1 石川キョーコ、締め切り間際に過去を突きつけられる
SCENE1 「M・M」編集部 5月8日 午前1時
かたかた、とワープロを叩く音だけが響く。
深夜の編集部に残っているのは自分しかいない。いつもだったら、一人二人、誰かしら残っているのに。
「M・M」の編集長、石川キョーコはふっとため息をつく。
何となく憂鬱なのは、締切が迫っているからでも、誰もここにいないからでもない。もう二、三年くらいずっと続いている、慢性の憂鬱だった。
「…あんたそりゃ贅沢ってものですよ」
と、呑み友達のギタリストのP子さんは細い目を精一杯広げて言った。確かに、相手より自分の方がよっぽどダメージは少なかったはずなんだけど。
だけど、程度はどうあれあの時から、何かを失った、という感覚は消せないのだ。五年前。HISAKAとMAVOという二人が失踪してから。PH7というバンドが消滅してから。
ふう、ともう一つため息をつくと、キョーコは上着を取った。もうこの位にしておこう。それ以上やっても、煮詰まった頭から出てくる文章は、気持ちのいいものではない。時計の液晶は一時を指していた。
と。
ころころ… と電話が音を立てた。がらんとした室内に響き渡る。
いきなりのことにキョーコは弱い。ばくばくと音を立てる胸に手を置きながら、受話器を掴む。きっとこの時間に掛けてくるならあの女くらいなものだ。真っ赤な髪の、大きな目の、昼夜問わずエネルギーが無尽蔵に湧き出てくる、あの「魔女」。エネルギーが余ったから「呑みに行こーっ」と誘うべく。やばいなそりゃ。キョーコは思う。まだ今日はあいつの相棒も USAから帰ってきていないはず。そうだ絶対。ああ…
そんな考えを一気に流すと、受話器を耳に当てる。
「…もしもし?」
『あ、「M・M」の…』
「編集部ですが?」
あれ? とキョーコは思う。これは女の声ではない。
ああ良かった、と向こう側で誰かと別の会話を交わしているように、声は一瞬離れる。ざわつきが、微かに聞こえる。一体何処なんだ?
『良かった…』
ちょっと待て。
キョーコはその声の主を思いだした。さんざんかつては聞いたことのある。
「もしもし?」
キョーコは強く問い返す。たぶんこいつは。
『姉さん?』
…やっぱり。キョーコはがくんと肩を落とした。
「…和衣… あんた一体何処からかけてんのよっ」
『成田。今、帰ってきたんだ。明日会える?』
「会えるも何もないでしょ? 帰ってきたの? それとも、来たの?」
『姉さんの細かい言い回しには今疲れてるから、あんまり付き合いたくないよ。会わせたい人がいるんだ。会ってよ。絶対』
「あんたねえ」
眉間にしわを寄せて、キョーコは上げかけた腰を下ろす。
「いきなり帰ってきて、それはないんじゃないの?」
『…MAVOさんを知ってるよね』
「は?」
一瞬耳を疑う。どうして、その名前がそこで、出てくるんだ。
「…あんた何を言いたいの」
『だから電話じゃらちがあかないから、会おうっての』
ああそうだった。キョーコは額を押さえる。このミュージシャン(アーティストではない)志望の弟は、いつもそうだった。何だかんだ言って自分中心なんだから。
自分中心な音楽関係者は多いけれど、キョーコの周りの、大きくなっていくアーティスト達はそれでもある程度は相手のことを考える。それと無意識に比べて、少しばかり失望しながら。
「…いったいあんた何を言いたいの? 明日? いいよ、会いましょう。何処がいいの? 東京駅には来るんでしょ」
『まだあの店はあるの?』
弟は安く長居できるコーヒーショップの名を挙げる。あるわよ、とキョーコは簡単に答える。
「じゃ、そこに十時。遅刻したらただではおかないからね、和衣」
『十時!』
そんな早く、と彼は一瞬涙声になる。
「…あんたねー …いきなり帰ってきて、締切間際のねーさんをとっ捕まえて、それでいきなり『会いたい』?そんなら、こっちの言う通りになさい」
数秒経って、うん、と返事が返ってくる。
「家の方へは言ったの?」
『いや、帰る気はないから』
「そう」
受話器を置いてから、キョーコは弟の言っていたことを頭の中で繰り返す。よく考えてみたら、妙なことを言っていた気がする。
MAVOさんを知っているよね。
ああ知っていますとも。
キョーコは思う。あの時期、あいつらを一番知っていたライターは自分だったと思ってるくらいだ。それが間違いでも買いかぶりでもないことは、業界の誰もが知っていた。
だから、あの時、信じられなかった。予想なんて全くできなかった。五年前、PH7のあの二人が「ある日いきなり」失踪してしまうなんてこと。
キョーコがこのバンドを担当し始めた頃は、まだ彼女もこの編集部に入ったばかりのライターだった。思うところあって、企業のOLであることを辞め、勢いで飛び込んだばかりの頃である。
八年前。1989年。彼女達がメジャーフィールドへ飛び込んだ頃。三年間、彼女達との付き合いは続き、メンバー五人中、残った三人とは今も相変わらずの付き合いを続けている。
それでも、その三年間に比べ、現在までの五年間というのは、残されたメンバー三人にも、自分にも、何かを失った時の感覚、ひどく暖かい部屋の中でも、不意に寒気を感じさせるような暗闇がある。
失いたくないものを失ってしまった後の日々。たとえ社会的にはそれまでのスタンスよりも上に行こうと、決して埋められない「何か」。
HISAKAとMAVOが居たら?
キョーコは失踪した二人の姿を思い浮かべる。最後に見た時には、ゆらゆらとした茶色の髪が光に透けて綺麗だった、リーダーでコンポーザーでドラマーなHISAKA。プラチナプロンドに色を抜いた髪、ステージとは全くかけ離れた、ありふれたブランドもののスーツを着こなしていた、「普通」の女の子の外見だったヴォーカリストのMAVO。
あの二人が居たら、この暗闇は埋められるのだろうか。それはキョーコの五年間の、最大の問いだった。最も楽しかった時間の共有者達。
だから、弟がその名を出した時に、何か奇妙なくらいの違和感があった「何故、今頃?」。
とにかく会ってみなくては始まらないな、とキョーコはとりあえず十時にはきちんと頭が起きているよう、眠るべく編集部を後にした。
*
SCENE2 東京駅地下街コーヒーショップ 5月8日 午前10時
10時と言えば、開店時刻です。
なんてAMのラジオが時報の直前に言ってそうなことをふとキョーコは考えた。
コーヒーショップに入るなり、彼女はカフェオレを頼んだ。結構大きめのカッブ。
編集部で煮詰まったコーヒーよりはずっと旨い。
別に煎れる人の腕をけなす訳ではないが、編集部は何故か紅茶党が多いのだ。するとコーヒーは暖めたまま、やがて蒸発していく運命にある。そして煮詰まってしまうのだ。それがまた原稿に煮詰まった時だったりすると、その苦さに顔をしかめずにはいられない。
既に外の人通りは激しい。連休明けというので、余計に会社勤めの人々の足は速まる。腕時計。携帯電話。ポケットベル。電子手帳。外を歩いていても、「会社の一員」。
そういうテンポにはなじめずに、キョーコは今の仕事に飛び込んだ。
かつては企業の「期待される新入社員」として見られ、「人付き合いのいい、頼もしい先輩」たちから何かと世話してもらったこともある。彼女は国立四年制大学の、それも結構ランクのいいところをそう悪くない成績で卒業している。落とした単位もない。遊びはさほどしていなかった。
学校では特にサークル活動もしていなかったが、かと言ってあやしげな活動だの、学生会だのに参加していることもなかった。
ようするに、「…あたしっていったい何のために大学へいったんだろう…」とぼやく一群の中にいた訳である。
そういう「真面目」な大学生の女の子が「企業」に入った時のカルチャー・ショックは、時間外の付き合いという奴である。
彼女は別にその仕事も企業も好きで入った訳ではなかった。たまたま、可もなく不可もなかったし、家庭だってそうそう娘を遊ばせておくほど余裕はなかったから、とにかく働くために入った、だけである。給料を貰うために働けばいいんだ、と思っていたのに、「社会」はそれ以上のことまで要求する。まあ毎朝のそうじくらいはよしとしましょう。当番制だし、綺麗になるならそれもよし。だけど、何故残業が多いのか、は理解できなかった。
どう見ても、就業時間中に詰めて働けば、確実に終わる作業なのに、その時間中にはだらだらとやり、残業と言ってはぼやく、同僚のOLのノリ、そしてその後というのに、わざわざ「会社の友達」と呑みに行っては上司のぐちを言う。キョーコは胸がむかむかした。
かといって、その頃の彼女には、それにどうこう言うだけの度胸はなかったし、今では、「それはそういう人なんだ」とある程度仕方のないこととして認めている。ただ、いずれにせよ、好きでないことは確かだが。
そして、その企業にいた人たちは、一様に、悪い人じゃないのだ。むしろ、「いい人」だから、キョーコは困った。「いい人」だから、呑みに誘ってくれる。お弁当を一緒にしようと誘う。日曜日にドライヴに行こうと誘う。はっきり言って、「いい人」たちなのだ。だが、キョーコには、「理解できない」人たちであったのも、事実だった。そのひとたちは、キョーコの1/20も本を読まない。音楽を聴かない。文章なんて書かない。TVのトレンディ・ドラマの構成についてなんて考えたこともない。
キョーコにはできる話題が無くなってしまう。
そして、そういった「いい人」たちに世話を焼かれるたび、付き合う回数が多くなるたび、何か、キョーコは自分の中に擦り傷切り傷が増えていくのを感じていた。それは、致命傷でないけれど、普段の生活の中で、確実に広がっていく痛みだった。
そんな痛みに耐えかねて、その企業を、ホワイトカラーとOLの充満する世界を飛び出した。働くだけなら、むしろ何も考えないほうがいい…でももし考えるのなら、好きな世界じゃなくちゃ嫌だ…
そしてキョーコは「好きな世界」へ飛び込んだ。就業時間はそれまでの倍以上だったとしても、それは、彼女の属する世界だったから。
呑むのも楽しいことを、それから覚えた。今ではあの「魔女」を始めとした業界きっての「酒呑み軍団」の一員であることは疑いようもない事実だった。
目の前を通りすぎていくスーツ姿のサラリーマンや、ハイヒール姿のOLを眺めていると、ふと、そんな昔の情景が、無意味に記憶のスクリーンを駆け回る。そこに痛みはない。かなりの努力で痛みを消した。そのことについてだけはもキョーコは自分を誉めてやってもいいと思う。
と、ウィンドウの外に、きょろきょろと辺りを見回す男がいた。横に若い女の子を連れている。男は所々すりきれた焦げ茶の皮ジャンを洗いざらしのTシャツの上に無造作に羽織っている。目にはサングラス。髪は長めで、申し訳程度にゴムでくくっていた。
連れの女の子は、肩より少し短めに、厚めのストレートの髪を切りそろえている。着ているものは悪くはないのだが、やや微妙なところで、周囲を歩く同じくらいの女の子とセンスが違うらしい。
いや違うな。キョーコは思う。センスというより、国民性みたいなものだな。以前、LAに行った時、ああいう配色でTシャツと短パンをつけている子をよく見た覚えがある。
その二人連れの「男」が自分の弟の和衣だということは、キョーコにはすぐに判った。あの馬鹿。また、迷ってやんの。
弟は、他愛ないことで、戸惑う。ここには何度も来たことがあるのに。「やりたいことをしたくて」家を飛び出した弟が、姉の自分との待ち合わせによく使ったのがここだった。彼の居場所は点々としてはっきりしない。キョーコの職場は東京駅なら行くのはそう難しくない。
最後に会ったときはいきなり、「アメリカへ行くから」と大荷物を抱えていた。初耳だった。そのことについてキョーコは相談の一つも受けていなかった。ショックだった。弟が渡米する、ということよりも、自分が相談されなかった、ということにショックを受けたのだ。それでも自分は物わかりのいい姉のつもりだったのだ。末っ子の彼にとって、自分が一番の理解者だと思っていた。ところがそれは自分の思いこみだったに過ぎないのだ。
結局、自分は傍観者にすぎない。
PH7の消滅のときよりはましだったが、似たような消失感がその時の彼女を襲った。それは、つい去年のことである。自分は成長してねーなあ、とも彼女は思う。そして、とりあえず忘れることにした。日常に、「M・M」の編集に、ミュージシャン達との付き合いに、とにかく楽しく過ごしたかった。そしてある程度は楽しく暮らしていたのだ。ときどき通り過ぎる、過去の情景以外は。
やっと気がついたらしい。和衣はコーヒーショップに入ってくる。そしてカウンターで女の子の分と二つ、何か注文すると、そのまま辺りを見回しながら自分の方へ近付いてきた。
「元気だった? ねーさん」
「まーね… とにかくすわんなさいよ」
トレイを置いて、彼はよっこいしょ、と腰を下ろす。その隣に女の子が座る。
「えーと、いきなり電話してごめん。でもねーさん、居るとは思ったし」
「それはいいけど」
キョーコは彼のとなりの女の子を指して、
「こちらはどなた? ガールフレンド?」
「んー」
微かに、彼は赤くなる。そして、そう言いたいところなんだけどね、そうつけ加えてから、
「それもなくはないんだけど、それよっか、もう少し事情があって。彼女はメッセンジャーなんだ」
「メッセンジャー? 誰に」
「ねーさんに。ねーさんのよく知っているひとの」
「誰よ」
誰かアメリカに知り合いなんていたっけ? キョーコは思い返す。LA在住のアーティストはたくさんいる。あの大柄なベース女もその一人だ。
かなりの時間を向こうで過ごすあの女は、時々スケジュールを縫うように戻ってきては、彼女の相棒の「魔女」に会いに行く。だが、彼女もそうだが、そういった連中はそんなまわりくどいことはしない。たいていは電話一本、じゃなければ、直接いきなり戻ってくる。
「…そういえばあんた、電話で変なこと言ってなかった?」
「変なこと?」
和衣はコーヒーをすすりながら、問い返す。オレそんな変なこといったっけ?と横の女の子に囁く。
「MAVOがどうとか…」
「そう、そのMAVOさん」
あっさりと言う。
「…あ… と、紹介が遅れたね。この子はアドリアーナ・ナガサキって言って…」
日系か、キョーコはそう考えた。
「MAVOさんの妹分なんだ」
時計の針が、逆回転した。