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銀河鉄道とおでん

短編シリーズ「アルプスのおでん屋」の最終回です。

ごはんを食べて元気になって、ハッピーに生きていこう。

 じゃあ、延命治療が必要になった場合は、お願いすることにしますよ。

 そう言って、母は淡々とサイドボードの用紙に書きつけた。

 薄暗い部屋はナースステーションに隣接していて、救急の患者が一時的に入室する場所である。このまま安定状態が続いたら、今日中に一人部屋に移るらしい。精密検査の結果待ちと、体調回復を待って、近日中に手術の予定だという。

 着の身着のまま駆け付けたわたしは、一歩早く到着していた弟の横で、このありさまを眺めていた。

 消化器のある臓器が炎症を起こし、突然高熱が発症した。そして意識も朦朧とし、動くこともできなくなり。

 頑健な父の異変を受けたのが昨日の23時で、今は翌朝午前9時。

 父の意識は戻らないが、赤くむくんだ顔と、時折無意識に動く手が、もう片方の腕に刺さった点滴を、抜こうと何度ももがいた。

 「縛ってくださいって」

 相変わらず淡々と母は言った。

 「拘束可、ってサインしといたわ。この分じゃ意識混濁状態で暴れないとも限らないし、わたしも四六時中ついているわけにはいかないじゃない。点滴を何度も抜き取るようなら、縛ってもらうことにしたから」

 ちらっとわたしと弟を見る。

 わたしは頷き、横目で弟の表情を伺った。

 両親、とりわけ父と姉であるわたしの不和を毎回食卓で目の当たりにし、不穏な空気を吸ってきた弟である。この人だって、楽しくて平和な、温かい家庭に飢えているはずだ。ただ一つだけ違うのは、ある程度自由を認められていたため、「普通の」青春を送れたことではないかと思う。

 サッカー少年として、それなりに厳しい人間関係を潜り抜けながら、親しい友達や恋人を作り、今は晴れて有名大学の学生である。その弟は、ごく正常な反応をしていた。赤く泣きはらした目をしばしばさせ、うろたえたように視線をさまよわせながら、父が縛られるかもしれないという現実について、無理やり納得しようと頷いている。

 「もしかしたら、という状態だったし、手術の結果、延命措置をとられたら、子供であるあんた達に影響が及ぶから、電話を入れさせてもらったわ。来てくれてありがとう、後は大丈夫だよ」

 こういう場合は冷静すぎるほど冷静な母だった。

 (感情を殺そうと思えば殺せるのに)

 病院を後にしながら、思っても仕方のないことを思った。

 (なんで、こっちが冷静になってほしい時には興奮していたんだろう)

 あの食卓で。


 湯気をたてた煮しめ、焼き魚、味噌汁、ごはん、そして漬物が並んだ、何の問題もない食卓の上で、暴言が飛び交い、茶碗が空を飛び。 

 「おい、この馬鹿野郎、なんとか言え。お前なんかがいるせいで気分が悪いんだよ」

 (何も言えない)

 「おい、お前からも言ってやれ、このバカ娘に。出て行けって言ってやれ。もうおしまいなんだって言ってやれよ」

 (どうすればいい。何を言えば許してもらえる。そもそも何をしてこうなった)

 押し黙った弟。泣きそうな顔をして下を向いている。攻撃対象はあんたじゃない。早く食って部屋に逃げればいいのに、不器用なやつ。

 「このやろう、バカにしてるのか」

 眉を吊り上げ、鬼の形相になった父親が箸を投げつけてくる。かろうじて目には当たらなかったが、恐怖が怒りに点火して、反射的に言葉が出た。

 「わたしが何をしたんですか。わたしが何を言ったんですか。わたしの何が気に入らないんですか」

 この野郎、と立ち上がり、感情に任せてガタガタと揺らしたテーブルから食べ物が飛び散る。

 隣席の母が力任せにわたしの後頭部を押さえつけ、テーブルに打ち付けた。額の激痛に耐えかねてもがくと、髪の毛を握りしめられたまま、ぎゅうぎゅうと押し付けられる。

 「謝るのよ、謝りなさい、はやく」

 耳元でつきささる声は、説明できない感情が張り巡らされている。

 ごんっ、ごんっ、ごんっ…。

 (ああ)

 うちから離れて、幽霊下宿を住処とし、大学に通うようになっても、故郷に戻るとおのれの現実をつきつけられる。

 ごんっ、ごんっ、ごんっ…。

 謝るのよ、ごめんなさい、悪かったです、それだけでいいの、はやく、はやく謝って。

 (ああ、本当に、逃れられない。逃れることなんかできやしない)


 フラッシュバックする数々の風景に、瞬間、息が詰まった。昨日の寒気で積もった雪が、重たく溶け始めている。苦しくなってきた息を整えるために立ち止まり、曇天に向かって白い息を吐いた。

 「姉ちゃん、元気だった」

 と、後から出てきた弟が追いついてくる。

 気づかわしげに覗き込んできた。

 「辛そうだけど、大丈夫か、どうしたんだよ」

 わたしは口元だけで笑って、気にするな、気を付けて帰りなと言って弟に背を向けた。

 そうだ逃れられない。

 だけど、どんな人生を歩むのかなんて、自分の責任だ。

 同じ家庭で育ったくせに、弟はあんなにやさしいいい子になったじゃないか。

 ざくざくと歩いていると、また後ろから追ってきた弟に肩をつかまれた。淡泊で無口な弟がなんの用だ。立ち止まると、弟は小さな声で言った。

 「お父さんな、たぶん、脳血管障害の気もあったんだよ」

 え、と聞き返した。医学生の弟である。父の体について思い当たることがあるのだろうが、なぜ今それを言う。

 「あのな、一種の認知障害の可能性がある」

 何となく、弟の言いたいことが予測できて、わたしは口をつぐんだ。

 突然の怒りを抑えきれず、暴言や暴力が日常的に続く。通常、怒りの原因にすらならないようなことが気に障る。あるいは妄想が入っている場合もある。そういった精神症状が若年から現れる場合もありえる。

 それはもう、障害の領域なのだと。

 「症状(と、弟は言った)を思い返すと、そうとしか考えられないんだよ。だから姉ちゃん」

 地獄絵図の食卓で育った、あの長い年月には理由があるということだ。

 わたしは何度か頷いた。そして、軽く弟の肩を押し返すと、速足で歩きだしていた。早く、早く、電車に乗りたい。ここから離れてしまいたい。

 だから、姉ちゃん、姉ちゃんは何も謝ることなんかなかった、もちろん悪いところなんか一つもなかったし、ののしられることも、殴られることも、そんな理由はひとつもなかったんだ。

 まるで、約束がある人のように駆け足で駅に飛び込み、あくせくと切符を買う。

 まだまだ時間があるけれど、それに寒いけれど、ホームに急いだ。

 待っている人などほとんどいないホームで、茫然と足元の線路を見る。寒気にさらされて、冷たく錆びたレール。ばさばさと鳩どもが飛び、空に舞う。そして曇天から、ふわふわと灰色の羽が一枚、落ちてきた。

 

 それでもこの現実の中に生きているからには、人は空腹を覚えるものなんでしょう。

 身を切るような寒さの中で立っていると、ぐうとお腹が鳴った。

 腹減った…と、へたばりそうになる。

 (あかん、これはあかん)

 漫才師みたいな口調で思いながら、ぐうぐうと連発するお腹をかかえ、ホームをさまよった。

 KIYOSUKUの並びに、駅そば屋がある。

 立ち食いのその店に、のれんをかきわけて飛び込むと、客は誰もいなかった。

 テレビを見ながらぼんやりと親爺が一人、煙草をふかしている。

 ぜいはあと息を切らしながら、わたしはカウンターに片手を置き、たぬきそばを頼んだ。

 

 駅で食べるそばは、旨さが倍増するような気がする。

 熱いどんぶりに入ったそれは、暗い照明に照らされてつやつやと輝いていた。出汁が甘い光を放っている。かき揚げもほどよく汁を吸い、表面に出ている部分はさっくりとした見た目で実に旨そうだ。

 かき込むようにそばを食べたら、この世のものとも思えない至福感が沸いてきた。

 かじかんだつま先から、ぎゅうぎゅうぐるぐると複雑に悩んで病んだ頭の中まで、ほかほかと温まり始める。

 この甘い出汁が。

 この固いそばが。

 このざくざくした荒いてんぷらが、わたしを活かす。

 (ああ)

 舌も焦げよとばかりに出汁を飲み干しながら、わたしは目を閉じる。

 熱い命の源が胃袋に収まり、心臓がどくどくと元気に動く。冷たくこわばっていた指先も温まり、頬っぺたも湯気にさらされて、ほかほかしていた。

 生きていける。大丈夫だ、わたしは。

 あの幽霊下宿で、あの孤独な大学で、バイトで、そしてこの世間で、これからも、わたしは。

 大丈夫。


 「ハイジ」というものは、わたしの一部だったのだろう。

 名作劇場みたいな世界にあこがれていたからな、昔から。

 「牧場の少女カトリ」では、サクセスストーリーが約束されていた。

 「小公女セーラ」では、過酷な目に遭えば遭うほど主人公の美徳が強調された。

 満員電車で、つかまり立ちをしながら揺られた。そのうち席が空いたのですかさず座る。冬の昼間は短く、外はだんだん日暮れに近づいてきて、やがて通りすがりの町がサクマドロップみたいな明かりをあちこちに灯しだした。

 わたしは少し眠ったのだと思う。

 夜が近づく電車の中で、何故かジョバンニとカンパネルラの夢を見た。

 (あははー、おでん食べなよー、そいで、どこまでも一緒に行こうねぇー)

 銀河鉄道というシリアスな設定の中でも、こいつは空気を読まずにアホ元気やねん。

 がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん、がたんごと…

 (約束だよ、どこまでも一緒に行こうねぇー)

 どっちがジョバンニでカンパネルラだか、分からんよ、ハイジ。

 心地よく揺られながら、短い夢から目を覚まし、わたしはうっすら涙ぐんでいるらしかった。胸に手を置くと、あの活発で弾けそうに元気な、オレンジ色の輝きが宿っているような気がする。

 ハイジ。


 さて。

 12月25日の夜8時30分が過ぎようとしていた。

 件の、サンタコスプレケーキ売りのバイトは、いよいよ終盤を迎えている。

 同じサンタ仲間ときたら、女どもみんなして友達同士でバイトに応募してきたらしく、最初から最後までわたしはポツンだったが、ケーキが売れるにつれて仕事に専念することができて、さして苦にならなかった。

 25日になると、朝から2割引、正午からは4割引、そして今は半額の大特価で酔っ払いを相手にアピールする。

 「やー、奥さんキレイだから、半額にしときますよっ」

 「社長、しゃーちょー、社長さんがたっ、ケーキのお土産はいかがですかっ、お父さんの株も上がりますぜっ」

 一次会が終わったばかりの酔いどれ社会人が相手だから、ちょっとくらい無礼なのがいいんだよ。

 とか思って調子に乗っていたら、「まっ!なにこの子」という顔をして見ないふりする人もいる。

 本店からの指令を受けるためのピッチに、だいたい30分置きに連絡が入る。現状の売れ行きを聞かれ、状況を説明すると、次の割引の指示がある。たまに、こういう無茶ぶりも入るが、金をもらえるんだからしょうがない。

 「踊っても歌ってもいいから、他のお店と差をつけて」

 (なん…だと)

 一瞬凍り付くが、無情にもピッチは指示だけ下して切れてしまった。

 振り向くと、簡易テントの中で仲良く楽しそうに(暇そうに、ともいうが)バイトを続けている可愛らしい女子大生レディサンタ達が行きかう人々に手を振っていた。アイドルみたいに。

 ええい、ままよ、と目を閉じる。

 すうっと腕を上げ、あやしげにくねらせる。

 そして片足を上げ、ふぁっと飛び上がり、素早く着地し、かくんと首を曲げてカッと目を開ける。

 歌舞伎みたいだろ、サンタだけど。

 背後のレディサンタたちが、ぎょっとしている様子が見えるようだ。

 通行人たちも、え?という顔で一瞬足を止めるじゃないか。

 バタバタと駆け足の音が近づいてきて、様子を見に来たらしいお店の奥さんがわたしの腕をつかんだ。怒られるかと思ったら、奥さん目をキラキラさせてるじゃないか。

 「いいわ、もっとやって!そいで、ほらっ、これを持って」

 星川洋菓子店 特売!半額セール!

 赤マジックで書きなぐってあるボール紙じゃないか。

 やるしかなかった。

 すうー、ぴたっ、ふぁっ、ひょおおおお、どん!

 とか、効果音をつけるならこんな感じのヘンテコダンスを踊っていると、またもピッチが鳴り、次なる指示「歌いなさい」が来る。

 何を歌わせるんだか。

 クリスマスらしい歌なんて知らんぞ。


 かろうじて何となく覚えているB'Zをやけくそぎみに歌い始め、両手をヘリコプターみたいにしてくるくる回ってやった。

 そうしたら、ギャラリーができ始めるじゃないか。

 やけくそになって歌っていて、はたと気づいたが、これ、ハッピーエンドのクリスマスソングじゃねぇぞ。

 いいのかこれで、と心細くなって、思わず歌が途切れそうになった時、パチパチと拍手が鳴った。

 見覚えのある女の子が笑顔で跳ねている。

 一瞬、ハイジかと思ったが、もちろん違った。

 スーパー大学前のパン屋のバイトさんである。

 「いいわよー、がんばってー」

 と、声をかけてくれながら、五号ケーキを一つ買ってくれた。

 「ありがとう、ここのお店のお菓子、好きなのよ」

 つやつやの頬でにこにこしている。ファー付きのジャケットを着て、デートの帰りかな。

 会計を済ましていると、またピッチが鳴った。

 ぐったりした気分で電話に出ると、「ごくろうさま、もう終わっとこう。好きなケーキ一つ上げるから、選んどいて」と、店長が元気よく言ってくれた。

 今から行くからさぁ、もうちょっとだけ売っててよ、うちの奴が君のことすごくほめてたよ。

 そんなご褒美みたいな言葉もついてきた。

 何となく振り向くと、もはやクリスマスも終わりに近づき、誰もケーキなんて今更買わないわよ、とでも言いたげなレディサンタ達が、暇そうに喋りあっていた。ふいに彼女らと目があうと、何だか気まずそうに視線をそらされる。

 (勝った…?)

 別に誰も勝負していないのだが。


 ケーキをもらえると言っても、自分しか食べる人間がいないので、小さいブッシュ・ド・ノエルを選んだら、これも持っていきなと六号の生クリームケーキを持たされた。

 夜道を、チャリの前かごにケーキの箱を積んで帰宅する。幽霊下宿に。

 真っ暗な窓の、独り暮らしの、いわくつきの部屋に、今日もわたしは戻る。

 ハイジがわたしの一部だと思うのは、あれ以来、ハイジがいなくたって霊現象が起こらなくなったからだ。除霊体質のハイジがわたしの中にいるから、変なものも寄り付かないのだろう(と、わたしは思うことにした)。

 今晩から大雪が続くという。

 底冷えがし、床から冷気が立ち上るみたいだ。

 台所の明かりをつけると、ステンレスの鍋がコンロに乗っていた。今朝作ったおでんである。

 ちょうどよく味が浸みこんでいるだろう。

 鍋に火をかけ、やかんで湯をわかし、暖房を入れ、テレビをつける。

 それからお湯割りの準備をし、風呂に湯を入れようとバスルームに入った。

 (ここで手首切って死んだ人がいたんだよな)

 改めてそう思いながら、蛇口からお湯を出した。

 自分で調節するタイプの風呂なので、熱くなってきたところを見計らって水も加え、湯加減を整える。

 実に気持ちよさそうに、ひたひたと溜まってゆくお湯を見ながら、鮮血が湯船にあふれている風景を想像してしまった。

 (引っ越そう、本当に)

 悪いものがこびりついている、この部屋には長くいられない。

 金銭的な問題は、バイトを続けていれば何とかなる。

 (でもなあ、今のバイト、人間関係が)

 お湯を湯船にためる間、台所に戻った。

 ちょうどよく温まったおでんを皿に取り、大根を口に入れる。

 柔らかく煮しまった大根の味が体中に浸みわたり、そして、わたしはまた活力を得るのだ。

 

 六号の生クリームケーキは、明日、講座にもっていって、学生たちに分けて食べよう。

 ついでにこのおでんもタッパにつめて持って行って、つまんでもらうのがいい。

 

 唐突に生まれたこの考えに、最初わたしはぎょっとしたのだけど、次の瞬間、心が思い切り軽くなった。自分でも驚くほど、明日が待ち遠しくなってくる。

 同時に不安も湧き上がる。

 どきどきと、告白する前の女子中学生みたいに。

 でも、もう一口大根を食べたら完全に心が決まった。

 やかんが鳴り始め、お湯が沸いたことをわたしに告げる。立ち上がってポットの用意をしながら、わたしは明日のことを考えていた。


(アルプスのおでん屋シリーズ 終わり)

読んでいただいた皆様、心から感謝いたします。

そして、美味しいお食事を大切な人と一緒に、楽しくお召し上がりになりますように。

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