第七話 「残火」
第八話は3/19(木)深夜に投稿予定です。
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村のすぐそばで、鹿の死骸が見つかったという異変の知らせは、瞬く間に村中へ広がった。
山で何かが起きている——その不安は、誰の胸にも同じ重さで沈んでいた。
悠とカッシオが山から下りてきた日の午後、村長宅の前の広場に村人たちが集まった。
悠、カッシオ、ゴードンの息子ボルドー、鍛冶屋の見習いレネ。そして、ライエンたち幽霊も数多く集う。
いまだに姿を見せないサラビたちに何があったのかを確かめるためだ。
村に特別これといった被害はまだ無いが、対処が必要かどうかを見極める必要がある。
カッシオはタモの柄を握り締め、村人たちに向かって言った。
「武器は持つが、戦うためじゃあねえ。話を聞くためだ。サラビたちになんでこンなことになってんのか、助けが必要なのかどうか、まずは確かめるのが先だ。」
悠は静かに頷いた。
その傍では幽霊たちの淡い光が風の中で揺れていた。
「では、行こう」——その言葉とともに、小さな遠征隊は山の奥へと一歩を踏み出したのだった。
遠征に出た若者たちの背が見えなくなると、村には一瞬の静けさが降りた。風は乾き、空気の底にかすかな冷たさが忍び込んでくる。
残されたのは、年寄りと女、子どもたちばかり。それでも誰一人、弱音を吐く者はいなかった。
「さて……わしらも動くとするか。この村の若者たちは出払っておる。ゆえに、わしの家へ全員が避難することとする。」
ゴードンが低く呟くと、周囲にいた年寄りたちが頷いた。
かつて猟師だった男たちは腰を上げ、縄と杭を手に取る。村長宅の周囲に罠を張るためだ。
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庭先では、女たちが手際よく動いていた。
ゴードンの息子ボルドーの妻ミランダを筆頭に、働き盛りの母親たちは毛布や干し肉、炭壺を村長宅の庭先にある蔵から家へと運ぶ。恐怖の色よりも、張り詰めた明るさが漂っていた。
「そこ、もう少し奥まで押して! 子どもが足引っかけないように!」
「はいよ!」
「こっちの薪はまだ湿ってるわ、別の束を!」
テオは彼女たちの声を聞きながら、縁側の影に腰を下ろしていた。
女たちが息を合わせて働く様子に、どこか安心してしまう。
あの人たちがああして働いている間は、何も怖くない気がした。
一方、外回りではトールが縄を引き、罠の仕掛けを確かめていた。
「鳴子はこっちにもう一本じゃな。風向きが変わったら音が聞こえん。」
「よかろう、そこにしとけ。」
ゴードンが頷き、土に杭を打ち込む。老いた腕にも、昔の記憶が宿るような確かさがあった。
「……まるで昔の狩りの支度だな。」
「今回のわしらの相手は獣じゃないかもしれんが、やることは同じよ。」
「ふむ。生きるってのは、いつだって食うか食われるか、食う側でいられるかだからの。」
トールの言葉に、ゴードンが小さく笑う。
その笑い声に、近くで働いていたミランダがちらりと振り向いた。
「じいさん方、無理はしないでくださいね。倒れられたらこっちが困りますから。」
「おお、叱られたのう。」
「仕方あるまい、女は強い。」
二人の小さな笑いに、張り詰めていた空気が少しだけやわらいだ。
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陽が傾き始めたころ、ようやくすべての罠と鳴子が仕上がった。
鳴子が吊るされた木の枝が、夕風に揺れて微かに揺れる。その音が、まるで村を守る祈りのように響いていた。
「これで、ひとまずは大丈夫だろう。」
トールが腰をとんとんと叩きながら伸ばし、額の汗を拭った。
ゴードンは頷きながら空を見上げる。西の空はすでに橙から紫へと変わりつつあり、山の端に沈みかけた陽が、長い影を地に落としていた。
「夜は何が起こるかわからん。暗くなる前に、用を済ませておいた方が良いだろう。」
ゴードンがそう言うと、女たちは子どもを呼び集め、小さな組を作った。
明かりを持つ者、付き添う者、それぞれ二、三人の隊列で交代に外の手洗い場へ向かう。
子どもたちは小声で笑い合いながら、けれど足取りはどこか早い。
最後の組には、トールとゴードン、そしてアイネとテオの姿があった。
「わしらで最後だな。しっかり周りに注意するんだよ、テオ。」
「うん!ぼく、みはりする!」
「おお、ほっほ、見張りはわしに任せとけ。おまえはアイネのそばを離れるなよ。」
テオの健気な姿に思わずトールは笑みがこぼれる。
「わかった!」
トールの口調はいつものように穏やかだったが、その目だけは、森の暗がりを警戒していた。
用を済ませ戻ろうという頃、日はすでに山の向こうへ沈んでしまった。
稜線の赤だけが細く残っている。
風が止み、鳴子が“カラン”と一つ、乾いた音を立てた。
「……風、か?」
ゴードンが呟き、灯りを少し高く掲げる。
火が揺れる。
空気が、何かに押し返されるように重くなる。
「風だよね?」
アイネが祈るように声を漏らし、テオを抱き寄せた。
テオの小さな手が、彼女の衣をぎゅっと掴む。
そのとき、
“ざ……ざぁ……ざぁ……”
這うような音が地を伝い、すぐ近くまで忍び寄ってきた。
「……足音か?」
それは一つではなかった。
無数の何かが、地面を蹂躙するような。
湿った泥を踏み砕く、異様な律動。
息を潜める間もなく、背筋をなぞる悪寒が走る。
「——風じゃあない!!走れッ!!」
トールの怒鳴り声が夜気を裂いた。
アイネがテオの手を引き、灯りを振り乱しながら駆け出す。
村長宅の裏口では、ミランダが手を伸ばしていた。
「こっちよ!!早く!!」
——あの手を掴めれば、助かる——!
「ゴードン!子どもたちを!!」
トールが家に背を向け、光を盾にするように立ち塞がる。
「わしが相手だ!!孫をやらせてなるものか!」
ゴードンは歯を食いしばり、アイネとテオをその身で包むようにして裏口へと駆ける。
「トールも来い!!」
「おじいちゃん!!」
「おじいちゃん!!!」
その声は届かなかった。
地を這う音が膨れ上がり、
ざぁざぁざぁ——と幾重にも重なって、世界を覆い尽くした。
松明の火がかすかに揺れ、姉弟は確かに、トールの顔に一瞬、安堵の笑みが浮かんだのを見た。
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トールは、ずっと覚悟していた。
孫たちの両親はいない。
母であるトリリシャは幽霊で、守る手を持たない。
この老いぼれが、その“手”の代わりになるしかないのだと。
冬が明けるたびに、山の厳しさを思い知るたびに、心のどこかで何度も予感していた。
もしもの時が来たら、自分の命であの子らを守る。
それが、祖父として、父としての務めだと。
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音が迫ったとき。
——いざという時が来たな。
心の奥で、静かにそう呟いた。
闇の中、それの息が生臭く鼻を掠める。
その正体を目にしたとき、「子どもたちは間に合ったのだろうか」と思った。だから、家の方を振り返ると、アイネとテオが叫んでいるらしい様子が見えた。
——間に合って、よかった。
そう思った。
次の瞬間、皮膚を裂く鋭い痛みが胸の奥まで貫いた。
肉が裂ける音が遠くで響くように感じた。
酷い痛みと自分の体が自分のものではなくなっていく感覚を覚えたが、トールの心は安堵感で満たされていた。
トールの意識は穏やかに、闇へと沈んでいった。




