1: 助けを呼ぶ声
その現象が起こる前に、雲や樹木などの無数の影がクッキリと地表を走った。
明るい昼間の空が青みを深めながら暗くなり、世界は急速に日没後の景色へと移り変わっていく。
私が、この宿主の黒く艶やかな肌と強靱な筋肉を持つ身体中に張り巡らせ、さらには宿主の神経にも接続してある感覚器自体が、ヒヤリとするほど気温が下がり風が吹いた。
黒く変じた太陽の周囲には、淡い真珠色の光のベールを思わせるコロナが沸き立ち、同時に、昼間には見えぬ筈の天空の星々が輝いた。
この世界の変化に、鳥達は一斉に自分たちのねぐらへ向かって飛び立ち、草原の無数の虫やカエルらが鳴き始めた。
私は、この遠くの友人の記憶に潜り込み、その瞬間を味わう。
やはりこの星の自然は素晴らしい。
だが、今、私が蓄えている美しい東洋女性を通じてやって来るこの知見も、友が知る金環皆既日食に劣らない。
これはこれで切ないほどに生命のときめきが味わえる代物だ、、金環皆既日食を見せてくれた遠い友人も、いつかはこのビジョンに接続してくるだろう。
我々は幸せだ。
街路樹に巻き付けられたLEDイルミネーションや、商店の玄関先などに置かれた大小さまざまなクリスマスツリー、、冬の夜の繁華街は、夜の闇の深さが増し、寒さが厳しくなればなる程、暖かくきらびやかに感じられた。
だがそれらの照明も、人々が我が家に戻り眠りにつく頃には、電源が落とされる。
心が弾みはするが、結局は虚飾の美しさである。
けれど今、体中から良い匂いを発散しながら自分の隣を歩いている姉の「遊」の美しさはどうだ。
白い毛皮のロングコートなど、並の東洋女性には、本来着こなせまい。
それが、この女性の為なら仕方がないと動物愛護団体が認めそうな着映えを見せている。
目鼻立ちのはっきりした、どちらかと言えば整いすぎているかも知れぬその美貌は、華麗であり、街の虚飾によく似合っていた。
けれど「遊」の美しさは、その外見に対する人々の賛美以上に、彼女自身の内面にあるダイナモによって発光し、より強く輝いているのだ。
その美しさは、決して虚飾などではない。
遊を知る者はその事実を、心地よく思い知らされ、尚更、彼女に惹かれることになる。
遊の実の弟である神領海も、そんな彼女を崇拝する「ファン」の一人だった。
「映画、面白かったね。」
「うーん、へんな味わいの映画やったな。ハリウッドに進出したインド人監督の面目躍如とゆーか、、でもあんなんで、後何本も映画が撮れるんやろか。同じ作風やと飽きられるやろし、撮れる映画のジャンルも狭くなる。」
ダウンパーカーの立て襟に、顎を潜らせるようにして海は答えた。
やや猫背気味だ。
頭髪も洗いざらし、顔も水で洗って済ます、おおよそ身なりには関心がない青年だった。
「それを言っちゃお終いじゃない。カイ君だって、油絵を描いたら自分の作風からは逃げられないでしょ?ミュージシャンのアルバム聞いたってさ、大ざっばに聞き流したら、どの曲もみんな同じに聞こえるよ。皆、自分の持って生まれたもので、精一杯勝負するしかないの。」
そう言って海に向いた遊の顔を、道を行くトラックのヘッドライトがさっと撫でる。
夜気の中に息をのむような白い美貌が浮かび上がる。
まるでプロモーションビデオのワンシーンのようだ。
「それより、主人公が絶対死ななくて、悪役がガラスの骨を持つ病弱な男ってあたりの説明が不足してたと思わない?第一、そんな病弱な男が、タフに主人公を追いつめたり、大それた悪事を働けるって事自体が、矛盾してるよ。」
遊は不思議な発想の持ち主だった。
おおよそ、その、オンナを強く匂わせる美貌からは、想像も出来ない程、少年じみた突拍子もない事を考えつくのだ。
「例えば、こんなのはどう?昔、SF映画で宇宙生物に人間が寄生されるのがあったじゃない。あれよ。あれを設定に使う。主人公は善玉の宇宙生物に寄生されて不死身の体になるの、で悪役の方は当然、悪玉の寄生生物ね。悪玉の方はどんどん宿主の栄養を吸い取っちゃうけど、宿主を死なしたら自分も危ないから、ぎりぎりの所で止めるし、まあ外敵からは一応、宿主を守ってやる位のことはするわけ。善玉の方は、やせ我慢で自分がやせ細っても宿主を強くする。で、カギになるのは宿主達の方ね、自分がそんな生命体に寄生されてるなんて全然知らないのよ。でもこの二人は、地球に舞い降りた孤独な寄生生物の宿主同士だから、自然に引き合っちゃうわけね。」
海は、食事もキスも、フェラチオさえも、きっとあらゆる行為を魅力的に見せるだろう遊の唇が、コミックに夢中で、想像癖のある少年ような言葉を紡ぎ出す様子が、この上もなく好きだった。
やがて、地下鉄の駅の入り口が見えてきた。
そこで二人は、別れなければならない。
二週間に一度のデートが終わる時だ。
姉の遊は、何事もないようにその入り口に向かって歩いていく。
姉弟だから恋人同士の儀式の様なものはない。
「じゃ、又ね」とあっさりしたものだ。
姉は当たり前のように、又、再来週、自分の弟と会えると思っている。
弟の海は、胸が引き裂かれそうな想いを押し殺していた。
確かに会える、、だが会えない日々が苦しい。
それは肉親の情愛と、男が女に感じる恋愛の感情の差だった。
三日後、雨が降った。
冬にすれば優しい雨だった。
近年の異常気象の一つの現れなのか、海の故郷である北国には、あるいは海の子供時代には、あり得なかった温かく緩い冬の雨だ。
それはシャワーの様に、自分の身体全身に降り注がれる掛け値なしの姉の愛をどこか思い出させる。
窓から聞こえる雨音を聞きながら海はそう思った。
血は繋がっているのに、大人達の身勝手な都合によって、赤の他人にとして幼い頃から別々に育てられ、ある日突然、運命によって「姉」として引き合わされた女性、「遊」。
今、神領海は、自分が大学に通うために遊の住むこの大都会へ上京出来た事の喜びを噛みしめている。
ただしそれは、偶然にも遊と巡り会ってからの話で、それまでは、海にとっての都会暮らしの実相は、実家での遺産相続に破れた者への体の良い所払いに過ぎず、薄ら寒いものだったのだが、、。
遊も家族と離れ、この都市での一人暮らしだったから、二人はそういった過去の経緯に囚われる事なく、この街でいつでも逢いたい時に逢い、語り合う事が出来た。
今頃、遊は何をしてるんだろう?
夜遊び好きでエネルギッシュな遊の事だ、仕事の疲れでベッドに横になって等という事はないだろう。
どこかで踊りまくっているか、飲んでいるか、それともどこかのジムでダイエットに励んでいるか。
ダイエットかも知れないな、と海は思った。
女性としてほぼ完璧と思えるプロポーションを持つ遊は、なぜか常に「自分が太っている」という強迫観念に取り付かれていたのだ。
それはモデルという職業故の理由ではなく、もっと別の所に原因がある一種の精神的な病気に近いものではないかと、海は密かに考えていた。
それだけが唯一の欠点であるパーフェクトな女性が、遊だった。
勿論、それが惚れた欲目である事を海は理解していたが、遊を知る人間に彼女の評価を聞けば、ほぼそれに近い答えが返ってくる筈だった。
更に人々が、遊の育ってきた経歴を聞き、現在の遊を知れば、その評価は、賢者や偉人に対する賞賛に変わるだろう。
同じ血を持ちながら、自分は男というだけで恵まれた環境に育ったのにも関わらずこのていたらくで、遊は貧困から這い上り、今やトップモデルに上り詰めようとしている。
しかも、遊はそういった諸々を、弟の海に引け目として感じさせた事は一度もなかった。
「自分は一体何の為に、この世に生まれてきたのか」という古典的な悩みを胸に抱くような海だったが、そんな彼が、一つだけ確信を持って言える事があった。
それは遊という女性を、姉に持てたという「誇り」だった。
「カイくんに友達が少ないのは、なんでも全力でやらないからだよ。だからみんな警戒するの、、本当はもっと出来るのに、自分たちの前ではその姿をみせない、、きっと何か別の事を考えている奴なんだって。良い言い方すると、君の実力が理解出来る人には一目置かれてる筈だし、ひょっとしたら密かにカイくんの事、尊敬したり憧れたりしてる男の子や女の子も一杯いるんじゃないかな?でも、そういう人達は、なんで自分には内心を打ち解けてくれないんだろって思ってる、カイくんの方も実際、打ち解けないしさ。」
成人した遊と再会して、一週間もたたない内に、海は姉にそう言われた。
自分にそんな力があるかどうかは別にして、人間関係については、図星だった。
運命は遊を邪険に扱ったが、遊はそれにひねこびることなく、自分と周囲の人間を大切にしながら、モデルとしての成功を手に入れつつあった。
そんな遊と、真逆の人生を歩んできた海にとっての光とは、まさに姉の存在自体だったのだ。
ベッドサイドに置いてあったスマホがなる。
特別に設定した着信音、遊からだった。
思えば通じる、、海は高鳴る胸を押さえてスマホをひっつかむ。
遊には上擦った声を聞かせたくない。
「・・カイ君、助けて、、私、もうもたない、、」
いつもの少し甘えたような遊の声ではなかった。
海は全身に冷や水を掛けられたような気分になった。
こんな声の遊は初めてだった。
誰かの悪戯か、そうあって欲しいと強く願ったが、その声は本物の遊だという確信の方がずっと強かった。
「落ち着いて!一体どうしたの?」
上擦っていた、落ち着いていないのは海の方だった。
遊の声は落ち着くどころではなく、医療について全くの素人でも判るほど、衰弱し同時に切迫していた。
「山の中の別荘に閉じこめられてる。全然身動き出来ないの。でも奴ら暫くここを離れてるみたい。今のうちなの、早く来て。」
「それだけじゃ、判らないよ。」
「後はメールで送るよ。喋るのだってつらいし、奴らいつ帰って来るかわかんないし。」
音声が途切れて、暫くするとメールが入った。
スマホのGPS機能を使ったらしい添付画像の地図。
見れば梨山県の中央部で、しかもそこは幸いな事に高速道路のインターチェンジからはそう離れてはいない。
自分の移動手段は、趣味で購入したバイクだから、最寄りの高速の入り口まで、渋滞があっても無理矢理突っ込めばすり抜けられるのが有利だ、あれこれ足しても二時間強、、、手早く計画を立てながら、海はライダースーツを身につけ始めていた。
警察への連絡はどうすると暫く考えて止めた。
自分でも何が起こっているかが判っていない。
第一、姉は警察を呼んでと言ったのではなく、弟である自分に「来て」と頼んだのだ。
その代わり、オートバイ始動のセルボタンを押す前に、海は遊から教わっていたモデル事務所の佐山という男に電話をかけた。
佐山は事務所で、モデル達のマネージャーの元締めのような仕事をしていて、遊からは何かあったら彼に連絡をしてと言われている。
その佐山から、遊は今、モデル仲間の真行寺真希ともに、香川杏子の元にいると伝えられた。
香川杏子、、世界的な有名デザイナーだった。
だったら何故、遊が助けを求める、、?
佐山は情況を把握していない、、、海の腹が又、冷えた。