第五話 「ゆらぎ」
その日の朝、悠はどこか胸の奥にざわつきを覚えていた。
いつもと変わらぬはずの朝。けれど、空気の底に、かすかな違和があった。
風が湿りを帯び、鳥の囀りがわずかに遠い。
それは誰も言葉にしないまま、村の誰もがどこかで感じ取っている違和だった。
「……やけに冷えるな。」
伸びをしながら呟いた悠の耳に、畑の方からトールの怒鳴り声が届いた。どうやら朝の散歩ついでの見回り中に、何かあったらしい。
「おーい、ハル! ちょっと来てくれんか!」
駆けつけた悠の前には、畑の隅で立ち尽くすトールとリオーネの姿があった。
トールの手には、無残にかじられた野菜の茎。
「なあ、見とくれよ。これ、誰かわからんがうちの作物を勝手に食って捨てて行きおったみたいなんだ。ここに植ってたやつは丸ごと持っていかれちまっとる。」
「山賊か何かかしらねぇ?この近くには他に村もないはずだから、あんまりいるって聞かないんだけどねぇ。 子どもたちが襲われたりしないか心配だわ。」
リオーネの眉が、不安げに寄せられる。
「なぁ、ハル、昨日の晩に何か見なかったか? 獣の鳴き声とかでも聞いたりはしなかったか?」
「さぁ…どうでしたかね……特に、声とかは……。あっ、カッシオ。まだ釣りには出かけてなかったんですね。」
「うん。この後に出るつもりだったけどよ、トールじいさんが騒いでたから見に来たンだ。なんか、あったかよ。」
「ええ、トールさんの畑の作物が山賊かなんかに荒らされてたんです。」
「そいつは痛えな。……まあ、トールじいさんの野菜はうまいからな。」
カッシオが明るく笑い、場の空気を和らげようとする。
悠も笑いながら口を開いた。
「そういえばカッシオ、昨日遅くまで晩酌してませんでした? まさか……!」
「野菜は新鮮さが大切なんだ。土に生えてるやつを採ってきて、それをさっと塩茹でするとな?それが最高のつまみになンだよ……ってバカ!いくら酔ってたって、そんな盗人みたいな真似するか!」
「何を勘違いしてるんですか? ぼくが言いたいのは、何か見たんじゃないのってことですよ。」
「ほんとか〜?」
「盗んでったのがカッシオなら、はっ倒して終わりなんだがな。」
トールが低い声で唸り、四人の間に笑いが弾けた。
しかし、その笑い声の奥に、言葉にできぬざらついた不安が残っていた。
「あっ!そういえば、昨日ベルトラムさんに会ったんですけど——」
「ああ、やっこさん、村に居ったのか。珍しいの。」
「——それででですね。狩り場が獣に荒らされてるらしくって、カッシオも注意した方がいいって言ってました。」
「…そうか。獣ね。」
「……まあ、今日ぐらいは釣りはやめとけ。山で良くないことでも起こっとるのかもしれん。」
トールがぽつりと言った。
「こういう日は、大人しくしとくのが吉だ。」
「……そうだな。流れも濁ってるし、今日は村の方にしとくか。」
カッシオは軽く肩をすくめ、竿を担いだまま踵を返した。
———
日差しが強まる頃、悠は村の外れの水路を掃除していた。カッシオも手伝いに来てくれている。
「結局、獣の痕はなかったらしいですよ。」
「変な話だよな。山賊なんか見たことねぇし、誰が野菜なんて盗むんだ。」
悠は泥を掬いながら答えた。
「妖の仕業……なんてこと、ないですか?」
「十中八九ないな。あいつらは頭がいい。俺なんかよりずっとな。」
「カッシオ、勉強は苦手そうですもんね。」
「……事実は時として、人を傷つけるんだぞ。悠。」
カッシオがじろりと悠を睨む。
カッシオが空を仰いだ。
雲の筋が、ゆっくりと山の方へ吸い込まれていく。
「そういや、みんなお前のこと“ハル”って呼ぶよな。俺もそうしていいか?」
「他の人ならともかく、カッシオはダメです。いまさら呼び方を変えられると、落ち着かないんです。」
「そうか。ハルのほうが呼びやすいと思ったんだがな。」
悠は少し恥ずかしそうに笑った。
「……正直に言うと、みんなが呼ぶとき、なんか発音が難しいんでしょうか、少し違って聞こえるんですよ。でも、カッシオはなぜか言葉が最初から通じていたじゃないですか、だからか、発音も正確で。だから、変えないでほしいんです。」
「なるほどな。名前は大事だもンな。」
二人は再び無言になり、水の流れる音だけが響いた。
ふと耳を澄ますと、虫の声が消えている。いつもの夏の音が、今日はやけに遠かった。
———
その夜は、珍しくカッシオも一緒に食卓を囲んでいた。
リオーネの作った煮込みの香りが漂い、湯気の向こうでトールが渋い顔をしている。
「まったく、足跡ひとつない。誰が荒らしたのやら。」
「山の“気”が乱れているのかもしれないわね。」
リオーネが木匙を動かしながら言う。
「山の気が揺らぐと、人も獣もおかしくなるって言うもの。」
「……山の気?」
悠が問い返す。
「要するに山の機嫌さ。昔から、悪いことが続くと“山が怒ってる”って言うンだ。」
「…ただの盗みじゃ、ないのかもしれんな。」
トールの声が低く響く。
カッシオは黙って椀を見つめていた。
「こらテオ、好き嫌いしないの!」
アイネの叱る声が場を和ませる。
「だってこの葉っぱ、にがいんだもん!」
「……気にするな。」
トールが短く言った。
「山の気は動くもンだ。それだけのことさ。」
カッシオが笑って頷く。
「トールじいさんの言うとおりだよ。飯はうまいしな。」
笑い声が再び戻ったが、悠の胸には薄氷のような不安が残った。
———
その夜も、川辺にはトリリシャの姿があった。
彼女の周りには、淡い光をまとった数人の幽霊たち。
その中には、悠が初めて出会った初老の老人の霊——ライエンの姿もある。
「……また濁っておるな。」
ライエンの声が、川風に溶ける。
「ええ。山の気もゆらいでおります。あの川の底が、息をしているように感じるのです。」
トリリシャの声は祈りのように静かだった。
ライエンは頷く。
「山が何かを語ろうとしておる。だが、それは我らに届かぬ言葉なのかもしれん。」
その瞬間、水面がわずかに波打った。川の底から、かすかな“何か”の気配が立ちのぼる。
まだ形を持たぬそれは、けれど確かに——生きていた。
翌朝、またひとつ畑の被害が見つかった。
そして子どもたちの間で、奇妙な噂が囁かれはじめる。
——“山の上で、夜になると誰かが泣いている”
——“友だちが、急に怖い顔をするようになった”
その声を、悠が耳にするのは、もう少し先のことだった。




