第十二話 「望み」
第十三話の投稿は3/27(金)に行います。
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朝の山道崩落から、村人たちは泥と雨にまみれたまま村へ戻っていた。幸い、怪我人も死人も出なかった。それは奇跡といってよかったが──だからといって誰一人、安堵の声を上げる者はいなかった。
村長宅の囲炉裏の周りでは、村人たちがずぶ濡れの衣服を乾かしていた。火がぱちぱちと爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
しかし、火の温かさが心を温める者はいない。冷えた体を温める動作は、機械的で、どこか「そうするのが当然だからそうする」という色が濃かった。
うつむいて黙り込む者。囲炉裏を囲んだまま、虚空を眺めて動かない者。
子どもを抱きしめる母親。泣き出しそうな顔を隠すために、火を見るふりをする者。
全員の胸の奥に、昨夜の恐怖と、今朝の絶望が、どす黒く沈殿している。
ゴードンは村長としての義務を背負い、励ましの言葉を繰り返していた。
だがその声は、いつもの彼の強い響きを失っていた。
「……大丈夫だ。必ず道はある。わしらは、必ず生き延びる。」
言葉を発するたび、彼の声はわずかに震え、背中は重く沈んでいった。
鼓舞のつもりで発したその声が、逆に”焦り”を隠しきれず、村人たちの不安を増幅させていることを、彼自身が誰より理解していた。
悠は、沈黙が苦しかった。
諦めること、可能性を捨てること──それは彼の性質にそぐわなかった。
若い彼は、まだ「何かできるかもしれない」という希望を手放したくなかった。
「……山道は潰れてしまいましたが、村の対岸の崖を越えられれば、山を下りられないでしょうか?それか……川は急流ですが、完全に不可能では……。山に慣れた方が、一人だけでも抜けられれば──助けを呼びに行けるのでは……?」
言葉に縋っているのではなく、真剣に考え抜いたうえでの提案だった。
しかし、ゴードンはゆっくりと首を振った。
その目には、若者の希望を砕くことへの苦しみが滲んでいた。
「……ハル、気持ちはありがたい。だが、それは無理だ。」
彼は続けた。
「崖を越えられたとしても、そこには道らしい道はない。獣道を進めば、足を踏み外した時点で終わりだ。川は今、増水しておる……九割九分九厘、命はない。」
さらに、重く、決定的な言葉を付け加える。
「それに、今晩も襲撃があるかもしれん。一人でも欠ければ、その分だけ村の終わりが早まるだけだ。」
囲炉裏の火の前で、誰かが嗚咽を漏らした。
別の誰かが雨で濡れた顔を手で覆い、肩を震わせた。
「……もう、おしまいなんだよ。」
「村を出るのが一日早ければ……今ごろ……」
誰かの弱々しい呟きが、全体の心をさらに沈める。
ゴードンの言葉がもっともだと理解してしまい、場は沈黙してしまう。
しかし、震える声で立ち上がる者がいた。
「お、お、おれ……!い、行くよ……!俺なんか戦力になんねぇしさ!ハルの言うように、川を下ってみるよ!死ぬかもだけど……行けるかもしれないじゃんか!」
レネだった。
いつも陽気で元気な彼が、今は泣き顔で震えながら、それでも必死に言葉を紡いでいた。
父親のカルロスが、堪えきれずに号泣しながら声を上げた。
「……バカが……お前が無駄死にするだけだ……。だが……よく言った……。ほんとに……よく、言った……!」
村の空気は、涙、後悔、恐怖、諦め、希望の残滓──それらが混ざり合い、重く、湿った闇のようになっていた。
誰もが疲れ切っていた。昨晩の襲撃、夜明けの崩落、そして逃げ道が絶たれたという現実。
「……なんでだよ……」
ぽつりと、誰かの声が漏れた。
「龍は……村長のおじいさんを助けてくれたんじゃ、なかったのか?」
その言葉は、誰に向けるでもなく、しかし誰もが抱えていた疑問を突きつけるものだった。
別の村人が、抑えの効かない苛立ちをにじませて続ける。
「昔は人を救ってくれたって話なのに……なんで今は、サラビをけしかけるような真似を……。あいつが怒ってるから、こんなことになってんじゃないのか……?」
「やめろ。」
ゴードンが低く制した。しかしその声自身に迷いがあった。
「龍は……わしらには測れぬ理で生きておる。敵か味方かなど、わしらの物差しで決められる存在ではない。……だが、どうにも分からん。なぜ、今……。」
囲炉裏の炎に照らされるゴードンの顔は、村長としての責務と、老いた一人の男としての不安の狭間で揺れていた。
悠は胸の奥に、小さな違和感のようなものを感じていた。
——単に敵なら、こんな遠回しなことをするやろうか?
——殺すだけなら、龍が自分で手ぇ下したらええ。
——なんで“サラビ使って”襲ってくるんや……?
「……龍と、話すことはできませんか。」
悠の言葉に、囲炉裏の熱が一瞬冷えたかのような空気が流れた。
「龍と、対話を試みるんです。敵なのか、誤解なのか、それを確かめない限り……。」
「このままでは、ただ怯えて死を待つだけです。」
「でもよ、悠。対話と言っても龍?がいる黒い沼にはサラビもいるンだぞ。」
カッシオが嗜めるように無視することのできない事実を告げる。
「でもよぉ……」
レネが袖で涙を拭いながら口を挟む。
「サラビもだけど、その龍もなんかおかしいって、苦しんでるように見えたってトールさん言ってたじゃんか。」
「黒い沼だとか、理が戻らねえとか……。龍も、本当は怒ってるとかじゃなくて…事情があるのかもしんねぇよ……?」
「ええ。もし龍が怒っているのなら、理由を聞きたい。」
「苦しんでいて助けがいるのなら、方法を探したい。このまま何もしないまま全滅するのを待つより、ずっと……ずっといい。」
「近づくだけで死ぬかもしれねぇんだぞ?」
「第一、トールたち幽霊は黒い沼に近づくと存在が揺らぐんだろ。あの場所自体が危険なんだ!」
「それに、……もしかしたら、もしかしたらベルトラムさんが山道が塞がっているのを見て、人を連れてくるかもしれない。」
それらの言葉にも、悠は静かに首を振った。
「確かに、少し近づいただけでカッシオは倒れましたし、幽霊にとっても危険なんでしょう。でも、命に関わるほどの危険にあってはいません。」
「確かに、ベルトラムさんが人を呼んで山道が通れるようになる可能性もあるでしょう。でも、それがいつになるかはわかりません。今、できることをしないといけないと思います。」
「僕は、龍と対話すべきだと思います。もちろん言い出しっぺの僕が行きます。行かせて…もらえませんか?」
「悠が行くンなら、当然俺も行くぜ。」
カッシオは覚悟したようににやりと笑う。
「お、俺も行く!」
レネも震える膝を抑えるようにして立ち上がって言った。
「〜ッ!若者に死に急ぐような真似はさせられん!駄目だ!馬鹿なことを言うんじゃない!!」
ゴードンの怒声に、家の空気が震えた。
悠は、ゴードンが怒る姿を見るのは初めてだった。今まで厳しさを見せることはあっても、怒る姿をゴードンが見せたことがないことに初めて気がついた。
「……なんでだよ、親父。俺たちは、何かしなきゃいけねぇだろ……?」
カッシオの声は震えていたが、それでも揺るがなかった。
ゴードンは歯を食いしばり、両の拳を握りしめる。
「お前たちに……死んでほしくないからだ。今晩また襲撃が来るかもしれん。村の守り手が減れば、弱った者、子ども、女たちが先にやられる。それに、黒い沼は幽霊ですら近づけん。生者が行って無事で帰れる保証など……!」
言いながら、ゴードン自身が追い詰められていく。
守りたいものが多すぎて、選べない。
村長としても父としても、胸が裂けるほどの苦しみを背負っていた。
そこで、悠が一歩踏み出した。
「ゴードンさん……。あなたが村を守りたい気持ちは、誰よりも強いと思います。でも……“守るために何もしない”のは、守ることにはならないと思うんです。」
「……。」
「山道は崩れた。今晩また襲撃が来れば、持ちこたえられないかもしれません。だったら……望みがある場所に行くしかない。」
カッシオが続けた。
「俺らは行く、じゃねぇ。“行かせてください”だ、親父。村のことを考えるなら……何かを変えに行かなきゃ駄目なんだ。」
レネも涙目で叫ぶ。
「お、俺……怖いよ…!でも……何もせずに死ぬなんて、もっとイヤだ!誰かが行かないと、誰も助からないんだろ……!」
静寂が落ちた。
ゴードンは視線を落とし、震える手で顔を覆った。
「……わかっとる……。わしだって、本当はわかっとるんだ……。」
長い沈黙のあと、ゴードンはゆっくりと顔を上げた。
その目は、もう怒っていなかった。
ただ、村長としての覚悟と、父としての痛みが滲んでいた。
「……行け。だが、絶対にお前たちだけでは行かせん。わしも行く。若者だけに危険を背負わせるわけにはいかん」
「村長……!」
「お前たち若い力が必要なのは確かだ。だが、導く者も必要だ。それに……龍がおるなら、祖父の名も……わしが持っていかねばなるまい。」
家の中の空気が、緊張から決意へと変わっていく。
「ボルドー、すまんがお前は残って村を支えてくれ。わしらが帰ってこんかった時、その時みなを導く者が村にいなくてはならん。」
「……わかったよ、親父。だが、生きて帰ってこいよ。俺も若くはないが、俺だってずっと親父の息子だからな。親父が死ねば悲しい。」
「ふっ、わかっとる。」
ゴードンの息の抜けるような微かな微笑む声を聞いて、村人たちの間に覚悟の色が広まった。
「ただ、レネ。お前は来てはならん。もう子ども扱いする歳ではないが、それでも若すぎる。これは年寄りの我儘だ。…わかってくれ。」
「……っ!」
レネは口を開きかけたが、ゴードンの真剣な眼差しに言葉を失った。
抗議の声は喉まで上がっている。しかし、それ以上に、村長としての、そして村の父のような存在としてのゴードンの想いが強く伝わってくる。
「レネ、お前の気持ちはわかった。怖くても立ち上がったその勇気は……誰よりも尊い。だが、勇気と無謀は違う。村には子どもが少ない。お前がいなくなれば、残された者たちはもっと苦しむ。」
「……くそ……っ……」
レネは拳を握りしめ、唇を噛みしめて俯いた。
その小さな背中をカッシオがそっと叩く。
「お前の分まで、俺らが行ってくる。安心して待ってろ……とは言わねぇけどよ。信じてろ。」
レネは無言のまま頷いた。その瞳には涙が滲んでいたが、それでも声は上げなかった。
その時、ふわりと空気が揺れた。
「……我々も近くまでなら同行しよう。」
声の主はライエンだった。
彼の隣には、トールも立っていた。
「黒い沼に近づくのは難しいが、道中までは問題ない。危険が迫った時、お前たち生者では気づけぬこともあるだろう。」
トールも静かに続く。
「わしらには……手助けできることが、まだある気がするんだ。黒い沼の“何か”は、死者にも生者にも影響している。ならば……わしらも行く理由は十分だろう?」
ゴードンは二人の幽霊を見て、ゆっくりと頷いた。
「……恩に着る。頼れるものは、たとえ姿が薄くとも頼らせてもらうさ」
ライエンはかすかに微笑んだ。
トールも胸を張るようにして頷いた。
家の中の空気は、もはや恐怖よりも決意の色が強くなっていた。
そして、悠が静かに言う。
「……行きましょう。龍に会いに——黒い沼へ。」




