第六話 「ささやき」
朝の空気は澄んでいるはずなのに、どこか湿り気を帯びていた。
山の奥で、何かがひっそりと息をしている——そんな気配が、風の合間に混じっていた。
悠は、いつものように水路の掃除をしていた。カッシオも一緒にいて、桶を抱えながら苔むした石をどかしている。
「……なんだか、前より濁ってる気がしますね。」
「水の匂いも違う。山が、少し荒れてるのかもしれねぇ。」
二人の会話を遮るように、軽い足音が近づいてきた。
「おにーちゃんとおじちゃん、すこしいーいー?」
悠が顔を上げると、アイネとテオが並んで立っていた。朝の日差しが、子どもたちの髪を金の縁取りに染めている。
「おや、アイネ、テオ。珍しいな、今日は朝からどうしたンだ?」
カッシオが桶を脇に置き、にやりと笑った。
アイネは少しこわごわと口を開いた。
「テオがね、『おにーちゃんにお話ししたいことがある』って……。」
テオは小さくうなずき、石をつつくようにして言った。
「……“ともだち”がね、さいきんわるい子になっちゃったの。」
悠は首をかしげた。テオの“友だち”に悪い子なんていただろうか?見知った子の中に元気すぎるガキンチョといった感じの子はいるけれど、悪い子はいない。
けれどテオの面差しはいつもの冗談めいた色合いを欠いている。どこか真剣で、不安が混じっていた。
「その友だちは、どんな悪さをしてるのかな?」
悠は優しく尋ねる。
「うんとね……さいきん、よくおなかが空くって言って、自分のごはんじゃないやつにも手をつけちゃうんだ。この前なんか、おばあちゃんが作ってくれたおいものおやつまで食べちゃって……ぼく、楽しみにしてたのに。」
テオは頬を膨らませ、すぐにしょんぼりと肩を落とした。
「でも、その後であやまってくれたんだよ。『ごめん』って。だから、ぼくゆるしてあげたんだ。えらい?」
悠はにっと笑い、やさしくテオの頭を撫でた。
「ちゃんと謝ったのなら、許してあげるのはいいことだよ。テオはえらいね。」
しばらく、川のせせらぎだけが静かに二人の間を流れた。
ふと悠は心にある疑問がよぎった。それを言葉にしてテオにたずねる。
「その子は、どうしてそんなにお腹が空くんだろう?あまり、ご飯が食べられてないのかな?」
「ぼくもよくわかんないんだけどね、前は山のおいしいくだものをもってきてくれて、いっしょに食べてくれたんだ。その子は山に住んでるって言ってた。『ぼくはあやかしだ』って。」
風がすっと止むように、周囲の音が一瞬だけ遠のいた。悠は川向こうの山並みを見やり、ひんやりとした空気が背筋を撫でるのを感じた。
ほんの思いつきでたずねたことが、悠の中で何かが一つにつながった。
隣で、カッシオの手がぴたりと止まった。彼の瞳は水面ではなく、ずっと遠く、山の方角を見据えているようだった。
「……妖、ね」
カッシオの声は低く、しかし確かな響きを含んでいた。彼はゆっくりと唇を噛み、少し間を置いてから言った。
「この山で妖っていやあ、サラビって名の連中だろう。姿を見たことはねぇけどな。普段は理をわきまえる、気高い奴らなンだ。釣った魚を置いといたら、山の幸を代わりに置いていくみたいなやり取りを何度かしたことがある。」
「だが……最近は見ねぇ。ここひと月ほど、気配がまるでしなくなった。そういうこともあるかって思ってたンだが……。」
悠は息を呑んだ。
「物々交換ということですか……、それは、どういう?」
カッシオは視線を落とし、昔の風景をなぞるように語った。
「えっと、釣った魚を岩の上に置いとくとよ。次の日の朝には木の実や薬草が並んでるンだ。ちゃんとお礼をしてくれてるような——そういうやり取りさ。人を害するようなことはしねぇ。山の理を守るって、そういう連中だ。」
悠はその話を聞きながら胸の奥に、不思議な温かさと、同時に影のような不安を抱いた。テオの“友だち”が、もしそのサラビだとすれば、今の“飢え”や“食い荒らし”の匂いとは、どうにも符合が取れない。
「山で何かあったンかもしれん。とりあえず、ゴードンさんに聞いてみるか。あのじいさんなら昔の話をよく知ってるはずだ。」
カッシオは短く言い、桶を寄せると立ち上がった。
「行こう。」
そうして二人は、姉弟を家に送り返し、村長ゴードンのもとへ向かった。
日はすでに高く昇り、空の青がやけに白く見えた。
⸻
土の匂いが香るゴードンの家。古びた土間に腰かけた老翁は、二人の話を静かに聞いていた。
「サラビ……そうか。懐かしい名だな。」
ゴードンは煙管の火をくゆらせ、目を細めた。
「わしの若い頃の話だが、山の恵みをそっと分けてくれたものだ。お礼に村の作物を贈ったりしてな。山の上流、祠の先にある“風穴”という洞窟のあたりに住んでおったようだ。やり取り自体は祠の辺りでしておったが、な。わしも幼い時分に手伝いで行った覚えがある。だが、いつからだったか…、交流は途絶えてしまったな。」
「ゴードンさん……サラビって、どんな姿をしているんですか?」
「わしも見たことはないから知らん。ただ、蛇のようで蛇ではない姿だそうだ。見たという者もこれまでおらんからどこまで信じてよいのやらといったところだな。」
「彼らの住まいはどのあたりですか、具体的には?」
悠が訊ねると、ゴードンは指先で山の稜線を指し示した。
「東の沢を登っていった、石が折り重なったあたりだ。釣り場の更に上。人の目には道もないようなところを行く。」
「今から行く気か?なら、気をつけることだ。雨の気配がある。降られる前に帰ってきなさい。」
カッシオの顔が引き締まる。彼は黙ってうなずいた。
———
午後、二人は最小限の荷をまとめて山へ入った。一時間ほど登ったところでカッシオの普段の仕事場に着く。
悠も何度か訪れた場所だ。普段であれば、木々がざわめき、鳥がさえずる中、綺麗な川に小舟を浮かべたカッシオがぼんやりと釣りをしている。しかし、今日はそこよりさらに深まった奥山に向かう。
見上げれば陽はまだ高いが、山の奥は早くも影が濃い。少し川を登ったところにある、かつてカッシオが魚を置いたという岩場には、確かに木の実の殻や整えられたかすかな痕跡がある。
だが、そこに満ちていたはずの“気”は薄く、もぬけの殻——そう形容する以外に適当な言葉が見つからなかった。
「留守だな……。」
カッシオが膝をついて岩場の上に置かれた木の実の殻を指でつまみ、低く呟く。
「教えてもらった彼らの住まいまで、”風穴”まで行ってみますか?」
悠はカッシオの背中に話しかける。
「いや、もう日が傾いてる。戻る頃には暗くなっちまう。それに——」
カッシオはつまんでいた殻を近くのやぶに指で弾いて捨て、立ち上がる。
—ぽ ぽぽっ
ふと風が変わった。冷たい湿気を含んだ風が、樹々の葉をざわめかせる。雲が急速に流れ、空の色が灰に沈みはじめる。
「雨だ……。」
カッシオが空を仰ぐ。悠もまた、遠くの山並みにうっすらと霞が垂れ込めるのを見た。
「下山はもう、無理そうですね。」
「俺の小屋が少し下にある。釣りの時に使ってるやつだ。そこで一晩しのごう。」
その夜、二人は山腹の簡素な釣り小屋の下で焚き火を囲むようにして座っていた。
カッシオの手製の簡素な小屋——枝と帆布で組まれた雨避けのような場所だが、火を焚けば意外と温かい。焚き火の赤が、雨粒に反射して細かな光を散らす。
「カッシオ……今回の事件にサラビは本当に関わっているのでしょうか?」
「さぁな。普段の連中の様子からは眉唾な話に聞こえるけどな。理を守る連中が盗みなんぞ、なンかの間違いとしか……。」
火のはぜる音が、言葉の余白を埋めた。
外では、雨がしだいに強くなり、夜を洗い流すようにざあざあと降り続いていた。
⸻
翌朝。
悠が目を覚ます頃には雨は上がっていたが、空はまだ重い雲に覆われていた。
二人が山を下り、村の外れに差し掛かった時——
鼻を刺すような血の匂いが、風に混じった。
「……なんだ、この匂い……?」
トールの犬が、激しく吠えている。
駆け寄ると、そこには無惨に食い荒らされた鹿の死骸があった。肉は抉られ、骨は乱暴に散らばっている。まるで、理性を失った獣が貪り尽くしたかのようだった。
「こんなのは……。」
ゴードンが呟き、言葉を続けられないでいた。リオーネは顔を青ざめさせ、トールは黙って帽子を取って祈るように立つ。
「山の理の何かが、狂い始めているのかもしれん……。」
ゴードンの声に、村の空気が静かに凍り付く。
「カッシオ、今までこういうことって…。」
ここは山間の村だ。獣だってたくさんいる。事実として、何度かは悠も屠殺を手伝った。しかし、カッシオから返ってくる答えは悪い想像通りだった。
「あるわけねえ。住み分けってやつがある。村のすぐそばでこんなことできるはずがねぇンだよ。」




