞ、きっと。」
若者達は、お互いの顔を闇の中で見つめ合っている。
見えない敵が反応したのは、声を殺してる筈の自分たちの会話に対してだった。
それが聞こえるなら、敵はすぐ側にいる、、いる筈なのに、そんな気配はどこにもない。
海の声が止むと、先ほど木刀を握ってそれにヒビを入れられた若者の手に、再び衝撃が走った。
今度はベキッという木が折れる鈍い音がした。
その若者は、手に残った木刀の残骸を放りだし、川に向かって一目散に走り出した。
それが彼らの退場の合図だった。
投石が必要なくなったので、海は高い場所に位置を変え、若者達がびしょ濡れになりながら対岸にたどり着いて土手を這い上がるまでを見届けた。
「やれやれ、なんて夜だ。」
そして海は、その場に座り込んだ。
雲が切れかていているようで、時々、月がその顔を覗かせ始めた。
海が、このような方法で自分の身体を改造する為にかけた期間は2ヶ月たらずだった。
いや、改造自体は一瞬と言える程の短さで終わったのだが、その改造を起こす引き金となる「危機的状況」を作り出すのに時間がかかったと言って良い。
そして海は、この自らの身体を改造する過程の中で、煌紫が「遊を生き返らせる」と言った本当の意味を、ようやく理解しつつあった。
煌紫の能力なら、海の肉体を素材にして、生前の遊と寸分違わぬ存在を作り出す事は十分可能に違いなかった。
そしてその肉体に遊の心をもう一度、再構築する。
後は遊の心から「再構築」されたという痕跡を綺麗にぬぐい去ればよい。
そうやって遊は、自分の人生が一旦途切れたという自覚さえなく生きていける。
問題はただ一つ、、そこには海の存在が跡形もなくなっているという事実だった。
煌紫は最初からこれを説明していたが、海はそれを実感として受け入れられなかっただけの話なのだ。
『海にとっての遊なのか、遊にとっての海なのか?』
愛しているから遊に生き返って欲しいが、その遊が生き返った瞬間に、遊を愛している自分自身がいなくなる。
愛の本質が自己犠牲だとするなら、これは矛盾ではない。
海はいますぐ自分の存在を消し去って遊を生き返らせるべきだ、、、愛しているなら、、、だが海にはそれが出来ない。
しかしこの究極の2者選択は、今のところさしあたっての海の課題ではなかった。
その前に「復讐」があったからだ。
『・・月はどこから見ても、それなりに綺麗なものだ。私はアフリカの草原で眺める月が気に入ってるがね。』
土手に座ってぼんやり月を眺めていた海に向かって、珍しく、煌紫のほうから話しかけてきた。
「顔を出したか、、、どういう風の吹き回しだ?」
『海の心の状態が心地よかったから、上がってきた。』
「なんのことだ?」
『さっきの人助けのことだよ。私の目で・・様子を少し見ていた。断って置くがあの公園の事では、勿論ない。』
「ふっ、お前は正義の味方か。」
『純粋な美の愛好家だよ。あの心の状態はとてもいい。遊はやさしかった。彼女はさっきの海のような心の状態を驚くほどの確率で、、』
この寄生虫は、この寄生虫なりの在り方で、遊という女性を愛していたのだと海は再認識し胸を詰まらせた。
「もういい、その話は、それ以上はな、、。」
『・・・・。』
価値観の全く異なる生命体同士の筈なのに、時々意志が通じ合うのは不思議だった。
煌紫の言葉を借りると、それは、彼らが人間の言語体系を使って人間と交信をするために起こる「誤解」だそうだ。
「しかし煌紫、、お前はつくづく不思議な生き物だな。」
『私から言わせれば不思議なのは人間だ。この惑星の食物連鎖の頂上にいるくせに矛盾だらけの存在だ。だから我々が宿主にする値打ちがあったともいえるがね。まあいいい、私のどこが不思議なのかね?』
「これだけ人間の肉体を自由に操れるんだ、意識だって簡単に乗っ取れるんだろう?だのになぜ入れ替わらない、、。」
『・・・いずれ、海には説明するつもりだった。語るべき事はたくさんある。沢山あるが、まずは我々のことだな。我々は、ネットワーク的存在だ。人間には理解しにくいかもしれない。一つの意識をネットワークで繋がれた全員が共有する。そんな存在にとって、ただ一体の宿主の身体が、重要な要素になると思うかね?』
「ネットワーク的存在か、、煌紫はずっと前に、一つの身体には、一つの魂しか宿らないと言ったぞ。」
今日の海の言葉は否定的なものではなかった。
たしかに一人の浮浪者を若者達の襲撃からうまく救えたという感覚は悪いモノではなかった。
それがたとえ借り物の力のおかげであっても、本質的な救済でなくてもだ。
救えなくて見殺しにするよりは、ずっといい。
その気分が海を柔らかくしていた。
そして、そんな今の海なら話をしてもいいと、煌紫は判断したのだろう。
『その通り、だが一つの魂が、いくつもの身体を持つことは可能だ。』
「ばかな、、、」
『それが我々なのさ。私は君の身体の中にいながら、遠く離れた仲間達の意識を共有している。私は君の目や耳を通して世界を感知しているのではない。いやそう言うと、又、海は誤解しそうだな。私は君の神経網に融合させた私の神経ラインで、世界を認知しつつ、同時にこの世界に散らばった同種達と結ばれているんだ。我々は、宿主の身体を正に宿としているが、それを乗っ取る必要はまったくない。』
「わからないな、自分が思った所へ、自分の足で歩いてみたいと思わないのか?」
『思うさ。だが海、自分が思った所も、自分の足も、それぞれの生き物によってその有様が違うとは思わないのか。例えば、鳥は空を自分の世界だと思っているし、魚は海が自分の世界だと思っているよ。人間の空間認知の仕方だけが、全てではないんだ。我々にはネットワーク空間がそれにあたるんだよ。もっとも、人間という生き物は欲張りだから、空も海も自分の世界だと思っているようだがね。』
「ごまかしたな?」
『ああごまかした、ここの所は、いくら海でも理解出来ないだろう。彼らがそうであるようにな。』
「彼ら?」
『ああ、彼らだ。その事は、又、いずれ話そう。いや話すべきかな、』
そう言ったきり煌紫は沈黙し、海の身体の中に消え去ってしまった。
それ以上、煌紫を自主的に海の心に止め置くほど、海の心を満たす「優しさ」は、美しさにおいても強度においても、まだ十分でなかったのかも知れない。




