孤島の鬼、塔の姫
一、 異形の影
潮の香りが色濃く漂うその土地は、網を引けば銀の魚が溢れ、民の笑い声が絶えない平穏な漁師の街であった。領主である殿様は、民を我が子のように慈しむ温厚な人物であり、その統治のもとで誰もが幸福な冬を越し、春を迎えていた。
しかし、破滅は常に、穏やかな海が突如として牙を剥くように訪れる。
その日、沖合の霧の向こうから現れたのは、人の形をしながらも人とは断じて異なる「ソレ」であった。
身の丈は優に通常の倍はあり、見開かれた眼球は牛のそれのようにぎらつき、鼻も口も、すべてが醜悪に歪んで大きかった。そして何より人々を恐怖させたのは、その額から天に向かって生え出た、悍ましく黒光りする二本の角であった。
殿様はすぐさま兵を差し向けた。国中の名刹、名社から高僧や神職を呼び寄せ、あらゆる祈祷を捧げさせた。しかし、人間の鋭矢も、神仏への祈りも、その異形には一切通じなかった。異形は嘲笑うかのように兵をなぎ倒し、民の血で浜を染めた。
そして最も残酷なことに、異形は殿様が目に入れても痛くないほどに溺愛していた愛娘、御一姫をその巨大な剛腕で攫い、海岸近くの孤島へと消えたのである。
怒りと絶望に狂った殿様と民は、数多の舟を出し、武器を手に孤島へと攻め入った。だが、島に到着した彼らが目にしたのは、すでに姿を消した異形の痕跡と――そして、ただ一人残された御一姫の姿であった。
姫は、異形の子をその身に宿していた。
花のようだった美貌は青白く、その瞳からは正気の光が完全に失われていた。
「お労しいことに……」
側仕えの者たちは涙を流した。やがて姫は、童のように無垢で、しかしどこか虚ろな目で我が腹を見つめるようになり、ある日、ぷつりと糸が切れたように気を失った。そのまま二度と目を覚ますことなく、儚く息を引き取ったのである。
二、 塔の中の「御二」
殿様は深く悲しみ、その異形の子を世間の目から隠すため、人里離れた崖の上にそびえ立つ頑強な石造りの塔を建てた。
やがて、その塔の中で一つの命が産声を上げた。
通常の赤子の倍はあろうかという巨体で生まれたのは、元気な女の子であった。
殿様は、亡き娘「御一」の次に生まれた第二の姫という意味を込めて、そしてその身に流れる呪われた血への畏怖を込めて、彼女に「御二」と名付けた。
御二姫の成長は、周囲の者たちにとって恐怖そのものであった。
亡き母の儚げな美しさは微塵も受け継がず、その体躯は年を追うごとにガッシリと逞しく、岩のように頑強になっていく。そして何より、彼女の額には、あの忌まわしい父親と同じ、牛のような二本の角が厳然と生え揃っていた。
塔の中で御二の世話をする使用人たちは、かつて異形によって家族や親戚を殺された者たちばかりであった。彼らは義務として食事を運び、服を着せはしたが、御二の額の角を見るたびに、嫌悪と恐怖に身をすくませた。
「化け物の子め」
向けられるのは、凍てつくような冷たい視線と、密やかな陰口。御二は、ただの一度も「愛」という温かい光を知らずに、暗い石壁の中で孤独に育っていった。
だが、どれほど疎まれようとも、彼女の中に流れる「異形の血」は、彼女の身体を圧倒的に、そして美しく狂おしいほどに強靭へと育て上げていったのである。
三、 百合の面影
御二姫が十七の歳を迎えた頃、彼女の肉体は完全に「異形」のそれへと変貌を遂げていた。
見上げるほどの長身に、いかなる大男をもねじ伏せる強靭な四肢。そして額に黒々とそびえ立つ二本の角。彼女は、実の母を死に追いやった怨敵の生き写しであり、同時に、この領地で最も強大な「力」を持つ存在となっていた。
しかし、その心は空虚な檻のままであった。
使用人たちは怯え、老いた殿様も滅多に姿を見せない。世界は灰色で、冷たい石の壁だけが彼女の拠り所だった。
その平穏な絶望を破ったのが、一人の若い僧侶であった。
年に一度、亡き御一姫の供養のために塔を訪れることになったその僧は、名を白蓮といった。
塔の重い扉が開き、彼が姿を現した瞬間、御二の胸に激痛のような衝撃が走った。
白蓮の姿は、使用人達の噂話から漏れ聞いていた、亡き母・御一姫の面影そのものだったのだ。
陶器のように白い肌、切れ上がった涼やかな目元、そして何より、吹けば飛ぶような美しく儚げな佇まい。それは冷たい石造りの塔に突如として咲いた、一輪の清らかな百合の花であった。
「……恐ろしくは、ないのか」
御二は、地鳴りのような低い声で問いかけた。自身の角を、醜い身体を誇示するように一歩踏み出す。
並の人間なら腰を抜かすその威容を前に、白蓮はただ静かに目を伏せ、数珠を握る手を崩さなかった。
「すべての生あるものは、仏の御子にございます。姫君の角もまた、天が与えし妙なる器。恐れる理由などございません」
その声は鈴の音のように清らかで、御二の凍てついた心を激しく揺さぶった。
生まれて初めて、自分を「化け物」と呼ばなかった人間。亡き母の面影を持つ、あまりにも美しく儚い存在。
愛を知らずに育った鬼の姫の胸に宿ったのは、純粋ゆえに、あまりにも狂暴な「執着」であった。
四、 還俗と強奪
「あの男を、私のものにする」
御二の決意は、領地を揺るがす嵐となった。
彼女はもはや、塔に閉じ込められるだけの哀れな娘ではなかった。異形の血がもたらした怪力と、誰の言葉も寄せ付けない圧倒的な威圧感は、老いた殿様をも恐怖させるに十分だった。
殿様や周囲の家臣たちは猛反対した。徳高い僧を、よりによって鬼の娘の伴侶にするなど狂気の沙汰である、と。
しかし、御二は冷笑した。
「反対する者は、この手で一人残らず噛み砕こう。私の夫を拒む国など、私が滅ぼしてやる」
それは脅しではなかった。彼女が軽く拳を振るうだけで、塔の石壁には深い亀裂が走った。人間という無力な存在が、どれだけ神仏に祈ろうとも、目の前の「圧倒的な暴力」には抗えない。それはかつて、彼女の父である異形が証明した真実でもあった。
御二は自ら寺院へと赴き、白蓮の前に立った。
怯え惑う周囲の僧たちを巨大な体躯で睥睨しながら、彼女は白蓮の細い手首を、その剛腕で優しく、しかし絶対に逃がさない強さで掴んだ。
「白蓮。仏に仕えるのはやめよ。これからは、私だけに仕えよ」
白蓮は、拒まなかった。
否、拒むことなど出来なかったのかもしれない。鬼の姫の瞳の奥にある、底知れない孤独と、自分に向けるあまりにも純粋な熱情に、儚い僧はただ静かに微笑み、衣を脱ぎ捨てた。
還俗――それは聖職者が俗世に戻ることを意味するが、白蓮にとっては「鬼の褥に入る」という、文字通りの生贄であった。しかし、百合のように儚げな男は、鬼の毒に染まることを静かに受け入れたのである。
五、 角を持つ支配者
時が流れ、老いた殿様が世を去ると、その跡を継いだのは他でもない、御二姫と白蓮であった。
かつて忌み嫌われ、塔に隠されていた「鬼の娘」は、圧倒的な武力と、元僧侶である夫の知略をもって、その土地の絶対的な権力者へと君臨した。彼女に逆らえる者など、この領地には一人も存在しなかった。
やがて、二人の間には多くの子が生まれた。
産まれてくる子供たちは皆、父親である白蓮に似て、どこか世俗離れした美しい容姿を持っていた。しかし――その子供たちの額には例外なく、母親から受け継いだ、牛のような立派な角が二本、生え揃っていた。
民たちは恐れ、やがて平伏した。
かつては「化け物の呪い」と蔑まれたその角は、世代を重ねるごとに、絶対的な力と富を持つ「支配者一族の証」へとその意味を変えていったのである。
美しく儚げな男を傍らに侍らせ、玉座に深く腰掛ける御二。その額の角は、かつてないほど黒々と、そして誇らしげに鈍い光を放っていた。
(了)




