満月の底
海は、夜になると音を変える。
昼間はただの波のざわめきなのに、夜の海はまるで何かを囁いているみたいだった。
湊は堤防に腰かけ、暗い水平線を見つめていた。
今日は満月だ。海面に浮かぶ光が、道のようにまっすぐ伸びている。
祖母が亡くなったのは、三日前。
「蒼波は、まだ沈んでいないよ」
それが最期の言葉だった。
蒼波。
百年前に海に沈んだと言われる、伝説の港町。観光パンフレットにも載らない、地元の年寄りだけが知っている名前。
遺品の整理をしているとき、古い木箱の底から懐中時計が出てきた。
銀色の蓋には、波の模様。
カチ、カチ、と今も正確に刻んでいる。
湊はそれを取り出し、満月にかざした。
その瞬間。
――カチリ。
秒針が逆に回った。
海が、静まる。
波が止まり、風が止まり、音が消える。
そして、海面に一本の裂け目が走った。
水が左右に割れ、月明かりの下に石畳が現れる。
「……嘘だろ」
足が勝手に動いた。
海の中へと続く道を、湊はゆっくり歩き出す。
冷たいはずの海水は、触れても濡れなかった。
やがて辿り着いたのは、灯りのない街。
傾いた街灯、貝殻の積もった屋根、揺れない洗濯物。
時間が止まったままの世界。
その中央の噴水の前に――
白いワンピースの少女が立っていた。
長い黒髪が、海の底なのに風もなく揺れている。
彼女は振り向いた。
透き通るような瞳が、まっすぐ湊を見る。
そして、微笑んだ。
「やっと来たね」
その声は、どこか懐かしかった。
「君は……」
少女は一歩、近づく。
「わたし、澪。ここで待ってたの」
満月の光が、彼女だけを照らしている。
「百年間」




