義高様がいなくなる日[6]
パチパチと、
炎の爆ぜる音が聞こえる。
ザワザワと、
庭先の桜がざわめく、
見上げる空は暗く重く、
雲が月を隠して闇を彩る。
その空の上で、
ボウッと光るいくつもの炎は数知れず、
絶えず揺れ、動く。
夕刻よりお父様が放たれた義高様を探すための役人の篝火。
そこここに、不吉に蠢く灯りは、
山の上にも、
町の中にも、
その影を落とす。
どうか。
どうか見つからないで。
どうか逃げきっていて、義高様。
あの炎に照らし出されれば、
待っているのは、お父様のご命令。
〝義高を討て〟
〝義仲の息子を殺せ〟
という誰も幸せになれないお父様の命令。
だから、どうか闇夜のままで。
空の月が、星々が、義高様を見つけてしまわないように。
義高様が追手に見つからないように。
どうか。
どうか。
無事でいて。
倖氏さんの戻ってこない、
義高様のいない、
部屋の中で、
姫は一人で祈り続けた。
ああ。
だけど。
それなのに、詩が聞こえる。
一つは義高様の夢見た詩。
義高様が悪夢の底で聞いた詩。
そして、もう一つ。
それは、姫の知ってる詩。
夢の夢見る返し詩。
それらが、交互に紡がれる。
義高様の声で。
姫の声で。
あるいは知らない、でも聞き覚えのある声で。
でも。
でも、
その夢は、今は思い出したくなくて。
聞きたくなくて。
炎に溶ける、その詩は不気味に思えて、
姫は耳を閉ざし続ける。
両の耳を両手でぴったりと塞ぎ、
聞こえないように、
聞こえないように、
何の音も入ってこないように。
ギュッと目を瞑り、
口を閉ざして、
ただ心で祈り続ける。
〝無事でいて。無事でいて。〟
〝つかまらないで〟――と。
だけど音が。
声が聞こえた気がして。
声を。
義高様の声を。
姫を呼ぶ声を聞いた気がして。
姫は慌てて手を離し、
目を開けた。
すると、目に飛び込んできたのは、煌々と照らされた桜の木。
風で舞い上げられた御簾を超えて、
紅い緋い月の光を浴びた、一本だけの狂い桜。
なんだか、その桜に呼ばれた気がして。
〝大姫〟
義高様に呼ばれた気がして。
姫はボウッと廊下を下り、庭へ降りる。
裸足のまま土を踏み、
いつかどこかで、似た経験をしたことを思い出しながら、
外へと一歩、二歩、足を運ぶ。
桜へと。
義高様の方へと。
義高様の声がした方へと。
そして血色の桜の下へと辿り着いた時、
姫の耳に詩が舞い込む。
〝あしひきの 山の雫に 妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山の雫に〟
それは義高様の詩。
気がつけば、姫は口を開き、謳っていた。
その歌に次ぐ歌を。
「〝我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山の雫に ならましものを〟」
〝私を待っていて貴方が濡れた山の雫になれたらいいのに…〟
それは、昔々の物語。
悲しい物語の詩。
だから姫は、
姫はいつからか、知っていながら紡がなくなった言の葉。
だけど、
だけど今、
その歌を待っていたかのように、
強い強い、
今までで一番強い風が吹き、
赤い血い桜の花を散らせる。
一斉に何の苦しみもなく花を散らす、その姿は勇ましく、
降り注ぐ花びらは、
いつしか義高様が教えてくれた木曾の「天井桜」のように、
雨のように、
雪のように、
とめどなく姫の周りをヒラヒラと、
ヒラヒラと舞い、
落ちる。
その潔さは確かに義高様の言うように、美しく、美しく、
だけど、
だけど悲しいよ。
やっぱり悲しいよ、義高様。
美しく綺麗だけど、悲しくて寂しい。
すべて花を散らせた、もう何も持たない桜の木を見上げながら、
水滴がスゥーっと姫の頬に二つの線を描き、
ポタポタと地に落ちた桜の花びらを濡らした。
風の尾が後を引いて、
どこからか人の声を運ぶ。
〝木曾義高、討ち取ったり!〟
何となく、そんなふうに聞えた。




