義高様がいなくなる日[2]
姫は泣き止んだ後もヒックヒックしながら時々咳き込んでいた。
でもちゃんと話さなきゃ。
ちゃんと義高様に伝えないと思って、
まとまらない頭で言葉をつっかえつっかえ話した。
義仲様の裏切りのこと。
お父様は仇討ちを恐れてらしたこと。
義高様は姫のお婿さんだけど、
周りの者が義高様にお父様を殺させるって。
だから、
だから義高様を討つんだって。殺すんだって。
そう言ってらしたこと。
すると、全部聴き終えた義高様は、
姫の背中を撫でる手を止めて、
しばらく目を閉じて、
何かに耐えるように眉を寄せてらしたけど、
やがれ緩々と瞼を持ち上げると、
そこには、例の銅のような眼があって、
静かな口調で、
「そうか。」
とだけ言って、
中空のなにもない所を見て、
穏やかに穏やかに、
でも、とても悲しそうに笑われた。
姫はその眼と笑顔に、なんだか怖くなってしまって、
何かを義高様が一人で抱え込んで、
終わらそうとしているのが分かってしまって、
だから姫の背中にあるのと逆の手をとって、
両手でギュッと握って、
言ったの。
「逃げようっ!」
このままじゃ殺されちゃう。
義高様がいなくなっちゃう。
そんなの姫は嫌よ。
だから、
「逃げようっ、義高様! 木曾へ行こう!!」
そうすれば、お父様も諦めてくれるかもしれない。
少なくとも、そこにはきっと義高様を守ってくれる人がたくさんいる。
それに、
「それに義高様は木曽に帰りたいっておっしゃったわ。」
そう言って義高様の目を見たけど、
その目は、もうあきらめてしまっていて、
その眼は、錆びた銅のように赤く、それでいて何も見えていなかった。
まるで仏寺で見たお釈迦様のように。
何も映さない眼をして静かに笑みを浮かべてらっしゃって、
でも姿を模った、それには心は無いのよ。
姫はそれが悲しくて寂しくて、
「諦めないで。」
そう願った。
「一人で諦めてしまわないで。」
そう強く願った。
すると、いきなり天井から声が降ってきて、
「そうですね。最後まで足掻いてみましょう、義高様。」
ハッとなって義高様と一緒に上をバッと見上げたら、
突然、天井の板の一部がカタンと外れて、
その穴から倖氏さんが顔を覗かせて、ニッコリ笑って言った。
「とりあえず逃げられる所まで逃げてみましょう、義高様。」
倖氏さん、本当にすごいわ。
姫でも床下に潜ろうとしたことはあっても天井裏はないわ。
茫然と思わずそんな的外れな事を考えていたら、
「倖氏…お前…なぜ、そこから出てくる…?」
義高様も気持ちは同じだったみたいで、茫然と尋ねた。
すると倖氏さんは照れたように片手を頭の後ろにまわして、
「いやぁ、ちょっとお屋敷の裏の木をつたったりしてですね…」
「いや、そうじゃなく。」
義高様は頭が痛いというふうに手を額にやって、
「な・ん・で、屋根裏に潜るんだ、お前は?」
疲れた声で言い直した。
え?
「おもしろそうだから潜るんじゃないの?」
姫が不思議そうに義高様に聞くと、
「そんなん姫だけだ!」
一刀両断された。
うわぁーん。ひどい。
すると、天井から「くっくっくっ」という懸命に笑いを抑える声が降ってきて、
倖氏さんをキッと睨みつけると、
笑いを呑み込み呑み込み、倖氏さんは白状した。
「いえね、今朝方姫の素晴らしい泣き声に叩き起こされてですね、」
そこで姫は、頬を赤くしながらプゥッと頬を膨らませたのだけど、
ただ、倖氏さんが一層笑いで声を振るわせるだけの結果となり、
「これはっ、ふっ夫婦円満の一大事だとっ…っ、」
そう途切れ途切れに喋ると、「もう無理」とばかりに、
声を殺して笑うほうに必死になってしまった。
後で気づいたのだけど、この時、何故か義高様も顔を赤くして倖氏さんを睨みつけておられた。