第二話 「死者と共に暮らす村」
「よお、飯食ってそれなりに元気が出たか?あてが無いンなら、俺の住んでる村にとりあえず案内してやるけど、どうする?」
焚き火の灰を足でぐしぐしと崩しながら、カッシオが立ち上がった。
「そ、うですね。助かります。」
悠もまた、地面に手をつき、重たい体をゆっくりと起こした。石のように硬く、しばらく使っていなかった筋肉を思い出すような感覚だった。
「その、集落って、遠いんですか?」
悠が顔をしかめながら尋ねると、カッシオは釣竿を肩にかけながら言った。
「まぁ、ちょっとは離れてるけどよ。気軽に魚釣りに出て来れる程度の遠さ、…かな。」
カッシオが顔を顰めた悠を見て言い淀む。
「……それは、歩いて行ける距離ですか?」
「おいおい、まさかおぶって欲しいとか言わねぇだろうな?」
その軽口に、悠は苦笑を返した。
「いえ、大丈夫です。ただ……少し気だるい感じがするだけなので。」
「そりゃあ、しばらく寝てたせいだろ。動いてりゃそのうち戻るさ。」
カッシオはそう言って歩き出した。悠は一歩遅れてその背を追う。
森の中は、悠の見知った日本の森とは違うというだけでなく、どこか異様だった。葉の色は深すぎる緑で、風が吹くたび、何か囁くような音が混じる。
——何かおかしい。なんやろう…?
ふと、風鈴のような音がした。鳥の声でも、虫の羽音でもない。森の中に風鈴などあるはずもないのに、その音はどこか人工的な響きを持っていた。
——人の気配……?森ん中のはずやのに、まるで百貨店の化粧品売り場に迷い込んだ時のみたいな……落ち着かへん感じや。
「あれ…?」
道の脇に、悠は見知ったものを見つけた。
それは——お地蔵さまだった。
「うン?昔っからその辺に割とある石像だな。そんなに珍しいか?」
カッシオは何気なく言った。
「珍しくはないですが、だからこそ……何がなんだかわからないというか……」
「はァん?ふっふっ、何言ってるかよくわからンが、そうかよ。」
カッシオは軽く笑って歩き出したが、悠はその場に立ち尽くした。お地蔵さまの首元には、苔むした布きれが巻かれていた。
それが、どう見ても“子ども用のマフラー”に見えた。色は褪せていたが、ほんのりと桜色をしていた。
悠の背筋を、冷たい風が撫でていった。
木々の間を抜けると、視界が開けた。山間に沿うように、十軒ほどの家が川のそばに寄り添っている。煙がゆらゆらと立ちのぼり、畑の緑が風に揺れた。
「アレが俺の村だよ。結構近かったろ?あと一踏ん張りだ。面倒だからあそこまで頑張ってくれ。」
「……助かります。けど“面倒だから”っていうのは言わない方がいいと思いますよ。」
「知ってるか?正直なのは人の美徳なンだぜ。」
「美しさは感じませんけど、ね。——よいしょっと。」
そんな他愛のない会話を交わしながら坂を下る。軽口を叩くカッシオの背中が、妙に頼もしく見えた。
集落に近づいたそのとき、ふと視線を向けた先で悠は違和感を覚えた。腰を下ろした老人が、作物を収穫する男性を眺めている。
風が吹き抜けた瞬間、その姿が薄く透けていく。
——え?透けてる!?
「あっ…あ、あのっ!今の人、なんか、…透けてへん?」
悠がカッシオの肩をつかまえ尋ねると、カッシオは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐ気の抜けた口調で言った。
「ん?ああ、他ではあンまり、あンまり?全くか?見ないからな。ありゃいわゆる幽霊ってやつだ。」
「“幽霊”……って、あの人がですか?」
「あのじいさんは先週死ンだんだよ。」
「え、えぇ?と、そんな軽く言うことですか……?」
「流石に死んだのは残念だけどな、事故死だし。」
「まぁ、死んでも残ってたい奴は残ってるし、飽きたらどっか行く。まあ、人間でも幽霊でも、隣人にゃ変わりねぇさ。」
「幽霊って、初めて見ました。」
「初めて見るンなら、仕方ないかもしれンが、悠、お前ずいぶん慌ててたな。その丁寧な喋り方も崩れてたし。」
「からかわないでくださいよ。」
軽口の裏に、わずかな静けさがあった。
風が吹くたび、光の粒が畑を漂い、生者と死者のあわいをゆらしている。
悠は目を細め、ぼそりと呟いた。
「……“死者と共に暮らす村”、ですか。」
「まぁそんな呼び方も、悪くねぇな。」
カッシオが笑い、陽が山の端に沈みかけた。
坂を下りきると、川のせせらぎが近くなった。
いくつもの家のあいだから、炊事の煙と人の声が漂ってくる。木造の壁に布の垂れ幕が風に揺れ、どの家にも人の気配があった。
「ここが俺の家だ。少し手狭だけど勘弁してくれ。明日になったら、村長のところに行って空いてる家か何か見繕ってもらうから。」
「何から何まですみません。」
「気にすンな。困った時はお互い様ってやつだ。」
カッシオの家は、川辺に一番近い場所に建っていた。壁にかかった網や釣り具が、彼の暮らしを物語っている。
「悪いが、悠。ちょっとここで待っててくれ。」
「はい?」
「釣ってきた魚、隣に持ってって、野菜と交換してくる。」
悠は軒先に腰を下ろし、カッシオの背を見送った。
隣家は、少し古びた木の扉に花の模様が刻まれている。カッシオが扉をノックして声をかけている。
ほどなくして、中から二人の姉弟が顔を出した。姉は十代前半、弟は七つか八つほどだろう。二人は悠に気付いたようで、どちらも好奇心に満ちた瞳で悠を見つめていた。
「……こんにちは?」
悠が恐る恐る手を振ると、姉は両手の平を胸の前に持ち上げ、こちらに見せる仕草をした。弟は悠の真似をするように笑顔で手を振り返す。
——この仕草……“こんにちは”って意味、やろうか?
そして、家の奥から女性が現れる。黒髪を後ろでまとめた、美しい女性だった。
どこか透けて見える──さっきの老人と同じだ。
——この人も……幽霊、なんか。
カッシオと女性も、同じ挨拶の仕草を交わし、穏やかな口調で言葉を交わしている。
しかし、悠にはその意味がまるでわからなかった。不思議なことに、確かに同じ「音の流れ」なのに、意味を成さない。
——え……カッシオ、今までと同じ言葉を話してるはずやのに……?
カッシオが何かを受け取り、こちらを振り向いた。
「おい、悠。せっかくだし挨拶だけしとけよ。」
カッシオに促され、悠は少し戸惑いながら立ち上がる。そして、ぎこちなく頭を下げた。
「悠……です。」
女性が微笑み、軽く頷く。悠に何かを言ってくれているが、わからない。
けれど、その微笑みから”歓迎”されていることだけは伝わってきた。
カッシオは魚の籠を軽く振って笑った。
「な? 悪い人たちじゃねぇだろ。この村の奴らは、意外と面倒見がいいんだ。」
「……でも、不思議です。言葉が、わからなかったんです。」
「はぁ?俺とは普通に話せてるだろ?」
「そうなんです。でも……あの人たちの言葉は、まったく。」
カッシオは腕を組み、うーんと唸った。
「なるほどな……何か神さまのいたずらか、俺のコミュニケーション能力が高いってことか、どっちかだな。」
「コミュニケーション能力の高さのベクトルが違う気がしますが、なんでなのですかね。」
「神のいたずらで、今だけわからンのならいいが、単純に別の言語だからってンなら一から勉強だな。」
「縁起でもない冗談を……。」
ふたりの軽口が軒先に響く。
村の向こうから、夕餉の匂いと、子どもの笑い声が流れてきた。
生と死が混じる世界の中で、それはあまりに“日常”の音だった。
村に着いた時には、夕暮れ時だったため夕食は遅くなってしまった。
しかし、カッシオは手間のかかりそうな魚のツァルを乗せて蒸した米の料理を振る舞ってくれた。
蒸籠の蓋を開けると、ふわりと立ち上る湯気に魚の脂が混じり、たまらない香ばしさが漂った。魚は小ぶりだが身がしっかりしていて、脂が米の粒に染み込んでいる。臭み消しに入れたのだろうか。刻まれたネギのような香草と、ニンニクに似た匂いの根菜が湯気の奥から顔を覗かせていた。
カッシオは大きな匙でそれをすくい、木の器に盛り付ける。
「こいつは出来立ての熱いうちに食うのがいちばんうまい。」
「……見た目はちょっと豪快ですけど。」
「中身で勝負だよ、中身で。」
一口食べた瞬間、悠の口の中に温かな旨みが広がった。
魚の出汁が米の芯まで染みていて、ほんの少し混じる焦げの香りが懐かしさを運んでくる。
——見た目は雑そのものって感じの人やのに……妙に細やかな気配りができるというか、器用な人なんよな。
「な? 悪くねぇだろ。」
「ええ。……ほっとする味です。」
「ほっとする、ね。そりゃ何よりだ。」
カッシオは満足そうに頷き、自分の分のご飯を掻き込むようして食べた。
火のはぜる音が、夜の静けさを和らげていた。外では虫が鳴き、川の流れがゆるやかに響いている。
悠は箸を止めて、しばらくその音に耳を傾けた。ふと、川の方から淡い光がちらりと揺れた。
何人かの影が、月明かりの中で並んでいる。彼らは皆、透けていた。右手で首の後ろを押さえ、左手を胸の前で握りしめ、静かに目を閉じていた。
——祈ってる?
後から聞いた話によると、右手は魂をまだ連れていかないでと願う祈り、左手は願いを捧げる仕草だそうだ。
昼間見た「両の手の平を見せる挨拶」とは違う、“切実な祈り”の形だった。幽霊たちは一言も発せず、ただ流れる川の音とともに夜の空気へ溶けていく。
カッシオはいつの間にか持ち出して来ていたお酒を湯呑みに注ぎ、見守るようにその光景を眺めていた。
「気になるか?」
「……ええ。あの人たちは、祈ってるんですね。」
「ああ。行きたい奴は行く、残りたい奴は残る。どっちも間違っちゃいねぇ。」
「……それでも、祈るんですね。」
「人間はそういうもンだ。生きてても、死んでてもな。」
風が吹き抜け、焚き火の残り火が小さく揺れた。その赤い光が、まるで幽霊たちの祈りに応えるように、ゆっくりと瞬いていた。




