第十話 「正体」
翌朝、体を十分に休めた後、悠たちは村長宅の蔵へ向かっていた。ゴードンとボルドーも一緒だ。
山の気と黒い沼にいた”何か”についての記録がないか、村長であるゴードンに尋ねたところ、歴代の村長の手記や村の外部との取引の帳簿が蔵にあると教えてくれた。
重い扉を押し開けると、埃の匂いが鼻を突き、古い木の香りと混ざった独特の気配が辺りを満たしている。
積み上げられた箱や書物は足の踏み場もなく、まるで何十年もの時間がそのまま溜まっているかのようだ。
「わしの祖父がまめな人でな。よく日記をつけていたのを覚えておる。他にも歴史書みたいなものもどこかに保管してあったはずだ。」
ゴードンが静かに声をかけ、悠たちは黙って頷き調査を始めた。
棚の奥を探り、埃を払い、箱をひっくり返し、書物を積み上げ、時には箱ごと倒れそうになるのを支えながら。
ある文机の中から一冊の手帳が見つかった。
悠が手帳を取り上げると、ゴードンの表情がわずかに和らいだ。
「確かそれが祖父の日記帳のはずだ。」
ページをめくると、ゴードンの祖父が記した文字がびっしりと並んでいる。
古い言葉であることもあり、悠には読めそうもない。
「俺が見てみよう。ある程度は古語も読めるからな。」
ボルドーが悠から手帳を受け取る。
「えっと…?『山できのこを…』これは違うな。」
「『蛇に足を噛まれたが、毒はなかった。』普通の蛇の話か。」
「お、これは…、『今日、わたしは道を山の中で見失った。しかし、助けてくれるものがあった。わたしは問うた——あなたは神ですか?彼は言った——わたしは大いなる蛇です。確か、歴史の本で勉強したことがある。山には大いなる者がいると。』」
「……大いなる蛇ですか。その日記にある歴史の本を見てみたいですね。探してみましょう。」
「でもよ、大いなる蛇って、サラビのことなンじゃないか?」
「しかし、妖とは書かず”大いなる者”がいると書いてあるのなら、サラビではないのではないか?」
一行は再び棚の中へと手を伸ばす。
古びた書簡、ほころんだ帳簿、湿気で癒着した紙束。
そのどれもが触れれば崩れそうなほど古く、読むのにも息を止めるような集中が必要だった。
「これを見てみろ。」
ボルドーが持ち出したのは、革をなめして作られた表紙を持つ古い本だった。
頁を開くと、そこには絵のような文字とともに、不思議な文が書かれていた。
「“山の気、怒れる時は、風がうずまき、川は荒れる。”……」
読み上げたボルドーが顔を上げる。
「これは…自然現象を、擬人化していると思いそうだが、日記を見た後ではな…。」
「こっちの本にもでっかい蛇の絵があるぜ。」
カッシオが持ってきた本をボルドーが受け取り、読み上げる。
「”大いなる者は山の化身である。彼は山の管理者である。山を害すれば報いがあり、また、山を大切にすれば平穏を受けられるだろう。子々孫々に至るまで忘れてはならない。”」
「平時なら“山を大切にしましょう”という教え話に見えるんですけど……。」
「大いなる者は存在すると考えるのが良いだろう。そして、それはサラビではない。大きな蛇のような姿をしている。」
ゴードンがこれまでに調べてわかったことを手帳にまとめ書きをする。
「それ、色んなおとぎ話に出てくる”龍”ってやつじゃねぇの?」
「”龍”と呼ぶべき存在かもしれんのう。祖父からこのような話を伝え聞いた覚えはないのだが……」
「龍だとかは知らなかったのではないですか?村長のおじいさんも大きな蛇のような妖だと思っていたとか?その大いなるなんとかさんも自分が”龍”だとは言わなかったんでしょう?」
そのとき、遠くからばたばたと走ってくる音がした。
慌てたミランダが蔵の扉に手をつき息を切らして告げた。
「ふ、はあ…トールさんが帰ってきたよ…!」
———
悠たちが蔵で書物を漁っていたころ、村では若者たちが村長宅周辺のさらなる防備を整えていた。
また大人たちは農地の最低限の世話を続けていた。
トリリシャたちも家に必要なものを取りに戻っていた。
農地を軽く見て回っていたその時。
白く淡い光をまとった人影が、村の道をゆっくりと歩いてくるのが見えた。隣にはライエンが付き添っている。
「お父……さん……?」
最初に声を漏らしたのは、トリリシャだった。
白い煙のように透き通った体。
しかし、その顔、その佇まい——見間違えるはずがない。
「……あなた…?」
リオーネの声が震える。
幽霊であるはずなのに、彼の姿はどこか確かな存在感を帯びていた。
「……驚かせて、すまんのう。」
「帰るのが遅くなってしまった。」
その声は、かすれてはいたが、確かに生前の彼の声だった。
「わしはみんなに伝えてくる。」
そう言ってライエンはその場を離れた。
「…!おじいちゃん!!」
アイネも気づいて、トールの胸に飛び込むが、すり抜けてしまう。
「すまん、もう抱くことはできんが……お前の顔が見られてよかった。」
涙ぐむアイネ。その後ろから、テオが飛び出してきた。
「おじいちゃん帰ってきたの!?本当に……!?」
トールは孫を見て、ゆっくりと腰を落とした。
「……テオ。心配かけたな。」
その一言で、テオの目に涙が溢れた。
「さみしかった……でも……でも、よかった……!」
小さな身体は抱きつこうとするが透けてしまう。それでも、トールは優しく微笑んだ。
「触れられんが……無事な姿を見られただけで十分じゃ。」
「幽霊にもなれなくて、もう会えないんだと思ったわ。」
そう言いながら、リオーネは涙ぐんだ。
一家が再会の喜びを分かち合っていると、悠たちも村長宅から走ってきた。
「トールさん!!」
「ほっほっ、お前たち遠征隊の者たちを見かけんから心配しておったが、無事に帰ってこれたようで良かった。」
「……おお、トール。また会えて、良かった。」
「お前を死なせてしまって本当に申し訳なかった。」
ゴードンはトールに頭を下げる。
「ゴードン、孫たちを守ってくれたんだ。お前が気に病むことはない。」
「……唯一気になるとしたら、わしの秘密が透けて見えてしまうことかな?」
トールはおどけるように頭に手をやり、笑ってみせる。
「…みんな、気づいてましたよ。おとうさん。」
リオーネは生前と変わらない様子のトールに涙ながらに微笑む。
「…それで、トールじいさんは今までどうしてたンだ?何でいなかったンだよ。じいさんを襲ったのは結局サラビなんだよな?」
トールは静かに頷いた。
「……ああ。サラビで間違いない。」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「蛇のような見た目だと言われておったが、実際はもっと太く、丸太のようにずんぐりとした胴体だ。頭はあるが、手足はない。……どちらかといえば手足のないトカゲ、と言う方が近いだろう。」
「連中に襲われた後、連中がどこでどうしているのか、それを確かめなくてはと思ってな。村を離れておったんだ。」
トールが目を細めて山の方角を指差す。
「…そういうことだったのか。」
「話はわかった。ひとまず、わしの家に行こう。ここで話すような内容でもないのだろう?」
ゴードンが返事を待たないで歩き出す。
悠は家族との再会を喜ぶトールの後ろ姿を見て嬉しく感じた一方で、死が永遠の別れに直結しない感覚には慣れそうもないと感じた。悲しいのは確かで、残念だが。
———
家に着いたあと、ミランダの案内でリオーネが子ども達を別室に連れて行った。そして、囲炉裏を囲むようにして一行が腰を落ち着けるのを見届けたトールは、何を見て知ったのかを話し始めた。
「わしが死んだ時はよう覚えておらんが、気付けばこの頼りない姿となっておってな。連中が引き上げる寸前だったのだ。」
「慌わてて追いかけると、川を遡るようにして山を登って行ってな。頂上近くの窪地にたどり着いた。そこに——黒い沼があったのだ。」
「それって俺らも見た——」
カッシオが眉を顰める。
「…本当に入れ違いだったのだな。危ないところだったの。」
「そのただの水とは思えん黒い沼の中にサラビたちは入っていった。そこで腹に溜めたものを吐き戻し、代わりに黒い沼の水を飲んで……それを繰り返しておるようだ。まるで、あの沼に縋るように。」
彼の表情が痛みに歪む。
「それだけではない。」
トールは目を伏せ、低く呟いた。
「沼の中央に巨大な影が見えたのだ。」
「巨大で、息をしていた。水面の下に横たわる、長い体。ゆらりと動いた気配があり、それに気づいたが、——見たこともない存在だった。」
「それは龍だったのではないですか?」
悠が、先ほどの調査結果を確かめるべく尋ねる。
「……どう、だろうの。ただ、黒い沼に近づくと、どういうわけか……わしは“存在が揺らぐ”のを感じてな。遠くから見ることしかできなんだ。」
「幽霊の存在が……揺らぐ?」
悠が眉を寄せる。
その疑問に、ゴードンがゆっくりと頷いた。
「幽霊は、この村の外にはほとんどおらんだろう?あれは、この山から下りることが“できん”からだ。境界を越えようとすると、体がほどけていくような感覚を覚えるそうだ。」
「黒い沼でも……同じ現象が起きたのだろう。」
そこで、静かに聞いていたトールが補足する。
「……黒い沼のあたりは、特に強い“拒絶”がある。近づけば近づくほど、形を保てなくなるのを感じた。だから、踏み込むことはできんかった。」
トールの顔は、深い痛みを思い返すように曇った。
「それだけではない。あの影……苦痛に耐えてうめいておるようだった。」
「黒い沼は、傷口から漏れた膿がたまり続けているように見えた。」
その比喩を聞いた瞬間、家の空気がひやりと冷えた。
誰も、言葉にしたくなかった。口にした瞬間、それが本当になってしまいそうで。
しかし、ゴードンは村長としてあえて口にした。
「我々が……考えていた以上に、山はまずい状況なのかもしれん。」




