那由多。
「菜の花の香りってさ、エロティックだよね」
私の上で、男は呑気にそんなことを口にした。花瓶に活けられた、菜の花を眺めながら。私はなんと答えただろう。たぶん「くだらない」とか「興味ない」とかそんなこと。そうやって私たちは気持ちいいように動いて、併せたわけでもないのに同時に果てた。
どんな男とセックスしようが満足する身体に生まれてきたら楽だったのに、といつも思う。思うということは残念ながらそうではなくて、すごく好みだったのに寝たら外れということも幾度か経験してきたということだ。そういう恋は往々にして終わりが早い。
そしてその逆もありえる。好きでもないけれど、身体の相性はいい奴。そういう奴と巡り合ってしまうとタチが悪い。いやけして、今目の前にいる男がそうだと言いたいわけではない。かろうじて、たぶん。
服を着ることもシャワーに行くこともなく、男――ナユタはベッドから降りて菜の花に近づいた。つい先ほど、まだお天道様が空の真ん中にある時間に私が摘み帰ってきたもの。無目的にただ茎を折られてきたもの。それに鼻を近づけ、彼がエロティックだと評した香りを吸いこんでいる。
「ねえ、キョウは嫌い?」
それには答えず、私は裸のままシャワーへと向かった。いつの間にか空には雲が出ていて、窓の外は薄暗くなっていた。
私とナユタは恋人という関係だ、たぶん。そもそも恋人と友人のボーダーラインをセックスするか否かで設定するならば、だけれども。
「みんな消えちゃったし、カフェでもいこうか」
半年ほど前に誘われた合コン。いつもなら断るそれも、主催が同じ部署のお局さまだった時点で拒否権はなかった。しかたないとため息片手に参加したものの、相手方はなかなかに良いメンバー揃いで、幸いにも好みの男性がそこにはいた。
もう少し気合いいれてくれば良かったかな、そう後悔しつつもゆっくりと距離を縮める。お局さま主催ゆえ、目立った動きは出来ないものの、なかなかに好感触だった。
そう、だったはずだった。
一通り食事も終わり、店の外に出たとき、私はひとりで立っていた。良い感じだったお目当ての男性は結局、部署で最年少のピンクやレースが大好きな女の子と並んで夜道に消えて行った。それどころかもうそこそこいい歳のお局さまですら、渋めの男性と腕を絡ませてネオンの中へと進んで行っていた。
そのときの醜い感情はなんてさもしかったんだろうと今なら思う。やっぱり若い子がいいのね、あんな中身のない女が。そんなくだらない、女のプライド。だけどそれを破り捨てたのは、隣に現れたナユタだった。
たとえばそれが、カフェではなかったら。私はきっと軽蔑した目だけくれて去っただろう。
たとえばそれが、告白に近い熱を持っていたら。私はきっと冷めた瞳で断りの文句でも入れただろう。
だけどナユタのそれは、本当に、ただしかたないし、という湿度を持っていた。今帰ってももやもやするだけでしょう、と。
はっきり言うとそのとき私はナユタの名前すら覚えてなかった。席にはいた。時折会話も聞こえてきた。だけど私とは遠く、かわした言葉も数えるぐらい。顔が好みでなかったと言われればそうかもしれない。整ってはいたけれど、中性的で好みではない顔だ。
「あぶれた者同士?」
半ば嫌味で私は言う。
「あぶれた者同士」
彼は眉ひとつ動かさず、トーンだけ変えて復唱した。そして続けた「たぶん、君が狙っていたのは三原先輩でしょう」ふたりが消えて行った道を指しながら。
そこで屈辱的だと私は怒れば良かったのかもしれない。だけど口を開く前に彼が「俺も武藤さんだったんだよね」と臆することなく言ってしまったから。
そんなに若い子がいいわけ? という女のプライドが働いてしまった。それが何よりの間違い。
でも意外にも夜と共にしたのはそれから一ヶ月も後だった。彼は私よりひとつ年下だったけれど、若い男にありがちのがっつく姿勢はほとんど見られなかった。
「俺がナユタで君がキョウ。なんか、運命みたい」
その上情熱的でもなかったそのベッドの中で、彼はいつもの調子でそんなことを言ってのけた。
私は「馬鹿じゃないの」と答えたはずだ、たぶん。
そして一度も、私の名前は確かに京だけど、ケイじゃないとは言っていない。
シャワーを終えて適当に着替えてから部屋に戻ると、ナユタは既に眠りに落ちていた。着てきたデニムだけを履いて、ふたりの汗に湿ったベッドに身を沈めながら。部屋に差し込む光は既に橙色。ただ雲の多さから、いつもほど眩しくない昼間の終わりだった。
ふと目を遣れば、花瓶から菜の花が消えていた。もちろん消失したわけではなく、それはナユタの手の中にある。何気なく鼻を近づける。甘いような、青いような独特の香り。悪いけれど、その中にエロティックな要素は何もみつけられなかった。
床に散らばる衣服を片付け、私は青いだけのカーテンを引いた。
セックスフレンド、という言葉がある。恋人ではなくて、ただしたいときにするだけの関係。詳しい定義は知らない。でもきっとそんな意味。
友人は、私たちのことをこういう関係だという。もしくはそれと大差ないよ、と。だけどもしそれならば、私たちはきっと一緒に食事に行ったり、ドライブに行ったりはしないだろう。寧ろセックスだけでいいのなら、早々にそう割り切ってもう少し楽しんでいる気がする。というかじゃあセックスを楽しんでしているのかと問われれば、答えには窮するんじゃないだろうか。
ナユタにとって、セックスをするということは、カフェに行くとか映画に行くとかと違わないのではないかと思う。だっていつも始まりは彼からなのだ。「セックスでもしようか」そのひとことから。ほんとうに、それは「カフェでも行こうか」と変わらない。
ならどうして私がそれに応えるのかと言えば、答えはひとつしかない。気持ちいいから。今まで経験がないぐらい冷めているのに、今までの男とは比べ物にならないぐらい、きっと身体の相性はいい。
ああ、そもそも恋人というのは恋愛感情がなければ成立しないのかもしれない。それに対しての答えは保留したい。だって今まで一度も好きだとか愛してるとかなんて言ったことがないのだ。もちろん、言われたことも。
あの日、互いに獲物を逃してしかたなしにくっついた関係。それを彼は「何もないよりいいんじゃない」と笑っていた。今さら恋をするには、ちょっと歪な関係。
それがふたりにとって、本当にいいのか悪いのかなんて、わかるはずもない。何もないよりいいならば、なくてもいいんじゃないだろうか。
「うん、そうかも」
今は夢の中を生きているナユタが言った。どんな夢を見ているのかなんて、もちろん興味ない。
*
「ねえ、中原さんって、彼氏いるの?」
春という言葉が好きだ。そして春がつく言葉も。春眠、春雷、春雨。だけどこの、春を苗字に持つ上司は嫌いだ。
「何か問題でも」
キーボードの上で動かしていた指を止め、右前方を見る。そこが上司、春木の席。彼はうちの会社にしてはそこそこの美形で、柔和な、それでいて軽い口調の独身男性だ。魅力と財力を兼ね備えてなお結婚しないのは、つまりそういうことだ、その歳ならば。
「問題って。いつもおもしろいなあ」
常に持っている万年筆を片手に春木が笑う。その姿に私の右隣の同僚が頬を緩ませる。それを見て、私はため息を堪える。
「チャンスがあるかないのか、知りたいだけなのに」
それはさらりと言ってのけているようで、実はきっちり狙っているんだと私は思う。あえて仕事場で言う、他の人が聞き耳を立てている場所で言う。そうやって、いやらしい下心なんてないんだよとアピールしている。
事実、その顔はすごくよく出来た表情だ。映画やドラマよろしく、さりげなくモテる男のスマートな微笑み。隣の同僚の頬には朱がさし、同時に歪んだものを瞳に浮かべていた。
まったく、反吐が出る。仕事も遊びも出来る男には、私語を慎めと注意も出来ないこの部屋の一番偉い男にも。
「あるかなしかで答えが欲しいなら、あるんじゃないですか」
別段どうでもよい話題だった。
「あ、じゃあ彼氏いないんだ」
「いえ、一応いますけど」
「一応って。それにいるならなしでしょう」
たぶんこの男は、うちの会社のめぼしい女性全員と寝たいんだろう。ついこの間、受付嬢と噂が発生していたというに。とりあえず私なんかより、うちの先日失恋したお局さまに声をかけるべきじゃなかろうか。恋を失ったばかりの女は脆い。今ならたいした口説き文句も使う必要もなく、簡単に落とせるだろう。もっとも、未だ同衾したことがないならば、だけど。
まあ唯一というか、何かしらこの上司の良いポイントを挙げろと言われたらこう言ってやろう。「あなたの良いところは、女性の年齢はたいした基準にならないことです」
そんな私の心の中など関係なしに、春木は眉尻を下げて笑う。
「僕は修羅場は嫌いだから」
なんという素敵な言葉。好きな相手と好きなときにだけ身体を結べる男だからこそ言える軽さがそこにはある。
もちろん、ありかなしなどどうでもいい。というかなくていい。私は単に結婚しているわけでもないのだから、チャンスなんて得ようと思えばいくらでもあるんじゃないのと言いたかっただけだ。
しかしこの男は、そういう面倒なことが嫌いならしい。納得。
「でも春木さんにだったら、奪われても嬉しいかも」
不意に隣の同僚がうっとりとした声で呟いた。その台詞に唖然としながらも、ふと気づく。
つきあうのが面倒なら、そういう相手もいいのかもしれない。好きなときにだけ会う人。
ややこしいことは一切なし、デートすることもプレゼントを贈り合うこともない。ひとりで寂しいなというときに、呼び出したらきてくれる。
ただ春木と私では、セックスが好きかどうかという点が違う、きっと。そしてそれはセックスフレンドだ、だから却下する。
あと一応春木の名誉のために認識しなおしておこう。この男は面倒なことは嫌いかもしれないが、女を幸せにするだけの技術には長けている。そうでなければ、あちらこちらで浮名を流しても、隣の同僚のような女は生まれまい。
もっともそれで好き嫌いのポイントが上下するわけでもない。春木は春木で、私は私だ。
ならばナユタはなんだろう。デスクの上に置かれたマグカップを眺めて思い出す。これはナユタがくれたものだったと。それぐらいの認識の男が、果たして本当に恋人なのか。
疑ったら、きりがない。
「でもそうか、じゃあ中原さんは幸せなんだね」
同僚の言葉は無視で春木が言った。
それに応えることはなく、私は仕事を再開した。
*
結局は独りがいやなんでしょう。それは友人から向けられた言葉だ。
そんなことはない。私は答えた。しかしすぐに追って“けれど”がついてしまった。その割に後が続かない私に、友人は呆れたような笑顔をくれた。
おひとりさま、という言葉は嫌いだ。何を思って“さま”をつけているのだろう。そんなの、結局独りでいることが寂しくて惨めで悔しくて。でもそれを認めたくない、知られたくないだけの意地だろう。そうやって肩肘張るから他人が近寄れない。寂しくないの、独りを楽しんでいるんだから邪魔しないでくれる? そうやって虚勢を張り続けて、群れないと行動できない女をあざけ笑う。私が男なら、そんな底の知れている女、付き合いたくない。
じゃああんたはどうなのよ、と言われれば、私は独りがけして嫌ではないタイプの女だ。いやそもそもそこの部分は女を捨てているのかもしれない。平日にはひとりでランチに行くし、映画館もショッピングも、群れなくても出来るものはひとりでも出来る。
だからそれがおひとりさまなんだってば、と言われたら断固否定させて頂く。私は独りを気取りたいわけじゃない。単純に、団体行動が苦手なだけの協調性のない女だ。
合コンのお誘いは数合わせ、会社の飲み会は仕事の延長。特技は聞いてなくても打てる相槌。
それでも恋愛はそこそこ好きだと思う。同性よりも異性が付き合いやすいのは事実。最初に付き合った男は親友だった。友情がいつしか恋愛感情にすり替わったような、今思えば幼い関係。だけどまあ、それがそれなりに幸せだったおかげで、恋愛は悪いものじゃないと刷りこまれたのかも入れない。だから、男に対しては冷めることなく、チャンスがあればいくらでも食いついたし、それなりの努力はしてきたつもりだ。今までは。
一体なんでこんなことを急に考え出したかというと、目の前の交差点にナユタがいるからだ。隣に立つ女の子と喋りながら。
今時刻は正午過ぎ。私はいつものようにひとりで会社を出て、わりとよく通うカフェへと来ていた。ランチプレートをオーダーして、鞄に入れていた文庫本を取り出したところ。周りは似たりよったり。スーツにダサいOLの制服。みんな仕事の合い間、つかの間の休憩の時間。
私はサービスで置かれた水に口をつけることはなく、文庫本を開こうとした。しかしそこで読みかけのミステリーはとてもじゃないが食事どき向けではないシーンだったことを思い出す。
だから、視点をあげて、明るい外を見た。
行き交う車、オフィス街ゆえにまばらな人々。大きな交差点の向こう、見知った顔を見つける。いつもと変わらない、ラフな格好のナユタ。
ああ、やっぱり。
思わず口に出そうになった心情は、運ばれてきたコーヒーの香りでも消すことが出来なかった。
うすうすは気づいていた。いやうすうすもなにも、ずっと疑っていたはずだ。何を今更。
だけど私は、少なからずショックを受けていた。
それを紛らわす本能なのか、無駄なことばかりに目がいってしまう。隣に立つ女の子は背が小さくて、可愛らしいカーディガンとピンクのふわふわなスカートをまとっていて、足元はローヒールのウェスタンブーツで、どう見ても私より年下だ。隣に立つナユタは何か袋を持っている。会社の買い出しなのか、これから帰って食べるご飯なのかはここからでは確認できない。ふたりは笑顔で何かを話しながら、青になった歩道に足を踏み出した。女の子が時折大きく破顔する。どこからどう見ても楽しそうだ。ナユタの顔もいつもと何も変わらない。口調まで再現できそうなぐらい、いつも通り。
だけど、そんなことどうでもいい。
私は今、目の前に突き付けられた事実にショックを受けないことに、ショックを受けているのだ。
年相応に、色んな経験はしてきたと思う。恋人の浮気を疑って問い詰めたことも、浮気現場に鉢合わせして迷わずご自慢の股間を蹴りあげたこともある。勘違いが勘違いを呼んでひとり部屋で泣いたことも、嘯かれたことを後悔したこともある。それらは幼いからだったかもしれないが、かといって現状、それらに寛大になれるほど、悟りを開いたわけでもない。
それなのに今の私には隣の女が誰かという疑問も、ナユタに対する怒りも湧き上がってこない。それどころか、ほらやっぱり、という気持ちが生まれてくる。何度も感じたはずでしょう、ふたりの関係って幸せなのかしら。
嫌いだったら、セックスはしない。いやそもそも部屋に入れたりしない。デートにも行かなければ電話もメールもしない。どんなに相性が良くたって、気持ち良くたって、私はセックスフレンドを作るほど、性に餓えてもいない。だからナユタのことは嫌いではないのだと思っていた。
ああ、そうか。私はひとつのことに気がつく。
私はきっと、ナユタがいなくても、生きていける。
決定打は案外、あっさりと生まれるものなのかもしれない。
*
「あ、うん。そう」
私の言葉に、ナユタは目を丸くさせてからそう言った。窓の外からは微かに潮の匂いがやってくる。スピードに併せて風がゆるゆると流れこんでくる。カーステレオはビートルズを歌っていた。
「よそ見しないでよ」ハンドルを任せている彼に注意する。例え真っ直ぐな国道でも、悲劇は唐突にやってくるものだ。
たとえば、私の口から。
と思ってみたものの、やはりナユタの表情はさして変わらなかった。つまりそういうことだ。
「そうか。そうだよね。やっぱり」
動揺して変なことを口走っている。ようになんて見えない。いつもと変わらないのんびりした調子で、中途半端に笑いながら音を奏でる。
私は視線を前方の車に移した。どこにでもいる白いセダン。
「今日?」
信号はまだ来ない。あまり車通りの多くない道を、走り抜けていく。
「そうね。今日」
派手なフルフェイスを被ったバイクが、私たちの車を追い越してゆく。
まるで他人事のようで、すごく現実的だった。ふたりが精一杯の小さな車の空気はちっとも重くならなかったし、湿っぽくもならなかった。ちらり彼を盗み見ても、前を見つめる瞳に水膜が張っているようにもみえない。鼻の頭も赤くない。顔色もちっとも悪くない。
「ないよりいいっていうのは、なくてもいいんだよね。やっぱり」
彼の言葉に無言で肯定する。つまり、そういうことなんだ。
悲しむふりが出来るほど、私たちは子どもじゃなかった。こういうことぐらい、いつまでも青くいてもいいんじゃないかと思う。その方がきっと人生はおもしろい。
「せっかくだから」
赤信号で車が停止する。
「最後に、セックスでもしようか」
カーステレオから新しい曲が流れだした。ビートルズ、キャント・バイ・ミー・ラブ。
ナユタの部屋に最後に入ったのはいつだっただろう。
それぐらい、記憶は曖昧だった。
生活に必要なものは簡素なものが最低限あるだけなのに、なくても生きていけるものは大量にある部屋。そのどれもが適当に積まれたり置かれているようで、それなりにこだわって飾られている部屋。
初めて来たときのことは覚えている。デザイン会社で働いているのは聞いていた。だからやっぱり月並みだけどおしゃれな気取ったような部屋なんじゃないかと思った。それに対して現実はこれ。ギャップは激しい方がいいとか言うけれど、さすがにこれはどうなのと思った。そもそもギャップっていうのは、汚いんだろうなと予想していたのに整理整頓されていたとかいうときに初めてプラスに動くものだ。デザイナーらしい部屋をイメージしていたところに、芸術家の部屋が出てきたら、ただ驚くしかない。
写真、絵画、書籍。あらゆるものが彼なりの秩序を持って並んでいる部屋。更にアイテムが加わっているようで、私の視点は定まらない。
「相変わらずだ」
私の服に手をかけたナユタが笑う。その向こうに、日本じゃなさそうな風景の写真が飾ってあった。
「変わらなかったの。何も」
彼のボタンに指をかけて答える。返ってきたのは優しい微笑みだった。
眠れれば満足なのか、固いパイプのベッド。たいして大きくもないそれに、ふたり、器用に収まる。カーテンは閉められたままで、その隙間からオレンジ色の光がフローリングを照らしていた。
キスをすると恋が生まれる。だから禁止なの。
そんなことを言っていた映画はなんだっただろう。それが間違いであることを、私は知っている。今ならそっと教えてあげるのに。そう思った時点で、あなたは恋に落ちているのよ、って。
肌を這う指。服を身にまとっていることが煩わしくなる劣情。悲しくもないのに涙を溜める瞳。
「最後ぐらい、好きにしてもいいよね」
耳元で囁かれた声は脳を揺らす。温かい舌が首筋をなぞる。感情が背筋を昇る。
いつもなら答えただろう「好きにすれば」だけどそれは声にはならなかった。最後ぐらい、余計なものは手放して本能に全てをゆだねてもいいやと思った。
だって、最後なんだから。最後ぐらい。最後だからこそ。
その最後のベッドの上で、知る。本当は、身体の相性がいいなんて単純なことじゃなくて、ナユタがひとにあわせるのが上手なのだということを。
私はただひたすら打ち寄せる快感に鳴いた。そして部屋の片隅に菜の花を見つけ、シーツにくるまって、泣いた。
*
春は好きだ。桜が咲いて、暖かい日差しが降り注いで、ちょっと風は冷たいけれど緑の匂いを運んできてくれる。色んなものが芽吹く。たくさんの色が世界を彩る。
だけどやっぱり、この春を苗字に持つ男は好きになれそうにない。
「中原さん、大丈夫?」
仕事の手が止まっていたのは確かに申し訳ない。ちょっと考えごとをしてました、なんて取り繕うぐらいいくらでも出来る。だけどしたくない。だって何もわざわざ私の隣に立ってまで言うことでもないだろう。
幸い、同僚は仕事の都合で別の部署へと出かけている。仏頂面で仕事をしているように見せている一番偉い人は、いつも通り。
「少し、気分転換でもしてきたら?」
あくまで部下思いの優しい上司。柔和な笑みに親しみを得やすそうなイントネーション。嘘くさくて、面倒だ。
「何か悩みなら、相談にのろうか」
もしもじゃあここで「別れた男との最後のセックスが忘れられないんです」って言ったら、彼は的確なアドバイスをくれるのだろうか。いや、答える姿が目に浮かぶから、そんなことお金積まれても言わないけれど。
「大丈夫です。コーヒー飲んできます」
そもそもそんな単純な悩みなら苦労などしない。私ならきっとすぐにでも会いにいくだろう。まだ何か言いたそうな春木には壁を作ったまま、私は席を立った。
煙草なんて人生で一本も吸ったことはないけれど、こういうときは喫煙所が一番落ち着いた。廊下のベンダーで缶コーヒーを買って、誰もいないベンチへと座る。真ん中に置かれた灰皿には、たいして吸い殻が落とされてなかった。
プルタブを上げると、落ち着く香りが立ち昇る。
他に見るものもなく、何気なしに壁に掛けられた簡素なカレンダーに目をやる。そこでまだあれから一週間しか経っていないことに気がついた。いやもう一週間なのか。わからない、曖昧な感覚にもどかしさが生まれる。
この一週間、私はナユタを忘れなかった。当たり前か。
でもたとえばそれは、別れたことを後悔したり、独りになったことを寂しく思ったりしてのことではない。誘惑に負けて携帯電話の番号を押しそうになったことも、女々しくメールを打ってみようかと思ったこともない。
ただ単純に、気になるのだ。私はあの男の何を知っていたのだろうかと。私はあの男を好きだったのか否かと。
ナユタの顔は好みではなかった。飄々とした口調も、いつものんきな態度も、時折だらける性格も私の好みとは言いがたかった。芸術家肌なのか、仕事に打ち込めば連絡なんかなかったし、まともに人間らしい生活もしなくなる。なのにふらっと私の部屋にやってきてさも当然のように言うのだ。映画でも行こうか。カフェでも行こうか。セックスでもしようか。
付き合おう。そんな口約束はしてなかった気がする。あの日、あぶれた者同士カフェに行ってから何となくの流れで来たのかもしれない。好きだとか愛してるだとか、ベッドの中でも言い合ったことがない。
そうか、考えてみれば、お互いのことを口にしたのは、一週間前がはじめてだったんじゃないだろうか。そんなに、私たちは互いのことに興味がなかったのだろうか。
否、違う。少なくとも、ナユタは。
だから、私は迷う、気にする、考える。最後だからとセックスしなければ、きっと一生気づかなかった。でもそれが、どういうことなのかは私にはわからない。
ナユタはナユタ、私は私。
思考はぐるぐる回る。終着点のないそれは、灯台を見失った船のようだ。だけどそれはもしかして今に始まったことではなく、あの日、ナユタに出会った日から迷い始めてしまったのかもしれない。ちょっと航路を外れても、すぐに戻れたのかもしれない。遠くにある目指していたものを手に入れようと進むべき航路を、私はすごく回り道しているのかもしれない。
そう、正しい道を行けば、欲しいものが手に入るのかもしれないのに。
そしてそれは、私だけではなく、ナユタもそうかもしれないのに。
すっきりしない気持ちを押し流そうと、残りの缶コーヒーを胃の中に押し込んだ。ひとつ息を吐いて、足に力を入れる。いつまでもうだうだしていてもしかたがない。まだ私は勤務中なのだから、するべきことをしなければならない。
立ち上がって空き缶をゴミ箱へと運ぶ。その途中、掲示板に貼られた広告が目に入った。舞台のポスターのようだ。大きく書かれたタイトル、俳優陣と思われる幾人かの人間。コメディなのか派手な色合いのそれに、赤い字でキャッチコピーが記されていた。
『無駄こそ人生』
人生に無駄はない、そんな耳触りの良いフレーズは幾度となく聞いてきた。それがあなたの人生なんだから、無駄なものなんて何一つないのよ。え、じゃあ休日一日ずっと家でだらだらし続けていても無駄じゃないんですか。つまらない興味もない飲み会に参加してお金だけ財布から消えていっても無駄じゃないんですか。それらは後々私の糧になるような経験値を溜めていけるものなんですか。
「あ、そう。うん。そっか」
誰もいない廊下で思わず声が出た。そしてなぜか、おかしくてたまらない。
無駄こそ人生。このキャッチコピーを考えた人に、ちょっと会ってみたい。
*
駅からアパートまでの帰り道。犬の散歩で溢れる河原には、菜の花が咲いていた。確か数年前、あまりにも荒れてやせ細った河原に植えたんだという話を聞いたことがある。菜の花は強いらしい。プラス、見栄えもいいのでこの季節は散歩の人が増える。
帰路に河原を使うのは、煩わしい信号も車もいないからだ。舗装されていないためにパンプスは多少汚れることがあるけれど、そんなの拭けばいいから気にしない。
どこからか、ビートルズが聞こえてきた。こんな場所で、と思う反面、以前サックスの練習をしていた青年がいたから不思議ではないのかもしれないとも思う。そのリズムに併せるように、近所の高校であろう子たちが列になって走り去ってゆく。その後を、飼い主を振り切りたい気持ちでダックスフントが小走りに追って行った。
この曲はなんだっけ。そう耳をすますうちに音が大きくなる。発見する前に当てたい。そんな妙な気持ちを抱えつつ、歩幅を狭める。背中からさきほどのダックスフントであろう鳴き声が聞こえた。
イエロー・サブマリン。曲名を思い出したと同時に、菜の花に隠れるように座っている男が見えた。いや本人はその気がないのかもしれないけれど、菜の花は彼を囲むように揺れていた。
「運命だ」
思わず声に出た。ああ、そうか。そうなのかもしれない。
「運命なんて、まやかしだよ」
小さなスピーカーを横に置いた男が笑う。その姿を夕日が染める。遠くで、また犬が鳴いた。
「自分で言ったくせに」
不思議と、落ち着いていた。
「あれはこじつけ。君はキョウであって京じゃない」
何も変わらない。変えられない。突然の再会に胸が高鳴ることも鼓動が速まることもない。むしろこんなにあっさりとしていていいのかと自分に聞きたくなる。
彼は立ち上がらなかった。私も隣に座ろうとはしなかった。
「でも」
イエロー・サブマリンが終わる。
「那由多は京より大きい」
次のイントロが始まる。
「とてつもなく」
ビートルズ、ラブ・ミー・ドゥ。
「不可思議があるわよ」
「あれは、不可思議なほど数が大きいってこと。考えることが出来ないぐらい」
「じゃあ那由多は」
「極めて大きな数」
「何か違うの」
「不思議じゃないってこと」
そこでナユタは手近な菜の花を摘み取った。風が菜の花の香りを巻き上げる。
「ちゃんと考えられるぐらい。身の程は知ってる」
甘いような青いような、独特の香り。ここしばらくこの香りに包まれて帰っているけれど、いつまでも慣れないこの季節だけの香り。
「人生って」
黄色い花に鼻を埋めた男に問うてみる。
「無駄なことはないと思う? それとも無駄ばっかりだと思う?」
太陽がどんどん遠くなる。風もぬくもりをなくし、ビートルズの音だけが温かさを運んでくる。
ナユタは笑った。作ったものでも、考えたものでもない。いつもみたいにあっけらかんと。そして口を開く。
「無駄こそ人生だよ」
あ、ここにいた。考えた人ではないと思うけれど。
空は暗くなる。なのに菜の花はいつまでも明るくって、ナユタはいつまでもナユタだった。帰宅途中らしき自転車が、ベルを鳴らしながら通り過ぎてゆく。無灯火は危ないよ、なんてどうでもいいことを心の中で呟いた。その声が聞こえたのか、それとも自動だったのか、離れてから自転車の前方が明るくなったような気がした。
ナユタが立ち上がった。デニムについた草と土を払う。スピーカーが閉じられ、ビートルズが消える。
途端、世界にふたりだけになった気がした。もちろん現実には違う。遠くから電車の音が聞こえるし、見えなくなっただけで自転車だって犬だっているはずだ。でも今ここにはふたりしかいない。そんな状況、今までもたくさんあったのに。私の部屋、ナユタの部屋。車の中、夜道の散歩。さびれた動物園、小さな図書館。ああ、意外と、私はナユタとふたりっきりでいたのかもしれない。
「みんな消えちゃったし、カフェでも行こうか」
そのみんなが何を指すのかはわからない。でも確かに、自転車も犬もビートルズも、消えちゃっていた。
「独り者同士?」
手を伸ばさずとも届いた菜の花を摘む。
「独り者同士」
彼は眉ひとつ動かさず、なんてことはなく、少しだけはにかんでそう言った。
「ここで私は、この間の女は誰かとか聞くべきかしら」
思い出してみたように口にすると、驚くことも戸惑うこともましてや恥ずかしがることもなくせずナユタが答える。「俺が知ってる女の人は、キョウかそれ以外かだよ」
少しぐらい、照れて見せたらいいのに。こういうところが、本当に好みじゃない。
ナユタの左手が、私の目の前に差し出される。たぶん、この手を取ったら、また私は海を彷徨うことになるのだ。目印を失って、目標を見失って。ナユタもそう。私の手を引っ張ったことによって、目当てのものから遠ざかるのかもしれない。
だけどもし、その無駄な航路こそが私の人生ならば。ナユタの人生ならば。無駄こそ人生。死ぬときにそんなこともあったっけと笑って死ねればいいか。
どうせ、好きだとか嫌いだとか、考えてもわからないのだ。だったら、何もないより、マシなのかもしれない。
菜の花を左手に持ちかえて、その大きな手のひらに自分の手のひらを重ねる。ナユタの手は迷うことなく私を包み、前へと一歩、引っ張った。
ああ、そうだ。彼が引っ張ってくれるなら、私は迷っているわけじゃない。私が引っ張っていくなら、ナユタは迷っているわけじゃない。もう一回、一緒に広すぎる海を進んでみようか。
太陽が隠れた世界、街灯の乏しい河原。流れゆく水は黒くなって、対岸を自転車が走り去ってゆく。どこかの家の犬が鳴いた。呼応するかのように、別の場所でまた犬が鳴いた。
隣を歩くナユタが、菜の花の香りを吸い込んだ。私もつられて鼻に近づける。甘い香り。青い春の香り。
「菜の花の香りってさ」
「全然、エロティックなんかじゃないから」
一緒に遭難しても、案外楽しいのかもしれない。たぶん。
〈了〉