4 予告をしておこう。
SCENE8 都内某マンション 5月31日 午前8時30分
「…え?」
マスコミがうるさいから、とりあえず秘書の用意したマンションで待機している。普段とんでもない忙しさの彼女には、思わぬ休暇となってしまった。決してありがたいものではない。
寝起きの顔は見苦しいので見たくはない。シャワーを浴びて、とりあえず目を醒まし、バスローブのままソファに座り、手持ち無沙汰のままTVをつけた。
そこには、見覚えのある顔がいた。いや、そうではない。それよりは確実に若く、そして、鋭い目をした。
「…まさか…」
部屋には誰もいない。だから、彼女は普段では絶対に表さない感情を見せる。見ているのは大きな鏡の中の自分だけだった。
『六月十五日に、記者会見をします』
TVの中の女はそう言った。
生きていた! この女が。
信じられないことだった。
そして戻ってきた。しかも、あの頃は決してさらさなかった、その素顔を明らかにして。何をするつもりだ。彼女は身震いがした。
彼女の名は横川仮名江。
職業は、内閣総理大臣である。
*
SCENE9 USA・ロスアンゼルス 5月31日 午後9時
「もう着いた頃よね」
時計を見ながら彼の妻は言う。
そうだね、と彼はあいづちを打つ。
「今度は僕たちが行く番だ」
「そうね」
彼はふとこの地にたどりつくまでのことが頭をよぎった。ひどく短かった気がする。けれど、実際はかなりの時間がたっている。あれが、自分の、転機だった。そして、現在隣に横たわる妻の。
「本当に、いいね」
「当たり前でしょう?」
彼の妻はにっこりと笑う。眠りに着く前なので、化粧はしていないが、調った顔は笑うとより美しい。彼と出会った時から、それは変わっていない。
「それじゃ寝ようか。明かりは」
「勿論消して」
美しい妻の身体には、大きな傷跡があった。
彼女はそれを決して見せようとはしない。それが彼女の最愛の夫であったとしてもだ。
もちろん彼はそれがどういうものかもよく知っている。彼とて傷跡の一つや二つ、当然な世界をくぐり抜けてくたのだから。だが、妻の気持ちもよく判るので、その習慣は結婚以来…する以前から続いている。結婚してもう八年になる。
「もうじきね」
「ああ、もうじきだ」
彼は彼女の髪を撫でる。
*
SCENE10 事務所「AHEAD」 6月1日 午前9時
「いくつでも聞きたいことはあるのよ」
FAVはTEARに道すがら言ってきた。
「でも、どれを先に言っていいのか判らないのよ」
音楽業界最強の「魔女」が弱音を吐くのは滅多にない。それだけMAVOの件についてはショックが大きかったと見える。
TEARは黙ってぽんぽん、と相棒の頭を軽く叩く。それで何となく、何とかなるんじゃないか、とFAVは根拠のない安心感を得る。
「おはよー」
ドアを開ける。と、既に話題の中心人物は居た。
「お早う」
サングラスはしたまま、近くに座っていた南米系日本人の女の子と何やら喋っていたらしく、朝のあいさつをされるまでFAVの耳に飛び込んできたMAVOの声は流暢な英語だった。
一応元気にドアを開けたFAVの表情も少し曇る。
「…と、じゃあとはP子さんが来るだけだね」
TEARが辺りを見渡して言う。
確かに。
MAVOとFAVとTEAR… かつてのPH7のメンバー、FAVの事務所「AHEAD」の中心スタッフ、カザイ君とエナ嬢とマナミ、TEARのマネージメントスタッフの小林君と中田さん、P子さんの事務所「野球愛好会」のチーフスタッフ武田氏、今回の最大の協力者であった「M・M」の石川キョーコと、その弟和衣、そして「マリコさん」こと、日坂万里子さんとMAVOの養い子のアドリア-ナ。
これにP子さんと、そのダンナでマネージャーをやっているD・Bが揃えば全員である。
「全員」
FAVはそうつぶやいて、ふと眉をひそめる。誰か足りないんじゃないの。そう言いたくてたまらないのだけど。
「遅れてすみませーん」
全然済まながっていない声で、まだ目が半分開ききっていないP子さんがD・Bと一緒に入ってくる。
「ありかをちょいと実家の方に預かってもらいにいってたんですよ」
「へー… もう大きくなったんだよね」
MAVOは軽く口にする。するとP子さんは、それに負けず劣らずの軽い口調で、
「やー、もう一年生ですからねえ… うちの親はあの子可愛がってるからいーんですがねえ」
「なら良かった」
にっこりとMAVOは笑う。おや、とTEARは思う。こういう表情はあまり見たことがないと思うが…
「とにかく座らせてもらいましょ」
そう言って、P子さんは空いている所に掛ける。D・Bもその隣の席に付く。
幾分か、沈黙が部屋全体を包んだ。皆何から切り出していいのか判らないのだ。もちろん、一番聞きたい質問は、全員が同じだった。MAVOをのぞいて。
そしてその緊張状態を破ったのは、P子さんだった。
「…えーと、いつまでたっても、らちがあきませんで… MAVOちゃんや、聞いてもいいかな?」
「はい?」
全員が息をつく。
ああ良かった、とFAVは内心ホッとする。自分が切り出したら、どんな口調になるか判らない。
TEARはFAVほどでないにせよ、自分が絶対に下手な興奮をしないという保証が無かった。…P子さんが興奮したところなど、出会ってこの方、誰も見たことがなかったのだ。
「この子は誰でしょう?」
アドリアーナを手で示した。指でさすなんて、失礼なことはしない。
「…ああ、あたしの妹のようなもの。アドリアナっての。可愛いでしょ」
「可愛いですねえ」
言われたアドリアーナは真っ赤になる。P子さんの言葉はゆっくりしているので、アドリアーナでも充分聞き取れるのだ。
「で、この子と一緒に、何処で暮らしてたんですか?」
「ロスのね、割と郊外の方かな。そこの飲み屋というか喫茶店というか… レストランというか… とにかく軽食屋にいたんだけど」
「この子と二人で?」
「前の持ち主のオバさんが故郷へ帰ってからはね」
「そうですか」
エナ嬢がつ、と立って、簡易キッチンへと向かう。
お茶を煎れる才能は、確実にこの中ではピカ一の彼女は、「AHEAD」に事務所が変わってからも、お茶を煎れるのは私の使命、とばかりにキッチンを彼女の城としている。彼女は大抵のここに出入りする人物の好みは知っていたが、新参者の好みまで把握していなかったので、一応全員に訊ねた。
するとMAVOが、
「あ、エナちゃん、あたしは冷たいミルクティがいいな」
「好み、変わったんですね…」
「まーね。ちょっと胃をやられてた時があって。で、アディにはカフェオレ」
「はいはい」
やがて、数種類の飲物の香りが漂ってくる。その中で、質問役を買って出たP子さんが続けた。
「それで、そこで五年暮らしていた訳ですか?」
「引っ越したことはないわよ」
「でもよくワタシ達もロスへは行ったんですよ」
「そう」
「ロスは広いってことですか」
「そうね」
ふう、とP子さんはため息をついた。横のD・Bははっとする。滅多にないことだけど。でも、その滅多にあるときは。
「いい加減にしなさいMAVO」
全員が、ダンナに遅れてはっとする。
P子さんの視線がまっすぐにMAVOに向けられている。それは、FAVとTEARが、かつて一度だけ見たことのあるものだった。
「いつまではぐらかすんですか?」
「皆があたしに一番聞きたい質問をするまで」
「そうですか」
全員がこの場の空気の温度が一度に10℃下がったような気がした。
「では聞きますMAVO。HISAKAは、いったい、どうしたんですか?」
全員が空気が凍り付くのを感じた。特に、FAVは、ここまで凍り付いた空間をP子さんが作れるとは思っても見なかったので、身体から震えが止まらなかった。
それは、確かに、自分もTEARも、一番聞きたい質問だったののだ。そして、この場にいる全員が。
一番聞きたい質問で、…そして、MAVOが一人で帰ってきたとき、最悪の答をそれぞれが無意識のうちに、用意してしまった―――
MAVOはサングラスを取って、でも目は軽く伏せたままで、正面向く、P子さんに、そして全員に答えた。
「死んだのよ」
P子さんの力ががくん、と抜ける。
「別に誰のせいでもない。事故よ」
「事故って… どういう意味?」
FAVははじけたように言葉を投げつける。
「この国でひんぱんに起こる交通事故と同じ位の確率の、事故よ。そう片付けたわ。それで終わりよ」
「警察は…」
TEARが問う。彼女はよくロスと日本を行き来する身だった。
「事故は、事故よ」
繰り返すMAVOの手が、先刻取ったサングラスを強く握りしめる。ぱきん、と音を立てて、それは、割れた。
「きゃ」
アドリアーナは英語で何やら叫ぶ。握っていた手はガラスの破片で傷つけられ、真っ赤な血を流していた。
「エナちゃん救急箱!」
カザイ君が叫ぶ。キッチンのかげで涙をぽろぽろこぼしながらも、エナ嬢は棚の上の救急箱を取って、カザイ君に手渡す。医者でもあるマリコさんはカザイ君から、まかせて、と言ってそれを受け取る。
手当を受けるMAVOを黙って見ながら、TEARは思う。
…こいつリストバンド外したんだ…
あの頃、何があっても外さなかったリストバンド。その下にあった傷跡。見られるとヒステリー状態になるくらいだったのに…
そう言えば、とあの空港でのことを思い出す。素顔をTVカメラの前でさらした。あれほど隠しまくっていたのに。
「…MAVO」
TEARのアルトの声が、再び静まり返った室内に響く。MAVOは手当を受けながら、なあに、と答える。
「あんた、何かやらかす気なんだな」
「大当たり。相変わらず勘がいいね、TEAR」
「どういたしまして」