第三話 「異なる言葉、同じ心」
朝の、山から吹き下ろす風は冷たさを含み、悠の顔を撫でる。目覚めとともに耳に入る川のせせらぎと鳥の声が遠くで重なっていく。
カッシオの家の前では、もう火の煙が立っていた。カッシオが、昨夜の残りの米を遠火で温めている。
「よぉ、起きたか。飯、ちょっとだけあるぞ。」
「ありがとうございます。……なんだか、本当にお世話になってばかりで。」
「気にすンな。俺だって暇じゃねぇけど、朝飯くらいは分けてやれる。」
湯気の立つ米を木の器に移すと、そこへ焼いた魚の切れ端をほぐして混ぜる。簡素な料理なのに、湯気の向こうに人の温もりがあった。
「それ食ったら、今日は村長ンとこ行くぞ。」
「村長さん、ですか。」
「ああ。お前を正式に“ここで暮らす人間”として扱ってもらうには、まずは挨拶しとかなきゃな。挨拶は大事だ。」
その後、悠が朝ご飯を平らげ片付けを終えると、カッシオは腰の縄を締め直し、外へ出た。悠も後に続き、まだ朝靄の残る村道を歩き出す。
村の通りを抜け、カッシオに案内されながら悠は歩いていた。あたりでは人も幽霊も入り交じって、当たり前のように会話をしている。どちらも生活の一部であり、どちらも“そこに居る”ことが自然なのだ。
「こっちだ。村長の家は坂の上にある。」
カッシオが肩越しに振り返る。坂の上には、一本の大木のそばに建つ大きな屋敷が見えた。
「ここがゴードンさんの家だ。」
「ゴードン…さん。」
「この村のまとめ役だ。ちょっと怖そうに見えるけど、根は優しいぞ。子どもには特に甘ぇ。」
中に入ると、薄暗い空気とともに焚き香の匂いが漂った。壁には見慣れぬ模様の布が掛けられ、奥の座敷には白髪の男が座っている。
深い皺の刻まれた顔、くすんだ茶色の鋭い瞳。だがその奥に、確かな温もりがある。
彼こそ村長──ゴードンだった。
「ここの村長だ。」
カッシオが軽く手を挙げると、男も同じように手のひらを見せる仕草を返す。その動作はゆっくりと、まるで何かの儀式のように慎ましかった。
「……はじめまして。」
悠は頭を下げた。
村長は柔らかく目を細め、何かを口にした。穏やかな声だが──その音の一つ一つが、まるで意味を成さない。
——やっぱり、何言うてるんかわからへんなぁ。
悠は言葉を聞き取ろうと耳を傾けた。けれど音がすべて、水面に落ちる波紋のように輪郭を失っていく。
カッシオが横で何かを言うと、村長は頷き、しばらく悠の方を見つめた。
その視線には疑いもなく、ただ静かな“理解”の気配だけがあった。
やがて、村長は静かに立ち上がり、窓の外を指さす。
「——、———」
「言いたいのはな、住む場所をどうするかって話だ。」とカッシオが通訳する。
「この辺りは家が少ねぇし、空いてるのは村の外れの倉小屋くらいだ。けどな、ちょっと条件が悪い。」
「悪い、というのは……?」
「狭い。天井が低い。で、夜になると時々……あー、まあ、隣ンとこから音が聞こえる。」
「音?」
「幽霊が祈る声だ。俺は全然気にならンし、大体酒飲んで寝ちまってるからな。」
悠は苦笑しつつ、村長に向かってもう一度頭を下げた。
何も言葉は通じないけれど、どうにか感謝だけは伝えたかった。
カッシオが肩を叩いた。
「よし。とりあえず、お前の寝る場所は……トリリシャんとこの倉の二階だ。」
「トリリシャ?」
「隣の家の母さんだ。昨日会ったろ?あの美人の幽霊だよ。で、あの姉弟がアイネとテオだ。あと家主のじいさんがトールで、ばあさんがリオーネだ。」
カッシオが笑いながら説明する。
悠にはその“幽霊の母”という響きにまだ慣れず、軽く息を呑むしかなかった。
「心配すんな。トリリシャも、その家のじいさんばあさんも面倒見がいい。……お前が住むことンなっても悪いようにはしねぇさ。」
こうして、悠の“新しい暮らし”が始まった。
———
倉小屋はトリリシャの家の裏手にあった。
古びているが、柱も梁もしっかりしている。二階へ上がると、子どもの描いた絵が柱に貼られていた。
花や魚、川辺で遊ぶ人影──きっと姉弟が描いたのだろう。窓からは、川と山、そしてカッシオの住む家も見えた。
これから、ここで生きていくのだという実感が湧いてくるのを悠は感じた。
「ここなら雨も入らねぇ。ほら、寝床にする板敷きもある。」
カッシオが手際よく埃を払う。
「ありがとうございます。なんだか……落ち着きますね。」
「だろ? 俺も昔ここで昼寝してたことがある。まぁ、足りないものがあったら、トールじいさんか俺に言えばいい。何かしら都合してやれるさ。」
下から声がした。
「カッシオー! ——!」
顔を覗かせたのはアイネとテオだった。
「お、ちょうどいいところに。紹介しとく。こっちが悠。今日からここで寝泊まりする。」
「ハル?」
テオが首を傾げ、アイネが笑う。
「ハルカ。アイネ、テオ。」
アイネが自分とテオを指差しながら自己紹介をしてくれる。
悠も笑みを返した。
「よろしく、お願いします。」
意味は通じていないはずなのに、ふたりは嬉しそうに頷いた。通じ合う“気持ち”が、ことばの代わりになる瞬間だった。
———
翌日から、悠は水路掃除の仕事を任されることになった。
村の畑をつなぐ水路は、生活の命綱だ。毎朝、箒を持って水路沿いを歩く。
カッシオや村の子どもたちも時折手伝ってくれる。
「この仕事は大事だぞ。」とカッシオが言う。
「水は生活の要だからな。」
水の音、風の音、子どもたちの笑い声。
そして時折、幽霊たちの穏やかな歌声が混じる。それはこの村の日常の調和そのものであった。
夜、倉小屋に戻ると、アイネとテオが灯りを持ってやってくる。
今日覚えた単語を指差しで教えてくれるのだ。
「これは“水”」「これは“食べる”」──
少しずつ、悠の世界が広がっていく。
倉の外では、トリリシャがそっと祈っている。彼女は右手を首の後ろに、左手を胸の前に。それは「魂をまだ連れて行かないで」と祈る仕草。
この村の夜は、祈りと暮らしが溶け合っている。
幽霊の声が、風に混じってささやいた。
それは、どこか懐かしい子守唄のように響いていた。




