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愛する妻を傷つけられた王子は、静かに復讐することにした。

作者: 葦ノ冬夏


 白いレースがふわりと舞った。鏡に映る自分の姿に、ロベリアは思わず息を呑む。いつもの地味な自分ではない——純白のドレスに包まれ、メイドの手によって整えられた化粧と髪型は、まるで別人のようだった。

 ロベリアには、大好きな婚約者がいる。シェル第三王子——温かな心を持つ賢い青年だ。現在は医学博士を志し、日夜勉学に励んでいる。社交界では'地味令嬢'と囁かれ、二十歳になっても婚約者が決まらなかったロベリア。シェルもまた、他の令嬢たちから魅力的に思われることなく、婚約者がいなかった。——売れ残り同士。そんな心ない言葉とともに決まった婚約だったが、ロベリアにとってはこれ以上ない幸福だった。

 

 重厚な扉が開かれると、会場からまばらな拍手が聞こえてきた。招待客は皆、王侯貴族。しかしその多くは無表情で、義務的に式に出席しているような雰囲気が漂っていた。


 そんな中、ロベリアの視線は一人の女性を捉えた。妹のシノア——美しい顔立ちに、憎たらしいほど完璧な笑みを浮かべている。だが、彼女は何も気にしないことにした。今日は自分の人生で最も大切な日なのだから。


 シェルの元へ歩を進める。深い青色の瞳には、愛おしげな光が宿っていた。

 ——やっぱり、シェル様は私の運命の人。

 そして二人は甘い口づけを交わした。


 パーティが始まると、すぐにシノアとその婚約者——王太子バロンが近づいてきた。


「お姉様、この度はご結婚おめでとうございます」


 その声色は祝福を装いながらも、嘲りを隠しきれていなかった。シノアの隣でバロンが馬鹿にしたような笑いを浮かべながら言う。


「売れ残り同士でお似合いじゃないかシェル。勉強しか取り柄のないお前が女体を手に入れられるとは感動したよ」


 シェルの表情が一瞬にして強張る。唇を噛み締め、怒りを抑えるような表情を浮かべた。


 彼はロベリアを心から愛している。初めて出会った時から、彼女に魅了されていたのだ。今までの令嬢たちは王子という肩書きにしか興味を示さなかったが、ロベリアは自分という存在そのものを愛してくれた。そんな大切な人を『女体』呼ばわりされたことに、シェルは心底腹を立てていた。


「わたくし、お姉様にとっても感謝しています。だってお姉様が地味だったから、わたくしとバロン様が結ばれることができたんですもの」


 元々バロンはロベリアの婚約者だった。だが彼はロベリアを一目見るなり彼女を罵り、婚約を破棄したのだ。

 『お前のような女と僕は絶対に釣り合わない』と、屈辱的な言葉を浴びせた。


 そして代わりに美しく可愛げのあるシノアがバロンの婚約者になったのだ。


 ロベリアは勇気を振り絞って言った。


「……今は、シェル様という素敵な方がいるので」


 二人はその言葉を聞くなり、まるで面白い冗談を聞いたかのように声を上げて笑い出した。周りの貴族たちもつられてクスクスと笑い始める。


「こんな男が素敵? 君は目が腐っているようだ。部屋に引きこもって医学だの何だのと低俗な学問を学ぶ王子など国の恥だ」


 二人の嘲笑に、シェルの拳がわずかに震えた。しかし彼は何も言わなかった。ただ、ロベリアの手をそっと握り締めるだけだった。


 *   *   *


 王宮近くの大きな屋敷——ロベリアとシェルの新居だ。石造りの重厚な建物で、広い庭には色とりどりの花が植えられている。ようやく平穏な生活が始まる、と二人は安心していた。

 しかし、結婚式から数週間後、何者かによる執拗な嫌がらせが始まった。


 まず始まったのは、誹謗中傷が書かれた大量の手紙の投函だった。『売れ残り夫婦』『国の恥』『早く消えてしまえ』——読むに耐えない言葉が綴られた手紙が、毎日のように玄関先に山積みになっている。

 ロベリアが管理していた庭の花壇は何度も荒らされ、丹精込めて育てた薔薇の花々は根こそぎ引き抜かれた。屋敷の白い外壁には、奇抜な色のペンキがバケツでぶちまけたように塗りたくられている。

 王宮の厨房から配膳される料理にも細工がされていた。卵料理を口に含むと、じゃりっという嫌な感触とともに殻の破片が舌に当たった。肉料理の一部は明らかに腐っていた。まさにやられ放題の状態だった。

 犯人が誰なのかはわかっていた。バロン、そしてシノア——次期国王夫妻に命令されれば、王宮の使用人たちは何でも従うだろう。


 夜、寝室でシェルはロベリアを優しく抱きしめながら言うのだった。


「僕と結婚したばかりに、本当に申し訳ない」


 彼の声には深い自責の念がこもっていた。だがロベリアは、いつものように微笑んで返した。


「私は大丈夫です。あなたに一生添い遂げると決めましたから」


 そんなロベリアの健気な笑顔を見つめながら、シェルは拳を強く握り締める。胸の奥で燃える怒りと悔しさを必死に抑えながら、心の中で呟いた——必ず奴らを地獄に落としてやる、と。


 そして彼は、地下の一室で夜通し研究に励むのだった。分厚い本を読み漁り、薬草を調合し、数え切れないほどの実験を繰り返しながら。


 *  *  *


 半年が過ぎた、ある土砂降りの雨の日。灰色の雲が空を覆い、雷鳴が轟いている。まるで天が怒っているかのような、激しい嵐の夜だった。


「お姉様っ!!!!!」


 屋敷の扉を勢いよく開き、そう叫んだのはシノアだった。いつもの優雅さはどこにもなく、美しく整えられた髪は雨に濡れて乱れ、顔は青ざめている。高価なドレスも泥で汚れ、まるで別人のような姿になっていた。


「誰か、誰か……お姉様……!」


 彼女は大慌てで屋敷に足を踏み入れようとした。その瞬間——


「こんにちは。シノア王太子妃。そんなに焦ってどうされましたか?」


 奥から現れたのは、シェルだった。いつもの温和な表情とは違う、どこか不敵な笑みを浮かべている。


「あ……あぁ、シェル、シェル様。いまわたくしの、わたくしのバロン様が……!!」


「疫病に苦しみ死にかけている、と?」


 シェルの言葉に、シノアの顔が絶望に染まる。


「貴方様が、疫病に効く薬を発明したと聞きました……! もう既に民の者に配り始めているとかっ……ですからバロン様にも薬を」


 彼は静かに笑った。いや、嗤った、と言った方が正しいだろう。まるで長年の恨みが今この瞬間に解放されるかのように、ただただ嗤って言った。


「バロン……僕の兄です。小さい頃から、いつもいつも彼は僕のことを罵った。そのせいか自分に自信を持てなかった」


 雨に濡れ、地面に膝をつくシノアに数歩近づきながら、シェルは続けた。


「でもロベリアは、彼女だけはそんな僕のことを愛してくれた。だから、僕は絶対に——お前らを許さない。これは、罰だ」


「なんでっ……! 本当にお願いします。お願いしますっ!! このままだとバロン様は……っ。そうです、バロン様は王太子ですよ!? 王太子を見殺しにするなんてお前は……!!!」


 シノアはシェルの胸ぐらを掴んだ。だが彼は全く動じず、目の前で薬を渡せと懇願する女を睨みつけた。


「国王と王太子は疫病で死にかけ、第二王子は夭折、だが第三王子である僕は生きている。だからこの国は滅ばない。もちろん父である国王は助けますが」


 その瞬間、シノアは全てを理解した。国王は老人だ。あと十年もすれば、シェルが国王になるだろう。そして自分は、バロンという最大の後ろ盾を失い、王太子妃という地位も失い——何も残らない。


 シノアは絶望にひしがれ、泣き叫んだ。


「ふざけるな、ふざけるなふざけるな! ただの売れ残りの根暗夫婦がっ!」


 声が枯れるまで罵倒し続けるシノア。だが、そんなことは意に介さず、シェルは静かに扉を閉めて呟いた。


「——医学を侮るな」


 *  *  *


 その後、シェルの発明した薬によって王国全土に広がった疫病は収束した。元は西側の小国で流行していた病だったが、シェルは王国にもそのうち被害をもたらすと予測し、密かに薬の研究をしていたのだ。


 バロンは疫病により命を落とし、国王は自分と民の命を救ったシェルを次期国王に指名した。シノアはシェル毒殺を企てたことが発覚し、投獄された後、舌を噛んで自殺した。


 彼は、あの嵐の日の出来事をロベリアには話していなかった。自分の隣で微笑むロベリアがただただ愛おしく、何より大切だったからだ。


 王太子の執務室で、シェルは窓の外を眺めていた。美しい庭園では、ロベリアが薔薇の手入れをしている。彼女の穏やかな笑顔を見つめながら、シェルは小さく微笑んだ。


 愛する人のためなら、どんなことでもできる——それが、物静かな第三王子の、誰にも知られることのない復讐だった。

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